「コリント前書第一章〜第三章」No.4
4.人知と神知 コリント前書第2章1〜16節
1節 兄弟よ、我曩(さき)に爾曹に到りし時も言(ことば)と智慧の美(すぐ)れ
たるを以て爾曹に神の証(あかし)を伝へざりき。
2節 蓋(そは)われイエス・キリストと彼の十字架に釘(つ)けられし事の外は
爾曹の中に在りて、何をも知るまじと意(こころ)を定めたれば也。
3節 我れ爾曹と偕(とも)に居りし時は、弱く且(か)つ懼れまた多く戦慄(をの
の)けり。
4節 我が言ひし所また我が宣べし所は、人の智慧の婉言(うるわしきことば)
を用ゐず、唯霊(みたま)と能(ちから)の証(あかし)を用ゐたり。
5節 蓋(そは)爾曹の信仰をして人の智慧に由らず、神の能(ちから)に由らし
めんと欲(おも)へば也。
6節 然(しか)れども我等全(まった)き者の中(うち)に智慧を語る。是れ此世の
智慧に非ず。亦(また)廃(すた)らんとする此世の有司(つかさ)の智慧に非ず。
7節 我儕の語る所は、隠密(かくれ)たりし神の奥義の智慧なり。此は世の創
始(はじめ)の先より神の預(あらか)じめ我儕をして栄(さかえ)を得しめんが為め
に定め給ひしもの也。
8節 此世の有司(つかさ)に之を識る者一人もなし。若し識らば、栄の主を十
字架に釘けざりしならん。
9節 録(しる)して、神の己を愛する者の為めに備へ給ひしものは、目未だ見
ず、耳未だ聞かず、人の心未だ念(おも)はざる者なりと有るが如し。
10節 然れど神は、其霊(みたま)を以て、之を我儕に顕はせり。霊は万事を究
(たづ)ね知り、また神の深事(ふかきこと)をも究ね知るなり。
11節 それ人の事は、其人の中にある霊の外に誰か之を知らんや。此(かく)の
如く神の事は、神の霊の外に知る者なし。
12節 我儕の受けしは、此世の霊に非ず。神より出る霊なり。是れ神の我儕に
賜ひし所のものを知るべきためなり。
13節 且つ我儕此事を語るに人の智慧の教ふる所の言を用ゐず。聖霊の教ふる
所の言を用ゐるなり。即ち霊の言を以て、霊の事に当(あつ)るなり。
14節 性来(うまれつき)のまゝなる人は、神の霊の事を受けず。是れ彼等に愚
なる者と見ゆればなり。又之を知ること能はず。そは、霊の事は霊に由て弁(わ
きま)ふべき者なるが故なり。
15節 然れど霊に属(つ)ける者は、万事(すべてのこと)を弁へ知る。而(し)かし
て己は人に弁へ知らるゝことなし。
16節 誰か主の心を知りて、主を教ふる者あらんや。然れど我儕はキリストの
心を有(も)てり。
◎ 福音は事実である。美文ではない。哲学ではない。これは、単純な言葉によってだけ伝えられるべきものである。これに文飾を施せば、福音は福音でなくなる。福音そのものが美文である。哲理である。金にはメッキをするべきではない。(1節)。
◎ 福音の精髄は、イエス・キリストと、彼の十字架にあり、聖書の倫理思想ではない。その教会組織ではない。
神はその、お生みになった独子を賜うほどに、世の人を愛し、彼に十字架の恥辱を受けさせられて、罪に沈んだ人類のために、救済の道を開かれたということ、これが福音の真髄である。
十字架を離れてキリスト教はない。たとえ山上の垂訓は取り除かれることがあっても、たとえ使徒ヤコブの格言は消滅することがあっても、もしイエスと彼の十字架との歴史的事実が存するならば、キリスト教は厳然として永久に存続し、人はその救済を求めるために、イエスの許に来るであろう。
十字架上の贖罪のないキリスト教は、希望のない、生命のないキリスト教である。実にそうである。そのようなものは、キリスト教ではないのである。(2節)。
◎ 「
彼れ木の上に懸りて、我儕の罪を自ら己が身に任(お)ひ給へり」(ペテロ前書2章24節)。これは、世にいわゆる倫理的キリスト教ではないに違いない。その中に迷信のようなものがあると言う者もいるであろう。
しかし実際的に人を罪から救う者は、この事実である。「
汝等我を仰ぎ望め。然らば救はれん」(イザヤ書45章22節)。その科学的説明が何であるかを知らなくても、私達はただ十字架上のイエスを仰ぎ望むことによって私達の罪は消え、私達は神の前に立って、清い者となることを知るのである。
