世の状態と私達の希望
明治35年6月20日
キリストがこの世に御生れになってから、ここに千九百年以上、世界の文明国はキリスト教を信じるといい、世に二億と七千五百万のキリスト信徒がいると称えられる今日、世はさぞかし精神的にも道徳的にも著大な進歩をしたように考えられますが、しかしながら、よく世界目下の状態を考えてみれば、事実は全く私共のこの予想に反していることを、私共は発見します。
なるほど、近世紀における物質上の進歩は、実に非常なものです。X光線、無線電信の発明を始めとして。全ての工芸上の進歩発達というものは、実に私共の予想以外です。
「人は神なり」という古い言葉は、人知が進歩した今日に至って始めて、事実となって世に現れたように思えることがあります。世界いずれの国も、その国利民福の増進のために忙しく、このために山は平らにされ、海は埋められ、人は天然に勝って、世は楽園と化しつつあるように見えることがあります。
しかしながら、この楽天主義の世の観察も、少し眼をその皮層の下に注げば、全く痴人の夢であることが分かります。世は、その外面において進歩しているようには、その内部においては進歩しません。それどころか、外面の進歩は、反って内部の退歩を示す場合が沢山あります。
なるほど世にいわゆる人生の幸福な者を標準として測れば、二十世紀の今日は、十七世紀の昔と比べて、数段の進歩であるかも知れません。しかしながら、もしイエス・キリストの福音を進歩の標準とするならば、今日は決して、昔に優って進歩した世でないことがよく分かります。
その実例を今多くここに掲げる必要はありません。私達が毎日読んでいる新聞紙が、よくこの悲しむべき事実を、私共に伝えます。
世界第一のキリスト教国として自ら任じている英国でさえ、暴力に訴えて、他の小さくて、しかも自己に優るほどのキリスト教国を滅ぼすことに、少しも躊躇しませんでした。そしてその皇帝陛下は、壮観を尽くして、ロンドンにある聖会堂に詣でて、神に感謝の祈祷を奉げたということです。
昔は、ローマ法王が、聖バルトロマイの祝日において、天主教徒がフランスの新教徒を掃滅したということで、ローマの聖ペテロ大会堂において、特に大感謝祭を挙げたということであって、私共はこの事を歴史に読むごとに、私共の血が沸騰するように感じました。
そしてこの二十世紀の今日において、英国ロンドンの聖パウロ寺院において、英国教会の首長であるその皇帝陛下によって、これに等しい事跡が演じられたと聞いて、私共はただ驚くばかりです。
南ア戦争の始めに当たって、数多の英国兵が汽船に乗って、戦地に向けて出帆(しゅっぱん)しようとする時に、送られる兵士も送る人達も、みな一斉に声を揚げて、「私達はマジュバの敗戦(
http://en.wikipedia.org/wiki/Majuba )を記憶する」と唱えて、敵人復讐の意を表した時に、これを聞いた哲学者スペンサー氏は、これは太古時代において、復讐を唯一の目的とした野蛮人の声であると言ったそうです。
またバールデベルグの戦争において、三千のトランスバール軍は、五万の英兵に囲まれて、衆寡(しゅうか)敵せず、トランスバール軍が終に英軍に降った時に、英軍の総督ロバーツ将軍(
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Roberts,_1st_Earl_Roberts )は、英国女王陛下に祝電を発して、「陛下よ、マジュバの仇は報いられました」と言ったそうです。
何も普通の兵士ばかりではありません。立派な将軍と女王陛下とが、復讐の祝電を交わしたと聞いて、私共は、「キリスト教は、英国において絶えた」と叫びたくなるではありませんか。
「悪を以て悪に報ゆる勿れ。衆人の善とする所を心に記(とめ)て之を為せ」とは、聖書の明白な教訓です。ところが、「聖書は我が国建国の基礎である」と言って、世界に向って誇る英国人が、微弱で取るに足りないほどの、二つのキリスト教国を滅ぼしたと言って、そのために狂喜して、特別の感謝の祈祷を神に奉げるに至っては、世はまた再び太古時代の野蛮に立ち還ったように感じられるではありませんか。
