(「コロサイ書第1章〜第3章」No.3)
コロサイ書講義 第1章 (第7節〜第12節)
内村生申す。黒木君の鋭利な筆を以てしても、十分に私の思いを
読者に伝えることは難しいと悟ったので、この編もまた私自身が
筆を取ることにした。
(7節a) かく福音は、我儕の愛する同じ役者(つかえびと)エパフラスより爾曹が学べる所なり。
「かく」は、「この」である。前節で言われている
世界にあまねくして、果を結びて益々大になれる福音を言うのである。
◎ 「役者(つかえびと)」は、労役者である。福音宣伝のために神に使役される労働者である。神の被雇人(ひやといにん)である。その名は卑しいが、無上の特権と栄誉とを帯びる者である。
◎ 「同じ役者」は、彼パウロと共に、同じ主に使役され、同じ聖業を委ねられた者である。「
測ること能(あた)はざるキリストの富を異邦人の中に宣伝(のべつた)ふる事」(エペソ書3章8節)、これがパウロの任務であって、またエパフラスの聖職であった。使徒パウロに
同じ役者即ち
同僚者と呼ばれたエパフラスの栄誉もまた大ではないか。
◎ 「エパフラス」、エペソにおいてパウロから福音を聞き、後にコロサイ、ラオデキヤ、ヒエラポリ等小アジアの各地に伝道した人であったようである。パウロのような人を師として仰ぎ、友として持ったので、彼の名は世界万民に、永久に唱えられるようになった。実に持つべきは善い友であり、敬うべきは善い師である。
◎ 「学べる所なり」、
教えられたところである。我が友エパフラスが伝えた福音は、信頼すべき福音である。これは、似ているが異なる福音
ではないと、パウロはその友エパフラスが宣べ伝えた福音の真価を証明して、暗々裡に彼エパフラスの人物を称揚した、
(7節b) エパフラスは、爾曹のためにキリストの忠信なる僕なり。
キリストの忠信な下僕(しもべ)である。しかもキリストに仕えようとして、あなたたちに仕えている者である。直接にあなたたちに対して忠信なのではない。私も私達も等しくキリストの僕だから、先ず直ちにキリストに対して忠信でなければならない。
ところがキリストは、今は見えない者となって、見えない父と共に居られるので、私達はこの世に在って彼に忠信であろうと思うなら、彼が愛しているあなたたちに忠信にならざるを得ない。
さらに知りなさい。世にこの忠信に優る忠信はないことを。キリストに
よって、あるいはキリストの
ためにする愛が、無比、最上、極美の愛である。
(8節) 彼さきに爾曹が霊(みたま)に感じて懐ける愛を我儕に告ぐ。
「霊(みたま)に感じて懐ける」は、訳者が意訳した言葉であり、原意の直訳ではない。原語は単に、
霊に在る(en) 愛と言うに過ぎない。
聖霊に在って有する愛、聖霊に
浸(ひた)され、その中に身を投じて、その結果として得た愛と解すべきである。
即ち、単に天然の至情を言うのではない。霊(みたま)に因って神から与えられた愛を言うのである。最も清潔で、最も濃厚な愛である。
(9節a) 是故に我儕この事を聞きし日より爾曹の為めに断(たえ)ず祈祷をし且つ求む。
コロサイの信者が、天来の愛に接したと聞いた日から、パウロは未だ目の当たり彼等を知らなかったが(2章5節参考)、彼等が既に霊における彼の本当の兄弟姉妹であることを知ったので、彼はその日から、彼等のために祈って止まなかったということである。
聖徒の交際は、祈祷の交際である。ここにおいて、「
夷狄(いてき:野蛮な異民族。えびす。えみし。)或はスクテヤ人或は奴隷或は自主の別あるなし」(3章11節)。
◎ 祈祷は、祈願だけではない。讃美も祈祷である。感謝も祈祷である。
心に恩恵を感じること、これがキリスト信者の祈祷である。ゆえにパウロは言う。「我れ爾曹のために祈祷をし、且つ祈求す」と。
(9節b) 爾曹(なんじら)霊(みたま)の予(あた)ふる諸(すべて)の智慧と頴悟(さとり)とを以て悉く神の旨を知り、