神はその独子を十字架につけて、世の人を罪から救われたとは、私達が、鼻に息が通う間は、絶叫しようと思う歓喜の音信(おとづれ)である。(2節)。
◎ パウロは、コリントに居た時は、弱くて非常におののいたと言う。彼は誠実一途なユダヤ人であり、多くの文学を修めてはいない。美術に疎く、政治に暗く、キリストと彼の十字架の外には伝えるべき真理を有せずに、独り漂然として文化の中心地であるコリントに行った。
彼もまた感情の人なので、単身そのような社会に入って、孤独寂寞の感に打たれ、弱くかつ恐れ、また多くおののいたのであろう。
彼はもちろん文学を恐れたのではない。彼はまた、美術に眩惑されたのではない。しかし、彼は全く無学の人ではない。アラタス(
http://en.wikipedia.org/wiki/Aratus )の詩を引証して、アテネ人に語った彼は、またよく美術文学の趣味を知っていた(使徒行伝18章28節)。
ところが、彼は今や文学の念を放棄し、世の哲学を糞土に比し、ただ十字架の福音に彼の身を固め、単身文化の盛京に入ったことだから、彼にもまた学者に有りがちな恐怖心が生じ、時には恐れ、またおののいたのであろう。
そのような場合において、彼がいっそう世の知識と教養とに頼らずに、
霊と能力の証だけを用いたのは、私自身の実験に照らして、想像するのは難しくない。ギリシャ文学には少しも趣味を持たなかったペテロやヨハネの徒は、パウロのこの恐怖を聞いて、卑怯な振舞いだと考えたであろう。
しかし、無学の者は、学者の弱点と誘惑とを知らない。 我は福音を恥とせずとローマ人に書き送ったパウロは、高度の教養を受けたギリシャ人の中に在って、学者にありがちな恐怖を感じたのである。(3節)。
◎「人の智慧の婉言(うるわしきことば)」とは、ギリシャ人が世界に向って誇った、哲理を修辞の術で飾ったものである。その理は玄妙であって、その言は美妙である。彼等は美しい思想を、美しい言葉で表現して、世の賞賛を博しようとした。
哲人アナクサゴラス(
http://en.wikipedia.org/wiki/Anaxagoras )の哲理に、政治家ペリクレス(
http://en.wikipedia.org/wiki/Pericles )の弁を加えたもの、これによって説服できない者はないと彼等は思った。彼等は妙理を窮めた。彼等は文を練った。しかし彼等は、終に世を導化することはできなかった。(4節)。
◎ しかし、キリストの僕であるパウロは、哲学と美文とを用いなかった。彼は単純に、かつ大胆に、かつ謙遜に、イエス・キリストの福音を宣べた。彼は、古哲の言葉を引用しなかった。彼は婉曲な言葉を選ばなかった。
彼の文法には誤謬が多かったであろう。彼の引証は、粗漏であったであろう。しかし彼の武骨な言葉に、
霊と能との証明があった。彼の言語によって、霊魂は救われ、行為は根本的に改められ、眼が未だ見ず、耳が未だ聞いたことのない大変動が、彼の福音を信じた者の上に現れた。
霊の証明とは、神の霊が直ちに人の霊に示す証明である。
能の証明とは、霊の活動の結果として現れる行動の証明である。
「
汝等来り観よ」(ヨハネ伝1章46節)。来て、論よりも証拠を観よ。救われた霊魂を観よ。改まった行動を観よ。しばらくその哲理に就いて問うことを止めよ。
そして私達が、もしこれをどのようにして行ったのかと今日訊かれたなら、十字架に付けられ、神に甦らされたナザレのイエス・キリストの名によって、この事を行ったと答えるだけであると(使徒行伝4章9、10節)。
◎ 私は福音を伝えるのに、婉曲な言葉と玄妙な哲理とを用いない。なぜなら、私の福音は神の真理であって、これをあなた達に推薦するに当たって、人の知恵と技術とを用いる必要がないからである。
あなたたちがもし、私の能弁に敬服して私の福音を信じたのであれば、あなたたちの信仰は人為的であって、頼むに足りない。あなたたちがもしまた、私の該博な学問を尊信するあまり、私の福音を信じたのであれば、あなたたちの信仰は、思惟感情の信仰であって、意志の信仰ではないので、これまた頼むに足りない。
私はあなたたちを、神の能(ちから)によって、信じさせようとした。それで私はことさらに努めて、学問と能弁とであなたがたを説服しようとはしなかった。
