1.伝 道
明治34年9月20日
伝道とは、神の道(ことば)を伝えることである。ゆえにこれは、主に舌と筆によって為される仕事である。ゆえに一見すれば至って容易な、かつ皮相(うわべ)の仕事のようである。即ち米を作り衣を織るのに比べて、不生産的な仕事のように見える。
なるほど伝道は、主に言葉の伝播であるに相違ない。しかし、言葉は必ずしも音声ばかりではない。言葉にも色々な種類がある。意味のある言葉がある。意味のない言葉がある。重い言葉がある。軽い言葉がある。飴(あめ)のような言葉がある。剣のような言葉がある。
同じ舌で語る言葉にも、貴いものもあれば卑しいものもある。人を活かすものもあれば、殺すものもある。世に言葉ほど安価で、言葉ほど高価なものはない。
伝道は、言葉の仕事である。即ち、信仰(確信)を発表する言葉の仕事である。言葉とは、「事の端(は)」であって、自分のうちに大事実が存していなければ、出るものではない。「夫(そ)れ心に充(みつ)るより口に言はるゝ也」と聖書に書いてある。私達は、心に溢れて語るのである。言葉は信仰の溢出(いっしゅつ)である。
フランス革命者の一人であるモンテーンという人は言った。「言葉は物である」と。伝道師は言葉を売る者であるから、彼は世にただ空を供する者であると思うのは大間違いである。伝道師の言葉は空ではない。
物である。
実物である。彼は決して社会の無用物ではない。
世に実は、言葉ほど貴いものはない。シェークスピアの劇曲は、インド帝国よりも貴いとは、世によく知れ渡ったカーライルの言葉である。イタリア国第一の宝であるダンテの神曲も、やはり言葉である。ロシア皇帝が所有しているCodex Sinaiticusという何千万の富を積んでも得ることのできない聖書の写本も、やはり言葉である。
もしドイツにルターの言葉が無かったならば、たとえ数百のビスマルク、千のモルトケがあっても、今日のドイツは無かったに相違ない。
マンチェスターの製造業や、オーストラリアの牧畜業だけが今日の英国を作ったのではない。ウェスレー(
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Wesley )、ウイットフィールド(
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Whitefield )の説教の言葉は、英国にとってはヨークの鉄山やランカスターの炭鉱に優る富源である。
国に真正の言葉がないために、国が滅びた例は沢山ある。国家の不幸と言って、言葉の飢饉ほどのものはない(アモス書8章11節参考)。
ゆえにパウロは、「殊に慕ふべきは預言する事なり」と言っている。神の言葉を語る事(預言)ほど世に貴い仕事はない。人も国家も、実はこれによって起つのであって、金や銀や剣や軍艦で建つのではない。風よりも軽い言葉の中に、生命与奪の権が籠(こも)っている。
伝道師と成れ、青年よ。伝道師と成って、人と国とを救え。
「1.伝道」完
2.私が聖書研究に従事するようになった由来
明治34年9月20日
聖書を研究しようとされている諸君のために、私が聖書を研究するようになった来歴を述べて置くのも、それほど無益なことではあるまいと信じる。
元来私は、農業教育を受けた者であって、聖書については、特別に講釈などを聞いたことはない。それにもかかわらず、キリスト教を信じてから二十余年を経て、ますます聖書の研鑽を重要視し、大胆にもこれに関する雑誌まで公刊するようになったのであるが、その間には決して短くはない経歴もあれば、込み入った因縁もある。
もちろん私は、これを宣教師に強いられたこともなければ、また聖書を説かねばならないという世上の義務も有していなかった。父母もこれを要求せず、友人も敢えてこれを勧誘しなかった。それにも関せず、私が聖書研究を、一生の事業とするようになったのは、実に止むを得ない事情から出たのであった。
甚だ高慢な言い方ではあるが、少なくともこの事は、ごく清潔な思想から湧いてきたのであって、私的欲情がこれを促したのではないことは、明確に断言することができる。