コロサイ人に関するパウロの祈祷の一節である。
◎ 「智慧」(sophia)は
知能である。処世の上に現れるべき知恵の実際的応用である。キリスト信者は権謀を用いない。
しかし、彼は愚かな者のように世を過ごしてはならない(エペソ書5章15節)。彼は、行うことができるところは、力を尽くして人々と睦(むつ)み、親しまなければならない(ロマ書12章18節)。彼もまた処世の技術を要するのである。
それゆえ、彼は聖霊が与える応用的知能、即ちここにいわゆる
知恵を要するのである。
◎ 「頴悟(さとり)」は、知恵のさらに深いものである。知恵の源泉である。キリスト信者が善をなすべき理由、ならびにその動機に関する知識である。これまた聖霊が与えるものであって、キリスト信者が最も熱望すべきものである。
彼は、浅薄な哲理の上に彼の行為を築いてはならない。彼は実践的道徳家であるに止まらず、また哲学者となるべきである。深く解して高く行うべきである。ある深い理由があるので、賢く世を渡ろうとする者となるべきである。
◎ 「以て」は
在て(en)である(第8節注解参考)。霊(みたま)が与える全ての知恵と悟りとに満たされて(その中に投じられて、あるいは浸されて、あるいは取り囲まれて)、神の御旨を知るようになることをという祈祷である。
知恵と悟りを
以てするのはもちろん、全くこれに包まれて云々。ギリシャ語のen(英語のin、
中にとか、または
おいてとか訳す)に、この深い、広い意味がある。
◎ 「神の旨」、神の意志、宇宙万物の中心の中心、哲学の目的点、宗教の極致………パウロは、コロサイの信者が、知識のこの終局点に達することを願った。彼の哲学的欲望もまた無限ではないか。
◎ 「悉く、、、、知り」、原語では一語である。
知り尽くすという意味である。
神の意志を知り尽くすと言う。哲学者に言わせれば、これは無謀な欲望であると言うであろう。
しかし、これがパウロの祈願であった。また私達全て、キリストによって神を信じる者が懐くことを許される欲望であると言わざるを得ない。
◎
霊(みたま)が与える全ての知恵を以て行い、悟りを以て探り、以て神の御旨を知り尽くすことを、と。神の深い事を知るには、この途があるだけである。神は神に依らずには、とうてい知ることができない。
「聖霊は万事を知り、神の深事を究知るなり」(コリント前書2章10節)。最も深奥な哲学は、神の啓示を仰ぐ哲学である。
(10節a) 凡ての事主を悦ばせんが為めに、その意(みこころ)に循(したが)ひて日を送り、
原文を直訳すれば、次の如くである。
凡て悦ばせんために主に符(かな)ひて行ひ
「主に符ふ」とは、主の意に適う(従う)とも、また主の名に適う(恥じないように)とも解することができるであろう。即ちエペソ書4章1節において、「
召されし召に符(かな)ひて行はんこと」またはピリピ書1章27節において、「
キリストの福音に符ふ行をせんことを」とあるのと同意義である。
キリスト信者は、万事を行うに当たって、彼の地位相応のことを為さざるを得ない。即ち彼は、「光の子輩(こども)」なので、光の中にいる者のように歩むべきである。また彼の国は天に在るから、彼は地に財産を蓄えることをせずに、天に在るものを求めるべきである。
「全能なる神の紳士」とは、キリスト信者の尊称である。彼に野卑なこと、汚穢なことがあってはならない理由は、彼の高貴な職責に存するのである。
◎ 彼はまた、主を悦ばせるために、全ての事をしなければならない。僕である者は、万事においてその主の意を迎えなければならない。キリスト信者は、キリストの心を自分の心とし、キリストを悦ばすことを、その第一の喜悦としなければならない。
人は必ず、その愛する者を悦ばせようとする。キリスト信者は、神を悦ばせようとしてその身を処す。彼もまた恋愛の人である。しかも第一に宇宙の創造主である神を愛し、彼を悦ばせようと日を送るのである(テサロニケ前書4章1節)。