エランズラーグテの役(えき)においては、英国の騎兵は、悪魔の名を唱えつつ、今や臨終の祈祷を神に奉げようとして跪きつつあったトランスバール国の兵士を、無残にも槍玉に揚げたそうです。英国の兵士が、敵を殺す時の普通の用語は、 Go to hell (地獄に落ちろ)という言葉であったそうです。
ところが、この残忍無恥な兵士が、讃美歌の他に歌はなく、聖書の他に読物のない南ア両共和国の民に勝って、その国の自由と独立とを奪ったのです。そしてこれは、太古時代の事でもなければ、また中古時代の事でもありません。
これは実に、紀元一千九百二年、私達の目前において、諸外国に平和の福音を伝えようと多くの宣教師を送りつつある英国によって犯された大罪悪です。
私達キリストを信じる者は、私達と同宗教である英国のために、他宗信者の前に慙死(ざんし:恥じて死ぬこと)すべきではありませんか。
これは英国です。そしてその兄弟国とも称すべき北米合衆国はどうでしょうか。これまた同じ憐れむべき悲しむべき状態に陥っています。その民が口にするのは、ただ金です。金は、彼等の実際の神です。彼等の事業の成功とは、多く金を得ることです。
彼等がフィリピン群島を攻めるのも、主に金のためです。東洋貿易の主権を握るために、彼等はフィリピン人六百万人の自由を奪いました。支那貿易の利益に与ることが、彼等の東洋政治に介入しようとする主な動機です。
彼等は、キューバの民を助けて、スペイン人を西半球から放逐しましたが、しかし彼等は、無報酬ではこれをしませんでした。彼等は義戦の報酬として、自身スペインからポートリコの豊饒な島を奪い取りました。
それだけではありません。彼等のある者は、キューバまでも合衆国の領地とするという説を、公に唱えて恥としませんでした。
大統領ジェファソンの手によって草せられた、有名な「独立の宣告文」は、今はわずかに少数人士に尊重されているだけで、残余の国民、即ちその最大多数は、これを種々に曲解して、ひとえに自己の利益を計ることだけを努めています。
米国における市政の腐敗というものは、実に驚くべきものです。その自由の淵源とも称えられるボストン市でさえ、贈賄はほとんど白昼の公事であって、その市長が政党に賄賂を贈ったと、宴会の席上で語った時に、誰も彼のこの暴言を咎める者はなかったということです。
ボストンでさえそのような状態ですから、シカゴ、サンフランシスコ等、徳義の制裁力が至って薄い所の市政紊乱の程度は、実に思いやられます。
もちろん米国にも、少数の義人がいないわけではありません。彼等は非常にこの事を患(うれ)え、これらの罪悪を痛激していますが、しかし国民の多数は、それがどうしようもないことを知っているので、ただこれを一笑に付しているばかりです。
殊に罪悪の詰責の任に当たるべきキリスト教会の牧師伝道師でさえ、強くこの悪事を攻めれば、教会の収入が減少するおそれがあるので、言葉を慎んで、ただ一般の罪悪を責めるに止まって、公盗の名を指して、特殊の罪悪を糾問(きゅうもん)するようなことはしません。
教師が相集って、相共に語ることは、主に金のことです。例えば「私は二十ドルの説教をした」とか、「私は牧師館付きの年俸二千ドルの講壇を得たいと思う」とか、「私の教会は、何百万ドルを代表する。ゆえに毎週何百万ドルに向って説教しつつある」とか、実にこれを聞くだけで嘔吐を催す事柄を、彼等は少しも心配気なしに相互に語っています。
そのような牧師や伝道師に、何らの勇ましい事の出来ようはずがありません。彼等は自分と自分の家族の衣食の事に就いて思い煩い、かつ恐れおののいている者ですから、古代の預言者の口調で、世の罪悪を面と向かって責め立てることなどは、とうてい彼等から望むことはできません。
