(「来世は有るか無いか」No.2)
その三 人類の本能に現れた未来観念
問 それならば、もう聖書の来世観に就いての御質問は、止めにしましょう。しかし、私が改めて伺いたいのは、あなたは聖書以外にも何か論拠があって、来世の存在をお信じになるのですか。
答 私達キリスト信者に取っては、私達が主として頼るものは、聖書の証言です。しかしながら、私達は聖書以外にも、来世存在の証明を有(も)っていると思います。
問 それは大略何ですか。
答 第一は、人類の宗教的本能とも称すべきものです。第二は、偉人の証言です。第三は、私共自身の生涯の実験です。
問 人類の宗教的本能は、どのように来世の存在を証拠立てますか。
答 それはごく古い議論ですが、しかし今日でもまだ勢力を失わない議論です。即ちキリスト降世前四百年ほど前に世に出たギリシャの歴史家ヘロドトスが言った言葉に、「私は広く世界を遊歴して、憲法がなく、文字がなく、政治のない人民を見たことはあるが、未だかつて宗教のない人民があるのを見たことはない」というものがあります。
今日の人類学者は、ヘロドトスのこの言葉を打ち消して、アフリカの内部あるいは南米大陸の南端に、宗教の全く無い種族が二三いるのを発見したと言います。
しかし
例外は定則を証明するという言葉に漏れず、全世界を通じて、二三の全く宗教のない種族がいるということは(たとえその事を事実と見なしても)、反って
人類は宗教的であるという定則を証明するに足ると思います。
問 あなたは、しきりに人類が宗教的であることを証明しようとされていますが、その事は、来世の存在とどんな関係がありますか。
答 それはこういうことです。宗教は即ち、来世の存在を唱えるものではありませんか。来世を教えない宗教がどこにありますか。来世を教えないものは、宗教ではないと言っても、決して過言ではありません。
エジプトの宗教でも、バビロン、アッシリヤの宗教でも、インドのヴェーダ教でも、ペルシャのゾロアスター教でも、宗教という宗教は、殊に文明人種の宗教は、全てみな来世の存在と、そこにおける裁判とを教えます。
また下って、昔のメキシコ人、ペルー人等の宗教にあっても、来世の存在は、宗教とは相離れることのできないものです。
こう言うと、あなたは、それならば仏教と儒教とはどうかと言われるでしょうが、しかし仏儒両教でさえ、来世観を他から輸入する必要があったのを見て、如何にこの観念が、人の心の中に強いものであるかが分かります。
仏教のような、虚無、即ち全ての物の実在を否定することを、その教理の基礎と定めた教えにおいてさえ、広く衆生を済度しようとするに当たっては、弥陀仏の慈悲と極楽浄土の存在とを教えなければならなくなったではありませんか。
また儒教に至っては、現世における治国平天下をその唯一の目的となし、仏を笑い耶蘇を嘲っていますが、しかしその唯一の目的である治国平天下を実行するに当たっては、甚(いた)く自己の不足を感じ、あるいは仏教を
利用し、あるいは神道を利用する必要を感じるではありませんか。
宗教からその来世観を奪い去ることは、その真髄を取り去ることです。
近くは、我が国において一時唱道された「現世的キリスト教」なるものの運命を御覧なさい。その唱道者は、早くも既に去って、キリスト教界の人ではありません。
その教義は化して、社会改良策の一種となり、熱もない、情もない、ただの政治論となってしまったではありませんか。
来世観を供しない宗教ほど無力なものはありません。来世のない宗教を説く者は、無益な業に従事する者です。
問 ずいぶんお強いお言葉です。私もその中に或る真理があることを認めます。しかしながら、人類全体が来世の存在を要求する理由は、彼等の無学に由るのではありませんか。いわゆる未来観念なるものは、知識の増進と共に消滅するものではありませんか。
答 日本人で、少し近世の教育を受けた者は、たいていあなたが言われるような事を言います。しかしながら、私はそうは信じません。来世存在の希望は、野蛮人だけの希望ではありません。それだけではありません。この観念も他の観念と同じように、知識の進歩と同時に進歩するものです。
問 しかしそれは、誰にでも迷信の要素が多少残っているからではありませんか。迷信の要素が全く知識の光明によって取り去られた後に始めて、来世観を要求する必要がなくなるのではありませんか。
答 ずいぶん深い御観察です。来世の希望を堅く抱いて死んだニュートンもファラデーも、ワーズワースもグラッドストーンも、彼等の心の中に存する迷信を脱却することが出来ずに来世を希望したという御疑問です。
そして、そのような希望を抱いておられないあなた御自身は、新知識の光明によって、そのような「迷信」から全く脱却されたのだと言われるのでしょう。それは、ずいぶん大胆な御断定です。
問 御賞賛であるのか、お冷やかしであるのか分かりません。しかしいずれにしろ、私の心の疑問を少しでも解いて下さい。
答 失礼ながら、あなたの根本的な誤謬は、知識を道徳と全く離れて見ておられることであると思います。しかしながら、知識は道徳と一体です。徳のない知識は、事物の真相を窺(うかが)うことの出来ないものです。
もしニュートンが来世の存在を信じたと言えば、彼は彼の知徳両性を以て、彼の生命そのものを賭して、信じたと言うのです。彼の知識は、彼の信仰によって清められ、彼の信仰は、彼の知識によって明らかにされ、そのようにして完全に最も近い、即ち最も信じるに足る知識を以て、彼は来世の存在を認めたというのです。