◎ 一には主の名に適うように、二には主の心を悦ばせるために行い(日を送る)。この心で生きれば、キリスト信者の生涯は、高潔で謙遜、柔和にならないようにしようと思っても、それはできない。
(10節b) 凡(すべて)の善事に因て果を結び
「凡(すべて)」
(παντι)、パウロ特愛の言葉である。
全ての聖徒を愛し(3節)、全ての知恵と悟りとを与えられ、全ての事、主の名に適い、全ての善事に因って果を結ぶことを祈る。
彼の神は、「
諸(すべ)ての物を以て諸ての物を満たしむる者」(エペソ書1章23節)なので、彼もまた全ての善い物を望んで止まない。まるで万事に充溢(じゅういつ)を望む小児のようである。
◎ 「善事(よきこと)」は、もちろん
善行である。もちろん今日のいわゆる慈善事業なるものを言うのではない。「善事」は心から湧出(ゆうしゅつ)する善業である。その結果がどうなるかを思わずに、感恩の念に駆られて自然に為す善行である。
◎ 「因て」は在って(en)である。前節におけると同様である。
善行に在ては、善行の
中に在ってである。即ち善行を多くして、まるで彼の身はその
中に在るかのような境遇を作ってという意味である。
単に僅少な善行を奨励するのではない。おびただしいほど多くの善行を促すのである。パウロの宗教は、ナポレオンの戦争の如くである。彼は軍需品が常に充実することを要求する。
◎ 「果を結び」、聖霊が結ぶ果である。即ち
仁愛、喜楽、平和、忍耐の類である。ガラテヤ書第5章22、23節に詳(つまび)らかである。
私達が善事を行うのは、これによって人を救うためではない。また人に褒められ、社会に崇(あが)められるためでないことはもちろんである。
私達キリスト信者は、善行を行って善の境遇(空気 atmosphere)を作り、身をその中に置いて、聖霊が結ぶ果を結びたいと思う。それは例えば、畑の雑草を取り払い、空気を清めて、その中に良い穀類を得たいと思うのに等しい。
私達にとっては、善行は方法であって、目的ではない。私達は善を行うために宗教を信じるのではない。宗教を信じるために善を行おうとするのである。そして私達は知っている。この心でするのでなければ、善行は真の善行ではないことを。
(10節c) 且つ神を知るに因りて漸(やや)に徳を増し、
原文を直訳すれば、「
神に関する深き知識に向て成長し」となる。
成長はもちろん
霊の成長であって、その霊によって結ぶ果がますます大きくかつ多くなることである。
そして成長の目的は、神に関してますます深く知りたいと思うことにある。永生とは他でもない、「
唯独(ただひとり)の真神を知ること是なり」(ヨハネ伝17章3節)。
キリスト信徒の生涯の目的は、「
我が知らるゝ如く神を知るに至らんこと」(コリント前書13章12節)である。
「神を知るに因りて漸(やや)に徳を増し」という日本訳は、手段と目的を転倒しているので、正確なものではないと信じる。
(11節a) また神の栄の権威に循(したが)ひて賜ふ緒(すべ)ての能力を得て強くなり、
「栄」は「
顕はれたる神の栄」であって、造化を指して言った言葉であろう。「
諸(もろもろ)の天は其栄光を顕はし、穹蒼(おおぞら)はその手の工(わざ)を示す」(詩篇19篇1節)、「権威」は、今日の科学者が言う力(エネルギー)である。
ゆえに「
神の栄の権威」という字句は、これを今日の科学の術語で言えば、「宇宙の力」と訳すことができるであろう。宇宙を動かし、これを発育させる力である。
◎ 「循ひて」は、「
相応して」とか、または準じてとか解すべきである。即ち、
神の実力相応の援助を得てという意味である。
◎ 「諸(もろもろ)」また
すべてと読むべきである。パウロ特愛の
すべてである。
◎ 「能力(ちから)を得て強くなり」は、「能力を得て、能力(ちから)づけられて」と読むべきである。