第一に私を聖書の研究に引き入れたのは、やはり自分が専門としていた実業問題であった。私は常々感じていた。それは他でもない。日本の実業の不振は、資本の欠乏や実業教育の不完全ではなくて、一に人心道義の頽廃にあるという意見であった。詰めて言えば、実業問題は即ち宗教道徳の問題であるという考えであった。
忘れもしない。私が本職として従事した実業をなげうったのは、明治二十三年の夏―――ちょうど今頃で、たまたま漁業調査のため、房州に出張した時のことであった。そこに神田吉右衛門と呼ぶ老人がいて、毎夕二人で種々の雑談を試みた。
ところがある夜の事、神田老人は切に嘆息して、いくらあわびの繁殖を図っても、いくら漁船を改良し、新奇な網道具を工夫しても、彼等漁夫たちを助けてやることはできないと、熱心に話し出した。私はこの話を聞いて、非常に脳漿(のうしょう)を刺激された。
このことについて、深く考え込んでいた最中に、こんな話を聞かされては堪らないと思い、私はたちまちある決心を強めたのである。それと同時に、今までの職業に、何だか張り合いが無くなってきて、空気を打つような気持がした。
いかにも漁夫の生涯ほど不憫極まるものはない。今年は大漁だから、さだめし裕福になるだろうと思っていると、鮭魚(さけ)が網に入れば、すぐそのまま料理屋に駆け込んで、一夜に百円も二百円も費やすという始末である。
儲けた金銭(かね)で、借金を返そうという心掛けもなければ、貯蓄しようという考えもない。名案、新法、大骨折り、大利益、これらは全てみな、彼等の放蕩を増長させるばかりである。東西至る所の海辺、ニシン捕り、アワビ捕り、いずれも絶望の状態であった。
ここにおいて、私はそのような者たちに金銭を与えるのは、反って国家を貧弱に陥れるもとではないかという疑問を起こした。それから越後や佐渡島も巡回してみたが、いずこも同じ秋の夕暮れで、いつも同じ感慨、同じ結論に達した。私はもはや実業をやるべき勇気を失ってしまったのである。
それから私は、慈善事業を研究したいと考えて、アメリカに渡航し、白痴病院内で白痴の尻まで拭ってみたが、ここでもまた一つの疑惑が生じて来た。調べてみればみるほど、慈善事業はつまらないものである。
慈善事業とは、放蕩息子の梅毒(かさ)を治療してやるようなもので、これには梅毒以上の治療物がある。慈善は一つの方法であって、最後の目的ではないと考えた。そこで再び空気を叩いているような気持がして、アマースト大学のシーリー先生を訪れて、遠回しに、教育の方針を質問した。
先生はおもむろに口を開いて、私には教育の方針というものはない、ただ私は主の導きに頼るのみであると答えられた。先生の書斎に行くと、先生は一枚の写真を出して見せて、この写真は二年以前に亡くなった妻の面影である。彼女は既に天国に行って、貴君や私が来るのを待っているのだと、思わず両の目に涙をたたえられた。
私は、もう堪らないような気がした。しかしそれと同時に、今までの疑念(うたがい)が全く晴れてしまった。学問の目的も分かった。事業の目的も分かった。政治や歴史を研究しても、慈善事業を調べてみても、同胞兄弟が救われて、神の栄光に与ることができなければ、何のための学問か、何のための慈善事業かと、一途に考え込んだ。
しかしなお、特別に聖書を解釈しようという観念は起こらなかった。聖書の注釈は他人に任せて、私はやはり実業に尽力しよう、記者になろう、教育をやろうという考えだけであった。
しかし、段々と日本現時の宗教界を観察してみると、真面目に熱心に聖書を研究しようという人はごくわずかで、暁天(ぎょうてん)の星の如くであった。殊に外国の神学校の卒業先生が日本に帰ってきて、銀行の支配人や商店の番頭や政府の官吏となる傾向を見ては、不肖私のような者でも、伝道の一念が俄然として動かざるを得なかったのである。
ゆえに私が諸君の前で聖書の解釈を試みるのは、父母の要求、教師の誘導、肉体上の境遇によってそうするのではなくて、実に止むを得ない事情因縁から来たものである。
昨年から「聖書之研究」を発刊して戦闘を開始したが、今日に至っては、何か手応えがあるように感じる。特に昨夜の祈祷会は、私にとって真に真に嬉しかった。私の演説の力で、鮭魚(さけ)が百万トン上がっても、それは嬉しくはない。人間一人を神に紹介した方が、数十倍以上の大満足である。