北米合衆国の人心を支配する者は、今やホイッチャーのような詩人でもなければ、ガリソンのような社会改革者でもなければ、ビーチャーのような説教者でもありません。米国を支配する者は、モルガンです。アスターです。バンダービルトです。即ちその財権を握る者です。
法律は、彼等の利益を計るために設けられます。大統領と知事と代議士とは、彼等の好意を得て、始めてその職に就くことができるのです。教会内で最も勢力のある者は、信仰の最も強い者ではなくて、金を最も多く持つ者です。
牧師の説教は、金持ちの感情を害しないように努められます。伝道事業も慈善事業も、彼等にとっては、先ず第一に金の問題ですから、彼等は金持ちの賛同を得ずには、何事をも為し得ません。
彼等のある者は、金を称して「全能なる金」と言っていますが、これが米国民全体を支配する精神であって、もしその帰依者の多数によって称するなら、米国は決してキリスト教国ではなくて、明白な拝金国です。
彼等は金に頼り、金を恐れ、金に使役される国民です。米国人の多数は、キリスト教信者であるなどと、我が国のある人達は想像していますが、それは実に虚偽の絶頂です。
こういう国ですから、他国の自由であるとかいうことに、彼等が国民として同情を寄せるなどということは、彼等から全く望めません。彼等はフィリピン人が幾度となく彼等に向って哀願しましたが、その高尚でかつ正当な希望などには少しも耳を傾けません。彼等のある者は、フィリピン戦争を継続すべきだという説を立てるに当たって、次のように言ったそうです。
支那は、世界第一の市場である。今これを自転車製造の一事から考えても、
もし揚子江沿岸が、米国商人のために開かれるようになれば、そして支那人の
一青年ごとに、必ず一台の自転車を持たなければならないようになれば、米国
の今日の自転車製造人は、製造品の余剰を生じるという患(うれ)いから全く免
れるようになるに相違ない。そしてフィリピンを占領しておくことは、私達の
支那貿易を保護するために必要である。
こんな馬鹿げた説が、大統領の選挙権を有する彼等多数の上に勢力を揮っているのです。ワシントンとリンカーンとの米国も、ここに至って全く消滅したと言っても良いでしょう。
もし道理から言えば、米国は英国の敵であって、トランスバール国の味方でなくてはなりません。これは、歴史上の関係から言ってもそうであるべきはずです。南アの二共和国を造った者は、合衆国を造った者と同種類同信仰の人達でした。
即ち、ドイツ、オランダ、フランスの新教徒であって、彼等の中で西に航路を取った者が北米合衆国を造り、南に航路を取った者が、南ア共和国を建てたのです。
それですから、二者は兄弟国とでも称すべき間柄のことですから、南ア共和国の民は、今回の英国との戦いにおいては、彼等に対して必ず米国の同情があることと思いました。
しかしながら、事実は全く彼等の予想に反しました。今の米国人は、昔の米国人ではありません。彼等は、清教徒の子孫とはいうものの、その中から、清教徒の霊魂を抜き去った者です。今や彼等に取って最も大切なものは、人類の自由ではなくて、外国貿易です。
そして外国貿易と言えば、彼等の第一の得意先は英国です。ゆえに主義においては共和国の味方であるべきですが、利益においては彼等は英国の恩恵を被る商人です。主義は利益に代えられません。ゆえに彼等は、多くのつまらない理屈をつけて、両共和国の懇願を退けて、英国の好意を失わないようにこれ努めました。
近頃駐英国大使が死去した時には、米国政府はこれに国葬の礼を与えたことなどは、その一例です。そして、かくも熱心に南アの二共和国を排して、英国の肩を持った者は、米国の政治家や商人に止まりません。
その多くのキリスト教の教師までが、世界進歩のためであるとか、人類幸福の増進のためであるとかいう名義の下に、英国に向って厚い同情を表しました。
かの有名な組合教会の教師ライマン・アボット氏(
