祈祷の精神とその目的物
明治36年7月23日
今日はルカ伝第11章を開いて、その1節から13節までを読みましょう。最初の主の祈祷のことは、既に雑誌にも掲げて出したことがありますから、その事は別に申し上げずに、今は祈祷をする時の
精神とその
目的物とについて話しましょう。
本章第5節以下13節までを精読すると、私達が祈る時には、如何なる決心でしなければならないかが、よく分かってきます。先ずキリストが言われたたとえを仔細に考えてみなければなりません。
ある人が夜中不意に自分の家の門を叩いて、急な来客で何も振舞う物がないから、どうかパンを三つ貸して下さい云々というたとえです。
私が子供の時に郷里に居た頃、急に客が来たというので、よくご飯を借りに隣家へどんぶりを持って走ったことを記憶していますが、こんなことは、ナザレの村にもありがちなことであったろうかと思われます。
キリストの比喩(ひゆ)は、よく天然や日用の事から引かれるので、粉ひきとか、婚礼の席とか、どれも分かり易い例ばかりです。ルカ伝に書いてあるものも、その一つであって、
隣の人が門を叩いてしきりに貸せ貸せと頼むので、家の中に居る者も、その切なる願いの声に耐えかねて、眠っている子供の側を離れて、締め切ってある門を開けて、家に有るパンを与えてやるという極々卑近な話です。
しかしキリストは教えて、これは頼んだ人が友達なので起きて与えたのではなく、ぜひ貸してくれというその声が、あまりに高かったから、それについ引かされて、与えるようになったのであると言っておられるのです。
ちょっと考えてみると、願い方があまりにも切であったから、止むを得ず与えたというのは、如何にも不人情のように聞こえますが、しかしキリストはなお他の章において、これと類似した比喩を出しておられます。
それは、寡婦(やもめ)が、既に休んでいる代言人の宅へ来て、弁護をして下さいと頼んだところ、代言人はもう寝てしまったから、帰ってくれと返答しました。けれども寡婦は、一生懸命になって頼むので、代言人はその女を追い払うために、終にその依頼を聴いてやったというたとえ話です(ルカ伝18章1〜8節)。
キリストはそのような卑近な比喩を出されて、これは君たちが常に経験する事実である。頼まれた人がたとえ一面識もない悪人であっても、一心に頼まれれば、すげなく追い払うことはない。
まして頼まれる者が、友誼(ゆうぎ)があり愛心のある者であるならば、その所有物を与えてやるのは当然であると、その教訓の意を強めるために、わざとそのような比喩を出されたのです。
そのようにしてキリストは、御自身を盗賊に例えられたこともあります(マタイ伝12章29節)。キリストはもちろん強盗ではありません。けれどもキリストが愛の縄で私共を縛り、私共の霊魂(たましい)をとりこにされれば、その残余は一切キリストのものです。
これはちょうど、強盗が先ず第一に、その家の力の強い奴を縛ってしまえば、後は何でも欲しい物を取ることができるのと同じ理屈です。
私共はルカ伝のこの節を読んで、愛の深い神が、切なる祈願を聴き入れて下さることを信じると同時に、パン三つのためにさえ願ってみる私共であってみれば、まして生命の根源であるもののためには、寸刻も祈ることを止めてはならないと、くれぐれも思うのです。
願いが切であるということ、それが大いに力のあることです。祈祷において私共は、根気良く、よほど執念深くならなければなりません。
それでは何を祈るのでしょうか。これは同章の11節以下を読んでいけば、直ちに分かります。(サソリとは、英語のスコーピオンで、毒虫です)。「爾曹は、悪に沈淪(しず)める者ながら、なほ善き賜をその児供に予へることを知って居る。況して天に在す爾曹の父は、求むる者に聖霊を与へざらんや」とあります。
ここに至って、キリスト信者の祈りの目的が何であるかは明々白々です。(マタイ伝第7章に同じ文がありますが、そこには
聖霊という語はありません)。
多くの人の中には、息子が放蕩を止めますようにと祈っている者もいます。また、父が早く酒を止めるようにと祈っている者もいます。沢山金がもうかるようにと願っている者もいます。