聖書聖書と言えば、多数の人はうるさいと思い、たまには社会事業をやれとか、慈善事業をやれとか催促される。それはやるつもりである。新聞社でも一生懸命になることがある。
けれども、やって一番手応えの有る事は何かと言うと、それは天国の福音を説くことである。しかもこれより有益な仕事はない。死に際になって、公債証書がいくら溜まったかとか、大きな機械を発明したとか、学校をいくつ設立したとか、そんなことでは安心して死ねない。
どれだけの人間が罪業を悔改め、どれだけの人間が、私達の紹介によって、キリストの救いに与ったか、それを聞きながら死ぬより愉快なことはない。
クラーク氏と言えば、札幌の農学校に来て、キリスト教を私達に伝えてくれた恩師である。彼の歴史は、明治の日本宗教史の肝要な一部分を占めている。クラーク先生がいなければ、この夏期講談会もなかった。クラーク先生がいなければ、失礼ながら大島君も一生意地の悪い人で終わり、私もまた西野文太郎(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E6%96%87%E5%A4%AA%E9%83%8E )の二の舞をして、死んでしまったかも知れない。
先生が札幌に留まったのは、わずかに八カ月であった。聖書五十冊を横浜で購入すると、人は大いにその無謀を笑った。先生は顧みることなく、聖書を学生に配った。今になって往時を追慕すれば、実に感懐に耐えない。
彼は鉱物学者、殊に無機化学は、すこぶる得意の科目であった。南北戦争では少尉から大尉に昇進して、後には大佐(カーネル)と呼ばれた。それだけではない。彼はマサチューセッツ州に農学校を建立して、生理植物学者として評判を上げるかと思えば、たちまちアマーストの市街に水道を引くという、千変万化の英傑であった。
彼が札幌の学校を辞して、帰米した後の計画は、船の上に世界大学校を築くということであった。それで彼の計画は、その船に教員や生徒を乗せて、世界を周航しつつ、学問を研究するということであった。
彼は実に野心家の好代表であろう。しかしついには鉱山に失敗して、彼の最後は甚だ悲惨な状況であったという話である。彼は臨終の床にただアマーストの牧師を一人呼んだ。そして言うには、私の六十年の生涯で喜びというのはただ一つ、日本の農学校に八カ月間いて、聖書を広めた一事である、と言った。
諸君よ、学術上の発見や、有名な第二十一連隊を率いて奮闘したことは、彼にとって生前の愉快の一つであったに相違ない。しかし、それらは、臨終の床において、少しも彼を慰めるには足りなかった。しかし、小日本―――日本北海の一部に、ただ数十冊の聖書を広げたその一事が、彼の死を慰めたのである。
私達が現世の苦闘を終えて、死を迎える時に、私達が説いた福音が、耳から耳に伝わって、多くの人々が宇宙の神を見つけたと聞くならば、どんなに愉快な心持がしようか。
私は顕微鏡を扱うことも好き、測量器具を抱えて駆け回ることも好きである。今の政治界に入って、まさか牛尾につこうとは考えない。諸君も代議士となって国会に登ることは、あえて難しいことではないが、しかしやったところで、何の価値があるか。甚だつまらない話ではないか。
なお進んで、いわば私が今日やっている聖書の研究は、農学士という卒業証書に対してやっていると言っても差し支えはない。実業の振興も、つまりはここに存し、社会の改良も、つまりはここに存している。
社会改良、実業振興の最良策はすなわち聖書を解釈して、その大精神を明白に表白することである。この精神を外にしては、私にはクロムウェルを紹介することはできない。カーライルを紹介することはできない。
昨晩の集会、あれが社会の改良法である。ここにおいて、私は明らかに言う。聖書の研究は、私にとっての必要であって、また国家社会に対しての義務であると。
そうは言っても、私は諸君に向って、全て私にならえと勧告するのではない。諸君が聖書研究のために筆をとり、口を費やすことができなくても、それは咎めるところではない。
ただ願わくは、人生の目的に二つはないということを合点して、薪(まき)を割って米をかしぎ、学問を研究してこれを実地に試みるに当たっても、皆がその最大目的を同一にして、相共に勇ましく進軍のラッパを吹きつつ、戦っていきたいものである。
「2.私が聖書研究に従事するようになった由来」完