http://en.wikipedia.org/wiki/Lyman_Abbott )などは実にその一人であって、彼などは、口を極めて南アにおける共和国民が、時勢後れであることを唱えました。
国の僧侶が腐る時は、その国が腐敗の極に達した時です。今や米国においては、そのキリスト教会の牧師までが、君主政治に与(くみ)して民主政治に反対するようになりました。ここに至って、その腐敗堕落の度は、どこまで進んだかがよく分かります。
もしまた米国を去ってドイツに至り、フランスに行き、ロシアに行っても、同じことです。富です。国力です。これは彼等が得ようとする唯一の目的物です。クロムウェルがサボイ山中の民の虐殺を憤って、軍を大陸に送ろうとしたような挙動は、今のいわゆるキリスト教的君主なる者からは、決して望めません。
彼等の義侠なるものは、みな代価付きの義侠です。彼等がキリスト教国の君主であるから、彼等はキリスト教徒を保護するであろうなどという希望を懐く者は、必ず彼等に就いて、大失望をします。
このように見て来ると、二十世紀今日の世界は、やはり暗黒の世界です。イギリス人がトルコ人を助けて、トルコ国内のキリスト教徒を迫害したという世界です。
トルコ皇帝が命令を下して、アルメニアのキリスト教徒を虐殺させると、その血が未だ乾かない間に、ドイツ皇帝はわざわざ、彼をコンスタンチノープルに訪ねて、彼と友誼を厚くしたという世界です。
ギリシャ国がその自衛上トルコに向って宣戦布告すれば、列国は相集ってこれを傍観し、列国が常に賞賛して止まないギリシャに向って、ほんの少しも力を貸さなかったという世界です。
キリスト教国の兵士が、支那に入って強姦略奪をほしいままにしても、本国では、世論が勃興してこれを責めたということを聞かない世界です。
これは決して、キリストの教訓が普(あまね)く行き渡った世界ではありません。純粋のキリスト教国なるものなどは、広いこの世界に一つも見当たりません。
腐敗した国は、日本国だけであると思うのは、大きな間違いです。いや、ある点においては、日本国の方が、いわゆるキリスト教国よりも、はるかに優れた国です。
よく宣教師的キリスト信者が言うことですが、日本は悪い国であるが、アメリカは善い国であるとか、イギリスは善い国であるとか言うのは、大間違いです。
かつて極めて善良な英国の婦人が私に語られましたが、彼女の本国である英国においても、真面目にキリスト教を信じることは甚だ困難であって、そのためには、多くの迫害を受けなければならないと言われましたが、実にそうであろうと思います。
日本で迫害されるから、米国に行ったら良かろうと思うのは、大間違いです。キリストの教えをありのままに信じれば、キリスト教の宣教師にまで嫌われることは、往々にしてあることであって、現に宣教師仲間でも、あまりに公平であまりに正しい人は、その同僚に排斥されて、本国に追い返された者もいるそうです。
世界とは、実にこんな所です。キリストが世に降られてから後千九百年余の今日、彼を正直に信じる者は、彼と同様に、広いこの世界において、枕する所が有りません。不義は至る所で勝利し、義が繁盛する所などは、世界中に未だ一カ所も見当たりません。
それでは、私達は失望するでしょうか。いや、決して失望しません。これが世界なのです。世界はそうであるべきものではないと思ったのが、そもそも間違いの始めであったのです。
私共の脳裏にキリスト教国なるものを描き、この世界に標準的聖人国でもあるかのように思い、何とか我が国をもその国のように為したいと思ったのが、そもそも失望の始めです。そんな理想国は、この世には一つもありません。この世はどこまでも罪悪の世です。
二十世紀の今日といえども、もしキリストが再び肉体を取って、この世に降られるならば、世界は挙って彼を再び十字架に付けるに相違ありません。世から迫害を受けるべき者は、キリストの直弟子だけに止まりません。