私に熱心はあったであろう。私はこれを神からいただいたのである。しかし、私に技術というものは、一つもなかった。私はありのままを語った。そして神に、私を通してあなた達に語らせたのである。
ゆえにあなた達がもし、私によって信じることができたのであれば、これは私によったのではなくて、神によったのである。神は直ちにあなたたちの霊魂を救ったのである。(第5章)。
◎ 私達キリストを信じる者の中に、私達が「知恵」と称するものが、ないわけではない。私達はこれを、不信者の間に語らない。また
キリストに居る赤子(3章1節)に向って語らない。私達はこれを、信仰に成熟した者の中に語る。即ち十字架の奥義を会得した者の中に語る。
しかし、
これはこの世の知恵ではない。哲学者の哲理ではない。また
廃れるばかりのこの世の有司(権者)が見て、知恵とするものではない。ギリシャ人は、私達に知恵がないと言うであろうが、私達には彼等が知らない知恵がある。
私達を「巧みな奇談(あやしきはなし)」を信じる者と思うな。私達が世の学者の知識を用いないからといって、私達を知識のない者だと侮るな。ギリシャ哲学を放棄して、福音の使徒となったパウロは、彼の新哲学に就いて、一言の言いわけをしないではいられなかった。(6節)。
◎ 私達の知恵(哲理)は、イエス・キリストである。ピタゴラスの宇宙観ではない。プラトンの人生観ではない。神の独子彼自身である。神は
「彼を以て万物を造り給へり」(エペソ書3章9節)。「万物は彼より出で、彼により、彼に帰るなり」(ロマ書11章36節)。
「彼に由りて万物は造られたり。……彼は万物より先にあり。万物は彼に由て存(たも)つことを得るなり」(コロサイ書1章16節)。彼(神の子羊)は言われる。
「我はアルパなり。オメガなり。首先(いやさき)なり。末後(いやはて)なり。始なり。終なり」(黙示録22章13節)。
あなたたちは信じないであろうが、しかし私達は宇宙と人生とを全てイエス・キリストにおいて説明しようとする者である。私達の哲学は、
キリスト中心説である。(7節)。
◎ この知恵、哲理、真理、
これは隠されていた神の奥義の知恵である。そしてこれは、天地創造の前から、神があらかじめ、私達に栄を得させようとして定められたものである。
これは、今日まで人の目から隠れていたもの、しかも世の始めから神が定められたものであって、今ナザレのイエスによって、人類に示されたものである。世がこれを知らなかったのは、神が今までこれを示されなかったからである。そしてこれは、人が知恵によって知ることのできる真理ではない。イエス・キリストは、哲学以上、科学以上の真理である。(7節)。
◎
この世の有司で、これを知っている者は一人もいない。カイザーもピラトもヘロデも、また全て政略と権謀とによってこの世を治めようとする者の中に、イエスを万全の知恵として悟り得る者は一人もいない。
彼等はイエスを利用することはあるであろう。彼等は彼に偽善的崇拝を奉ることもあろう。しかし、彼を知ることは、彼等の知謀によっても策略によっても、決してできないことである。
「若し識らば、栄の主を十字架に釘(つ)けざりしならん」。
十字架につけないだけでなく、跪いて彼を拝し、自ら冠を脱し、王の宝座を彼に奉り、王の王、人類のかしらとして彼に仕えたであろう。
ところが、憐れむべき盲目の彼等有司は、権力を貪るあまり、万物の主権を握る彼を識別できず、反って彼を卑しい者だと見なした。彼等は、美しい服を着飾っておごった人を拝して、イバラの冠を被った人類の王を主として崇めないのである。いつも憎むべき、卑しむべき、憐れむべき者は、彼等政治家である。(8節)。
◎ 「
神の己を愛する者の為めに備え給ひしものは、眼未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心未だ念(おも)はざるものなり」、イザヤ書64章4節からの意訳的引証であるようだ。神の真理は、人の思想以外にある。
哲学がいかに深遠でも、神の真理に達することはできない。科学がいかに精確でも、神の真理を究めることはできない。神の真理は、神の黙示によってだけ知り得るのである。これは、神に愛された者が、直覚的に神から示されるものである。