ところが彼は、既に二百年前の人であって、X光線をも、無線電信をも知らない人であったから、その人の来世に関する知識は、取るに足らないというお言葉は、そもそも真正の知識が何であるかをお認めにならないので、発せられるものではありませんか。
問 知識論はそれまでとして、知者、学者、その他の偉人で、来世の存在を堅く信じた者は誰ですか。
答 「偉人の来世観」、これは大問題です。これだけで一書を著すに足る問題です。
その四 来世存在に関する偉人の証言
問 長いことは願いません。わずかだけでもお聴かせ下さい。
答 私が偉人と思う人は、たいていは深く篤(あつ)い未来観念を持った人です。私は、健全な来世観ほど人を偉大にするものはないと思います。
問 先ず、あなたが偉大だと思っておられる人は誰と誰ですか。
答 私は喜んで赤穂義士の銘々伝を読む者ですが、その臨終の歌の中で、原元辰の歌を非常に称賛します。私は日本人が君と親とを慕って詠んだ歌の中で、こんなに清くうるわしいものが、他にあるのを知りません。
兼ねてより君と母とに知らせんと
人より急ぐ死出の山路
彼の来世観は決して完全なものではないとして、そのような無私無欲の日本武士のように、潔い心の中にかくも優しい、しかもうるわしい思想が湧き出たのを見て、来世の希望なるものが、決して愚人の夢でないことが、よく分かると思います。
問 御説、誠にごもっともです。私もこの歌には深く動かされます。
答 私はまた近頃、東海道の侠客(きょうかく)次郎長の歌に目を触れました。博徒(ばくと)の長(かしら)が作ったものですから、歌人の目から見れば、何の価値もないものでしょうが、しかしもし、ワーズワースのような大詩人にこれを見せたなら、実に天真ありのままの歌であると言って、大いに称賛するであろうと思います。
六でなき四五とも今は飽きはてゝ
先だつさいに逢ふぞ嬉しき
多くの貴顕方の辞世の歌でも、文字こそ立派ですが、その希望に溢れた思想に至っては、とてもこの博徒の述懐に及ばないと思います。
彼次郎長は、侠客の名に恥じません。彼はこの世に在って、多少の善事をした報酬(むくい)として、死に臨んで、このうるわしい死後の希望を懐くことが出来たのだと見えます。
問 あなたは案外日本人で、あまり多くの人に知られていない人の中に、あなたの同意者を持っておられますね。しかしあなたは、彼等を世界の偉人とは見なされないでしょう。いかがですか。
答 もちろんです。しかしながら、来世の存在を証明するためには、彼等の心事は、日本人のいわゆる英雄豪傑なるものの心事と比べて、はるかに価値のあるものであると思います。
太閤秀吉とか、西郷隆盛などは、その野心が大きかった割に、彼等の心が清くなかったために、彼等は大であって反って小さな者でした。心の清い者でなければ、神と来世とを見ることは出来ません。
問 それでは、この世において大きな人で、来世を明らかに認めた人はいませんか。
答 いますとも。ただしかし、「大」の種類が違います。アレキサンダーやシーザーやナポレオンのような偉人は(もし偉人の名を彼等に付することが出来るとすれば)、来世を望むことができる偉人ではありません。
彼等は現世限りの偉人であって、宇宙とか永遠とかいうものを自分のものとしたいと思った者ではありません。来世の存在を認めた偉人は、彼等とは全く別種類の偉人です。
問 それは例えばどういう人物ですか。
答 政治家で言えばアルフレッド大王のような、グラッドストーンのような、軍人で言えばクロムウェルのような、ゴルドン将軍のような人物です。即ち同胞を援(たす)けようという単純な心で、あるいは政権を握り、あるいは剣を抜いた人物です。そう言う人は、多少明白な来世の希望を懐いて死に臨んだと思います。
問 それはごもっともな御説です。それであなたが指名された人達は、本当に来世の希望を懐いて死に就きましたか。
答 そうです。もし歴史に大きな誤謬がないとすれば、その事は、否定できない事実であると思います。
問 グラッドストーンの臨終のさまに就いて伺いたいと思います。
答 御承知かも知れませんが、彼は死ぬ二年前から、有名な監督バトラー(
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Butler )が著した Analogy (アナロジー)という書の註解に従事しました。そして彼の主な目的は、これによって来世実在の証明を、世に供しようとすることにあったとのことです。彼はその第二巻までを世に公にし、第三巻を半ば終わって死にました。
ヴィクトリア女王の下で、四回まで大英国の総理大臣となった彼グラッドストーンに取っては、来世の存在に優る大問題はありませんでした。これは彼に取っては、インド帝国を保存し、アフリカ大陸を経営するのに勝る大問題でした。
問 そして彼は、その来世の希望を、彼の臨終の時まで持ち続けましたか。
答 もちろんです。彼が病床に在った間の彼の最大の慰めは、彼の孫娘某と共に、有名なトプラデー(
http://en.wikipedia.org/wiki/Toplady )作の「千代経し岩よ」の讃美歌を歌うことであったとのことです。そしてその讃美歌が、キリスト教徒の来世の希望を歌ったものであることは、誰でも知っています。
そればかりではありません。彼がこの世に在って発した最後の言葉は、Our Father(我らの父よ)の一言であったそうです。彼は、 in Heaven(天に在す)という語を発し得ずに、彼の唇は閉ざされたと見えます。
六十年間世界を震動させた彼の唇は、「天に在す我らの父」の名を呼んで閉ざされました。実に偉大ではありませんか。
問 偉大です。いかにも太陽が粛然として西山に没するような観があります。
(以下次回に続く)