二十世紀の今日においても、彼の弟子である者は、まさに迫害を受けるべき者です。彼等はとうていこの世と一致できるはずの者ではありません。キリスト教をも信じて、その救霊の利徳に与り、世とも相和してその厚遇を受けようとするのは、これはとうてい望めないことです。迫害は、キリスト教信者の付属物です。これなしには、彼はキリスト信者ではありません。
この考えを下敷きにして、ヘブル書第11章を読んで御覧なさい。それが何と深い福音を私共に伝える章であるか、よく分かります。
それ信仰は、望む所を疑わず、未だ見ざる所を憑拠(まこと)とするものなり
(1節)
その発端の言葉が、既に来世的です。理想をこの世に求めよという言葉ではありません。
此等は皆信仰を懐きて死ねり。未だ約束の者を受けざりしが、遥かに之を望み
て喜び、地に在りては自ら旅人なり、寄寓者(やどれるもの)なりと言へり(13節)
これが昔の神を信じた者の覚悟でした。今日私達キリストを信じる者もまた、この覚悟を以て、この世に処さなければなりません。
この世において勢力を得て、この世を我が党のものとしようなどと思うことは、キリスト信者が懐いてはならない野心です。私達は、地上では自分が旅人であり寄寓者であることを知って、そのつもりで万事を処置しなければなりません。
如此(かくのごとく)いふ者は、家郷(ふるさと)を尋ねる事を表するなり(14節)
即ち家郷をこの世以外に尋ねることを表すのです。私達は、この地に土着すべき者ではありませんから、この地に子孫繁栄の策を講じません。私共はこの地の寄留者であって、その地主と家主とは、世の権者俗人です。私共は、この地に在っては、他人の地面に一時借家しているに過ぎない者です。
亦或人は最もまされる復生(よみがえり)を得べき為に、酷刑(せめ)られて免(ゆ
る)さるゝことを欲(この)まざりき。亦或人は嘲笑(あざけり)を受け、鞭打たれ、
なはめとひとやの苦みを受け、石にて撃たれ、鋸にて挽(ひ)かれ、刃にて殺さ
れ、綿羊と山羊の皮を衣て経(へ)あるき、窮乏(ともしく)して難苦(なやみくる
し)めり。世は彼等を置くに堪へず、曠野と山と地の洞と穴とに周流(さまよ)ひ
たり(35〜38節)
これがキリスト信者の普通の生涯です。初代のキリスト信者の生涯は、みなこれでした。新教創設時代の新教徒の生涯もまたこれでした。
そして近年に至っても、前世紀の末においては、アルメニアのキリスト信者は、イスラム教徒であるトルコ人から、この苦しみを受け、今世紀の初めに当たっては、南ア両共和国の民は、キリスト信徒(いわゆる)である英国人から、この虐待を受けました。
しかし彼等は、キリストがその弟子に約束されたものより大きな艱難を受けたのではありません。彼等は、世の俗人からキリストの弟子が受けるべき当然の試誘(こころみ)を受けたのです。
更にまされる者を神、予(あらかじ)め我儕に備へ給へり(40節)
これが、キリストの弟子に、この世においてこの虐遇、この孤立、この艱難がある理由です。私達にさらにまさったものを、神が予め備えて下さったからです。
やがて来る栄光があまりに大きいので、神はこの世における全ての安然(やすき)を私たちから奪い、私達がこの世に在っては、希望の快味を感じるようにされ、彼世においては実成の歓喜を下されるのです。広いこの世界に、私達に隠れ家がないのは、私達がこの世に希望をつながないようにするためです。
来世存在の実証は、現世における義人の不安に存します。天国は米国でもなければ、英国でもありません。天国は、この世以外に在るものであり、その王はキリストであり、その法律は愛です。
その市民となる約束を受けた私達は、現世における不遇辛惨を、反って大きな恩恵と感じます。この世は美しい所ですが、天国はさらにこれにまさって美しい所です。ですから私達は、喜んでこの世界を、世の人に与えましょう。悪人にさえ、かくも美しい世界をお与えになる神が、彼を愛する者に譲ってくださる、やがて来る世界は、どれほど美しい所でしょうか。
完