深く哲学を修めて、キリスト・イエスを解しようと思っても、無益である。万巻の神学書を渉猟(しょうりょう)しても、救いの奥義を解することはできない。あなたはこれを解したいと思うか。それならあなたの心を卑しくし、謙(へりくだ)って神の示明を祈れ。そうすれば、神はその恩恵のために、あなたにこの事を知らして下さるかもしれない。(9節)。
◎ 十字架の真理! 不思議な真理! しかも深遠で美しく楽しい真理! 私の理性を満足させ、私の感情を清め、私の全性を調和させる真理は、この十字架の真理である。これは、世の学識者がかつて想像さえしなかった真理であり、しかも謙遜で神に依り頼む者には、誰もが知ることのできる真理である。
単純で深遠、水晶のような山の湖のようなものであり、透明だがその深度は測り知れない。そのもの自身が詩歌であり、哲理であり、知恵である。私達は、神によって少しはそれが何であるかを知っても、それを適当に言い表す言葉を有しない。(9節)。
◎ この深遠で測ることのできない真理を、
神はその聖霊によって私達に顕示された。なぜなら、
聖霊は万事を究め知り、神の深い事をも究め知るからである。人の事は、その中にある(人の)霊以外に、誰がこれを知っているであろうか。
そのように神の事は神の霊以外にこれを知る者はいない。ゆえに神の深い事を知りたいと思うなら、神の霊に頼らなければならないのは明らかである。ところが、この単純な原理を知らずに、人の知恵と知識とで神の事を探究しようとする者の愚かさよ。
「高等批評」と称して、言語学的に聖書の字句を解剖して、その中に神の真理を発見しようとする者などは、聖書は人によって書かれた書だから、人の知識で解し得ない理由はないと信じて、星と岩と植物と動物とを研究する態度で、この書を研究しようとしているが、そのような者は未だ聖書研究に必要な原則さえ知らない者である。
聖書は霊の書である。そして霊の書を学ぶに当たっては、先ず何よりも先に霊の感化を要するのである。たとえ万邦の言語があっても、たとえ古今の哲学があっても、神の霊なしには、聖書の一章さえ解することができないのである。これは平易な常識である。それにもかかわらず、この常識に則(のっと)らない者が世に少なくないのをどうしたらよいものか。(10、11節)。
◎ パウロは重複して言う。「
我儕の受けしは、此世の霊に非ず、神より出る霊なり」と。聖霊を単に精神とか活気だと言うのは誤謬である。私達は、感情の激動に接したのではない。私達は実に誠に聖霊に接したのであると。
パウロの時代においても、今の時代におけるように、聖霊を天然的に説明しようとする者があったようである。ゆえにパウロは、この重複の言葉を発して、そのような誤解を排除しようとした。(12節)。
◎ 「
是れ神の我儕に賜ひし所のものを知るべき為めなり」と。私達にイエスをお与え下さっても、もしその聖霊を下して、私達を教えて下さらなかったら、私達はどうして、イエスがキリスト(受膏者、即ち救主)であることを知ることができようか。
神は物をお与え下さると同時に、時にまた、物の説明をも与えて下さる。キリストを降して下さっても、聖霊を降して下さらなければ、私達はキリストに就いて知ることはできない。また彼によって救われることができない。(12節)。
◎ 私達は、神の事を語るのに、人の言葉を使わずに、神の言葉、即ち聖霊が教える言葉を使ったと。
聖霊の事は聖霊の言を以てのみ語るを得べし、私達が神のインスピレーションによって受けるべきものは、神の真理だけに止まらない。これを伝える言葉もまた同じである。
◎ 真理は、福音の真髄であって、聖書はその形体である。(13節)。
生命と肉体は相離れられない者であるように、真理は、これを言い表す言葉を離れて知ることはできない。
真理は言葉である。言葉は真理である。聖書がもし神の真理であるならば、その文字は神の文字である。聖書の言語的神聖説なるものは、心理学上のこの単純な原理に基づくものである。(13節)。
◎ 霊の言葉で霊の事に当たる。霊の事を伝えるのに、霊の言葉を用いる。即ち霊の事を伝えるに当たっては、私は私自ら語らずに、霊に私を通して語らせるのである。成功する伝道師は、神の話器とならざるを得ない。