そしてその祈祷が聴かれない時には、神も当てにならないと言って、祈祷無効論を吹聴するのですが、しかしそれは、大変間違った考えです。神は一番善いものを与えてやろうとして、私共が来るのを待ち焦がれておられるのです。
「天に在す爾曹の父は、求むる者に
聖霊を与へざらん乎」というこの一句を忘れてはなりません。息子が放蕩をやめるのも、父が酒をやめるのも、試験に及第するのも良友を得るのも、決して悪いことではありませんが、しかし神の目から見れば、聖霊という結構な賜が、その手元に存在しているのです。
この賜をもらうことを忘れて、他の小さな物をもらおうとするのは、あまりにも謙遜過ぎた行為ではありませんか。
それでは、何故に聖霊がそれほど有り難いのでしょうか。第一に、私共はこれを受けて、自分が罪深いことを知り、神の恵みがいかに大きいかを知り、全て神が人類のために備えて下さった恩寵(めぐみ)の中の恩寵、即ちキリスト降世の意味が何であるかを知るようになります。
そして人生問題も分かれば、宇宙の問題も解けてきます。子に対する関係、父母朋友に対する義務はもちろん、苦もなく分かってきます。
もし聖霊の賜が私共に下って、至深至高の大問題を解釈することが出来るようになれば、衣食、健康、家庭等の諸問題は、特別に教えられなくても、自ら明白になってくるものです。
それゆえに、第一の恵みであるこの聖霊を受ければ、私共は一切の賜を受けたと同然です。この第一の恵みをいただくには、前にも申した通り、誠心誠意に一生懸命に祈るばかりです。無理にでもパンをもらおうという心で祈れば、神は必ず聖霊を与えて下さるに相違ありません。
一家の葛藤が無事に治まったとか、商売が繁盛し始めたからといって、自分は最も神に愛される者だと思ってはなりません。ある種類の信者は、それくらいで満足するかも知れませんが、しかし神の愛は、確かにそれ以上のそれ以上です。
薄情な神は、我が子を殺し、我が家を滅ぼされると不平を鳴らしている時に、聖霊は忽然(こつぜん)としてどこからか注がれてきます。
「
風は己が任(まま)に吹く。汝ぢ其声を聞けども何処より来り何処へ往くを知らず、凡て霊に由りて生るゝ者も此の如し」(ヨハネ伝3章8節)です。
私共が失敗に失敗を重ね、失望に失望を加えて茫然自失している時に、聖霊は風のように私に入って、心眼がここに開けると、これほど愉快を感じることはありません。
それですから、私共の祈願は、世人のそれにならって、社会改良とか国家富強とかいうことぐらいに止まってはなりません。これらは紛失物を見出そうとして、本願寺やお稲荷様に参詣する老男老女の祈願と、五十歩百歩の違いです。
私共の希望は、「父を示せ、然らば足れり」です。即ち私共は、どうにかして神そのものを心中に宿したいのです。この目的を達成することができなければ、私共は生きて生き甲斐のない動物です。
家庭の平和、国家の富強ぐらいは、これに較べてみれば数えるに足りないものであって、いわば糞土に比すべきものです。
キリストは何のために現世に降られたのですか。キリストは何のために十字架に上られたのですか。彼は神自身を私達に示すため、永劫の生命、即ち神自身を与えるために、現世において苦しまれたのです。
もしキリストの賜は何かと問う者がいるなら、神自身が私のものとなり、神自身が、私に下るという、その賜であると答える他はありません。これを得ない信仰は、信仰と言うべきほどのものではないと思います。
この賜を得たなら、何に失敗しようが、何を他人に盗まれようが、または世の中の第一の不幸者と笑われようが、かまいません。
またある人は、聖霊を指して、漠然とした風のようなものだと言うかも知れません。なるほど風のようなものでしょう。これを手に取ってみることも出来なければ、算盤で弾いて勘定することも出来ません。
しかし、自分において最も確実なものは、心より他にはありません。そしてその自分の心よりも確実なものは、即ち神の心です。神の心が自分に宿って、これほど気丈夫な、確かなことは有りません。
日本第一の英雄と言われる秀吉も、年老いて頭に霜を戴くようになると、「難波(なにわ)の事は夢の世の中」と歎き、「世の中に我にも似たる人もがな。生きて効(かい)なきことを語らん」と歌いました。いかにも情けない歌ではありませんか。