万有に現れた力に準じて、神が私達に与えて下さる全ての能力を得て強くなれという意味である。
怒涛逆巻く海に対しては、神の力を思って、これに準じた能力を自分の霊に得て、強くなることを願い求め、雷鳴に震える山に対してもまた、神の力が大きいことを思い、これに準じた能力を得て、強くなることを祈り求め、高い所を仰ぎ見ても、低い所に伏しても、造化至る所に神の力を思って、これに準じた能力を自分の中に得て強くなることを願う。
キリスト信徒の神は、宇宙万物の創造主である。「
故に我がたすけは天地を造り給へるエホバより来る」(詩篇121篇2節)。私達の慾望は大きい。しかし、これを満たすことのできる力は、私達が依り頼むエホバにある。私達はどうして多大な欲望を起こさないであろうか。
(11節b) 凡(すべて)の事よろこびて恒忍(しの)び、且つ久耐(たえ)
「凡」は、パウロ特愛の
すべて。
◎ 「恒忍」は、罵詈(ばり)嘲笑(ちょうしょう)虐遇の下に耐え忍ぶことである。「久耐」は、忍耐の特長である。「恒忍(しの)び且つ久耐(た)え」は、強く忍び長く忍ぶことである。
◎ 「よろこびて」、単に忍ぶだけでなく、喜んで忍ぶのである。忍耐からその苦痛を取り去ることである。そうなれば、忍耐はもはや忍耐ではなくなる。
◎ キリスト信者は、万有に現れた神の力に準じた能力を得ることができる。しかし、彼等はこれを得て、彼等の威厳を世に張るために用いない。
彼等はこれを自己を制するために用いる。
例えば、機関車が全力を出して坂道を急速で下る列車にブレーキ(制動機)をかけるようなものである。
自己を制し得る者は、敵の砦を取る者よりも強い。人がその全ての憤りと怒りとを制するためには、万有を支えるに足りる力を要するのである。
(12節) また我儕をして光にある聖徒の業(ぎょう)を分(わかち)受くるに堪(た)ふる者とならしめ給ふ父の恩(めぐみ)を感謝せんことを。
「光にある聖徒」、光の中に在って(en)清められた者、即ち真正のキリスト信者である。
聖徒はもちろん世のいわゆる
聖人ではない。聖人は
聖(きよ)い人であって、聖徒は
聖(きよ)められた者である。
義人は一人もいないこの世に、聖人なる者はキリストを除いて、他に一人もいるはずがない。
救われた罪人、これがパウロが言っている聖徒である。
◎ 「光」は、神の光である。即ちキリストである。ヨハネ伝1章10節参考。
◎ キリストに
在る者、これは即ちキリスト信者である。
◎ 「業」は、譲与されるべき財産である。そしてキリスト信徒が受け継ぐべき財産は、やがて来る天国の栄光である。
◎ 「分」は、分配である。
◎ 「受くるに堪ふる者」は、神の国を受け継ぐ資格を付与された者である。
◎ 「ならしめ給ふ」、私達は、自ら望んで天国の相続人と成ることはできない。成らせて下さる者は、父なる神である。
◎ 「恩」、天国の世継ぎと成らせて下さる、これは大きな恩恵である。
◎ 「感謝せんことを」、これは、第9節に始まったコロサイの信徒に関するパウロの祈願の終りである。パウロは、コロサイ人がその恩を感謝することを祈ったのである。
恩恵の最も大きなものは、感謝の心である。この恩恵が下ること、即ち感謝の心が、友の心の中に起こることを、パウロは祈ったのである。パウロの祈求はもっともである。私達も私達の友人が、私達について、そう祈ってくれることを願う。
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パウロの言葉は、何と深いことか。神に教えられずに、誰がこのような言葉を発することができようか。コロサイ書もまた確かに神の言葉である。そうではないと言う者は、コロサイ書を深く究めていない者である。
聖霊が与える知恵と悟りによってこれを究めて、私達はそれが正に活ける神の活ける真理の言葉であることを知るのである。
(以上、3月10日)
(以下次回に続く)