風が松の梢(こずえ)を吹いて松籟(しょうらい)の楽を奏するように、霊に自由に、私の全性を吹かさせれば、霊は私の身を用いて、天来の美楽を奏するに違いない。(ヨハネ伝3章8節
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」)。
私が学ぶことができた上で私が語っているのではない。神に教えられて、彼に語らせられているのである。 (13節)。
◎ 生まれつきのままの人は、霊に接しても、これを受けない。彼はただ愚かであるとして、これを排斥するだけである。仮にまたこれを受けるとしても、これを知ることはできない。霊のことは、霊によってだけこれを了解することができるであろう。
人は聖霊に依らずには、イエスを主であると認めることはできない。彼がイエスによって救われるようになるのは、徹頭徹尾神の業である。(14節)。
◎ 生まれつきのままの肉の人は、霊に関することは、何事も知ることができない。しかし、霊に属する者は、万事を弁(わきま)える。彼は第一に神の救いの奥義に就いて、知ることができる。第二に己に就いて弁え知る。第三に、人生に就いて弁え知る。第四に、天然に就いて知る。
霊に属する者のように、常識に富んだものはない。彼等は、多くの事に関しては、大哲学者でも知らない事を知る。学識は人を迷信から全く解脱させることはできないが、キリストにおける信仰は、人を迷信の羈絆から全く脱することができるようにさせる。
神を畏れることは知恵の始めである。キリストを信じるのは科学の始めである。人は罪から救われるのでなければ、天然に勝つことはできない。天然に勝つのでなければ、これを考究しようという志は起こらない。
キリストにおける信仰が、近世科学の始めだと聞いて、多くの学者は嘲笑うかも知れない。しかし、欧米科学の淵源を深く究める者は、私のこの言葉を聞いて、不思議に思わないのである。(15節)。
◎ 霊に属する者は、万事を弁え知るが、しかし彼自身は、人に弁え知られることがない。彼は霊によってキリストに在る者だから、同じくキリストに在る者でなければ、よく彼を解し得る者は、世にいない。
彼の心のうちには、深遠で測れない所がある。彼は哲学者ではない。しかし、一種の厳然とした哲学を有する。彼は道徳家ではない。しかし道徳家以上の道徳を守る。
彼を不忠の臣として、罵(ののし)る者がいる。しかし、誰も彼を悪人として責めることはできない。キリストを知らない彼の兄弟は、彼を不孝の子として窘(たしな)めることがある。しかし、彼は放蕩児ではない。または家名を傷つける者でもない。
世の人の目には、甚だ奇異に見えて、しかも義人と善人との性を具える者は彼である。世が甚だ彼を厭うのは、彼を解することができないからである。しかも彼は甚だ有用な人であって、世は、彼なしに進むことはできない。
彼を愛することはできない。だからと言って、彼を捨てることはできない。「
汝自からを誰と為(す)るか」とは、ユダヤ人がイエスに問うたこと(ヨハネ伝8章53節)であって、世人がまた今日私達イエスを信じる者に問うことである。
そして私達は、イエスによって罪から救われた者であると答えても、彼等は、それが何であるかを解せない。彼等はその時、ただ私達を卑下して言うだけである。「汝天下の愚人よ」と。(15節)。
◎ 「
誰か主の心を知りて、主を救う者あらんや」と古(いにしえ)の預言者は言った(イザヤ書40章13節)。「
神の知と識の富は深いかな。其審判は測り難く、其踪跡(みち)は索(たず)ね難し」(ロマ書11章33節)。
しかし私達は、神の霊によって、この測り知れないキリストの心を有する。即ち全知に近い知識を有する。キリスト信徒とは、実にそのような者である。愚かなように見えて、聡明な者、知恵がないように見えて、全知者の心を有する者である。
人生と宇宙との秘密を握る者は、実に彼である。彼は宗教家であるだけでなく、また哲学者である。詩人である。彼を侮るな。彼はライプニッツとなって現れた。カントとなって世に出た。宇宙を終に完全に解釈する者は、彼であるに違いない。(16節)。
(以上、12月25日)
(以下次回に続く)