私共は小さな者ですが、神の聖霊が私共の上に下ってくることを信じます。神の聖霊が下れば、難波の事は決して夢の世の中ではありません。聖霊を受けない人こそ、起きていても寝ている人です。
真の自覚というものは、仏教などでいう悟道(さとり)ではありません。世界が破壊しても我独り存するという自覚は、座禅を組めば一切が消滅して愉快になるという境涯とは全く違います。
座禅するか、または華厳の滝に落ちる時の平和(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D )は、平和と言えば平和とも言えるでしょうが、しかしこれは、むしろ一種の酔いと言うべきです。死に酔うというのは、即ちこれらを指した言葉です。
私共も、聖霊などという漠然として風のようなものよりは、実物である一杯の飯が欲しいなどと言ってみた時代がありました。
また聖霊の霊の字は、死霊生霊(しりょういきりょう)などと言って、お化けなどに縁の近い文字ですから、日本人にあまり好ましく思われないのももっともでしょうが、しかし聖霊のことは、聖書がしばしば繰り返すところであって、これによって神とキリストが、私共の内に宿るようになるのです。
キリストを理想的人物として崇拝すれば、自然にキリストのような人になると言う者もいます。
なるほど人類の王であるキリストを崇拝して、その感化を受けるのも、一良策には違いないでしょうが、ただし私共がキリストの肉と血とを我がものとするには、キリストを一個の英雄として崇拝するぐらいでは足りません。
直ちに聖霊そのものによって、キリストを私共の心に焼き付けられなければなりません。天然や文学や哲学その他万般の思想も、貴いには相違ありませんが、しかし神自身と比べてみれば、無に過ぎません。
聖霊を得ることができなければ、私共の末路は、「生きて効なきことを語らん」という、情けない哀歌として消えてしまうのです。何とはかない次第ではありませんか。
多くの人は、自分には熱心がない、どうも信仰が足りないとため息をついてばかりいます。それは当然です。元来私共は、無力な者です。
無力の者ではありますが、しかし、無理にでもパン三つを借りようとするその熱心、無理にでも代言人に泣きつこうとするその勇気をもって頼めば、愛の愛である神は、必ずその頼みを聴き入れて下さるに相違ありません。この事をさえ疑う者は、生涯無力な者となって、土に帰るほかはありません。
私共が、キリストの道徳に喝采している間は、私共は実に小さな者です。聖書を一つの大文学として、これに道楽半分の批評を加えている間は、実につまらない者です。
私も今までは、伝道とは読んで字の如く、道を伝えるためのものとばかり考えていましたが、これは実に大きな謬見であったことを、近頃悟りました。
ヨハネ伝第1章の12節13節に、「
彼を接(う)け其名を信ぜしものには、権(ちから)を賜ひて此を神の子と為せり。斯る人は血脈(ちすじ)に由るに非ず、人の意に由るに非ず、唯神に由りて生れし也 」と書いてあります。
キリスト信者とは、キリストを受け、その名を信じ、その力を授かった者です。元々神に造られた者なので、私共は神の子と称されるのではありません。キリストを信じて、神の力を受けた者が、真正の神の子なのです。
血筋を引いて生れたのではなく、神によって生まれた者が、神の子なのです。ゆえにもし、伝道を、あるいは聖書知識を授け、あるいは道徳的感化を及ぼすことにあるとすれば、これは実に根本的誤謬です。
キリストの伝道とは福音です。道というのは、これは聖霊を賜る道のことです。この道を示すことができれば、私共のいわゆる伝道の目的は達せられたのです。この希望があって、私共は大きな勢力となることが出来ます。
私共はこの点において、卑怯であってはなりません。大胆でなければなりません。私のような者がと卑下するのは、大間違いです。私のような者こそと、自尊しなければなりません。私共が心掛けるべき祈祷の精神、祈祷の目的物とは、即ち以上のようなものです。
完