聖書と独立
明治36年9月17日
問 あなたは常々、独立、独立と言われますが、全体独立という言葉は、聖書の何処に有りますか。私は聖書を始めから終りまで読んでも、独立という言葉を発見することができません。
答 あなたは、近頃はだいぶ聖書を御研究であると見えます。それは先ず、何よりも結構なことです。聖書の中に、独立という文字が見えないことは、私も承知しています。
問 それでは何故にあなたは、独立、独立と言って、うるさいほどにこれを唱えておられるのですか。
答 そうですね。私は先ず、独立即ち independence という語の起源からお話ししなければなりません。あなたは、独立という語は、いつ、誰によって作られたものであるか、御承知ですか。
問 別に深く調べたことはありません。
答 それならば、私が知っているところをお話ししましょう。独立即ち independence という語は、キリスト教の聖書の中に見えないだけでなく、ギリシャ文学の中にも、ローマ文学の中にも一回も使用されたことのない語です。
独立という
事実は、人類とその起源を共にするものですが、不思議な事に、独立という語は、実にごく近頃の発明にかかるものです。
問 それは真実ですか。
答 それは真実です。独立という語は、キリスト降世から千六百年の後、英国において、キリスト教徒によって始めて使われた語です。
問 私は始めてその事を聞きます。その起源の歴史を少し聞かせて下さい。
答 そうですね。十五世紀の末頃から、英国に清教徒(ピューリタン)なるものが起こって、天主教会とか監督教会とか、全ての、人の口碑(こうひ)や組立によって成る教会に強く反対した時に、彼等が自身の立場を明らかにするために、何か良い名称を発見しようと努めて、終にこのインデペンデンス、即ち私共が今日独立と訳する原語を新たに造ったのです。
これは、ラテン語のデペンデンシヤ(依頼する)という語の上に、イン(非)という接頭辞を付けたものであって、
依頼せずとか、
依頼を否認するとかいう意味を言い表すための語です。
問 そうであれば、独立という語は、やはり人が造った語であって、神の聖書には無い語ではありませんか。
答 そうです。人が造った語ではありますが、しかし聖書の真理に最も深く暁達(ぎょうたつ)した人の造った語です。英国の清教徒は、神の聖霊に動かされずには、この貴い語を造りませんでした。
問 しかし、もしそうであるならば、独立、即ちあなたが言われる「依頼を否認す」という語は、歴史的には至って貴いものとしても、これを聖書的に神聖なものと見なすことは、出来ないではありませんか。
答 私はそうは思いません。文字は思想を現すものです。インデペンデンスの文字は、よく聖書の思想を現すものです。
問 聖書のどこに独立が教えてありますか。
答 聖書のどこという御質問ですか。私は別に御質問の必要はないと思います。しかし、私が知っていることを二三申し上げましょう。先ずロマ書13章8節を見て下さい。
爾曹(なんじら)互に愛を負ふのほか何物をも人に負ふ勿れ。
これは確かに独立を勧めた言葉です。また、テサロニケ後書3章8節以下に、こう書いてあります。
我儕また人のパンを価(あたい)なしに食することなく、唯人を累(わずら)
はせざらん為に労と苦(くるしみ)をして昼夜工(わざ)を作(な)せり……
我儕爾曹の中に在りし時に、「人もし工を作すことを欲(この)まずば食す
べからず」と汝等に命じたり。
これは確かにキリスト信徒全体に、衣食上の独立を教えた言葉であって、その真意を言い表すのに独立というより他に、好い言葉はありません。
問 今あなたが引用された聖書の言葉は、主に生計上の独立に関しての教訓のように見えます。しかし、これは至って低い意味の独立ではありませんか。
答 私はそうは思いません。生計上の独立は、最も多くの場合において、信仰上の独立を意味します。使徒パウロが生計上の独立を重視したのは、信仰上の独立を維持するためでした。
問 それはそうとして、聖書は生計以外に、思想ならびに信仰上の独立を唱道していますか。
答 いますとも。先ず信仰独立の経典とも称すべきガラテヤ書の第一章を読んでごらんなさい。
人よりに非ず、又人に由らず、イエス・キリストと彼を死より甦へら
しゝ父なる神に由りて立られし使徒パウロ、(第1節)
これは信仰上の絶対的独立を言ったものではありませんか。また、
兄弟よ、我、爾曹に示す。我、曾(かつ)て爾曹に伝へし所の福音は人
より出るに非ず、蓋(そ)は我之を人より受けず、亦教へられず、
ただイエス・キリストの黙示に由りて受けたれば也。(第11、12節)
信仰上の独立を唱えた言葉で、これより強い言葉は無いと思います。
問 それではあなたの御考えでは、誰もがパウロのように、直にキリストから黙示を受けなければならないのですか。
答 私はそう信じます。宗教は神と人との
直接の関係ですから、その間に法王、監督、牧師、執事、長老等の外来物は、決して立ち入ってはならないと思います。
問 あなたが言われていることが真理であるとすれば、独立信者でない者は、信者でないように思われますが、それはそうですか。
答 もちろんそうです。依頼信者即ち人に依頼して神に依頼しない者は、信者とは見なされません。そのような信者は、遅かれ早かれ、神とキリストとを捨去って、再び元の俗人と化す者です。そしてそのような還俗信者の実例を、私は沢山目撃しました。
問 それではあなたは、全ての外来の教会を排斥なさるのですか。
答 そうではありません。誰が本当の信者であるかは、神様だけが知っていらっしゃいます。名は、私共の関するところではありません。私共が尊ぶものは、独立の
実です。
問 それならば、あなたは何故在来の教会に属されないのですか。
答 それは私の勝手です。ちょうどあなた方が選ばれた教会があるように、私共にもまた、私共が選んだ教会があります。その事に関しては、私共があなたがたに干渉しないように、あなた方も私共に干渉しないように願います。
問 しかし、私が特別にあなたに御質問したいのは、既に多くの良い教会があるのに、何故あなたは、ことさらに独立を唱えられるのですか。
答 そうですね。その御質問に対してお答えする前に、私はあなたに一つ私の質問を試みたいと存じます。
欧米諸国から派遣された外国伝道師によって国家的に救われた非キリスト教国は何処にありますか。インドでも、マダガスカルでも、ハワイでも、ビルマでも、宣教師的キリスト教を受けながら、みな亡びてしまったではありませんか。
そして日本国だけが、宣教師のキリスト教によって救われるだろうという希望は何処にありますか。それだけではなく、宣教師はこの国において、既に数多の依頼的信者を作ったではありませんか。
今日もし宣教師がみなこの国を引き払って、その本国に帰ると仮定してごらんなさい。日本には、どれだけのキリスト教が残るでしょうか。この事を嘆く者は、独立主義に重きを置く私共ばかりではありません。私共は、宣教師自身の口から、しばしばこの嘆声を聞くのです。
これ即ち、国も個人も直に神からの黙示に与らなければ、救われないということの実証ではありませんか。私共は、あなた方のように、常に私共の唱える独立主義を嘲られる方の真意を知るのに甚だ苦しむ者です。
独立主義とは、私共の主義ではありません。これは聖書の主義です。
神を本当に信じた者で、独立しない者はありません。御覧なさい。いつまでも外国人の世話になっている教会や信者を。彼等の多くは、みな俗化して、去っていくではありませんか。
一人の独立信者は、千万人の依頼信者よりも強くあります。もう言葉の上の議論は止めましょう。この上は、実行して神の裁判を待つまでです。
私共は、外国人に依頼する我国の学校や教会の運命に鑑みて、どこまでも、非依頼主義、即ち independence を唱えざるを得ません。
完