無抵抗主義の教訓
明治37年5月19日
目にて目を償ひ、歯にて歯を償へと言へることあるは、爾曹が聞きし所
なり。然れど我れ爾曹に告げん。悪に敵すること勿れ。人、爾の右の頬
を打たば、亦(ま)た他の頬をも転(めぐ)らして之に向けよ。
爾を訴へて裏衣(したぎ)を取らんとする者には、外服(うわぎ)をも亦た取
らせよ。人、爾に一里の公役を強(し)ひなば之と偕(とも)に二里行け。爾
に求むる者には予(あた)へ、借らんとする者を退くる勿れ。
(マタイ伝5章38〜42節)
これは疑いもなくキリストの言葉である。いかに破壊的な批評家でも、これがキリストの真正の言葉であることを疑った者はない。
聖書の他の言葉については、ずいぶん挟(さしはさ)むべき疑問がないではないが、しかし、有名な山上の垂訓の中に挙げられたこの言葉については、私達はこれを、キリストの口から出た、純正の言葉として、受け取るより他はない。
その意味はまた、至って単純である。私達はこれを解するのに、何もことさらに注解者の力を借りる必要はない。これは、「
走りながらも読むことの出来る」(ハバクク書2章2節)ほど意味透明な言葉である。
これは、無抵抗を教えた言葉である。誰にでも分かるように、明らかにこの事を教えた言葉である。
ゆえに、キリストのこの聖語を解釈することの困難さは、決して文学的ではない。原文のギリシャ語によっても、また、マイヤ、ベンゲル等の大家の注釈に頼っても、その意味は、その文字に表れたものよりは、別に深いことはない。
このキリストの明白な教訓を解するのに、別に考古学に深入りする必要はない。聖書の研究は、主に良心の鑑識に依るものであるが、しかし、この言葉のように意味が明快で、これを解釈するのに良心以外の知識を必要としないものは、他には多くはないと思う。
その文字上の意味は明白である。しかしながら、その解釈は決して容易ではない。そして、それが難しい理由は、これを実際的に行うことが困難なことにある。
その教訓は、実際に行えるものであるか。キリストは、これを文字通りに実行せよと、これを弟子に伝えられたのか、あるいはこれは単に理想として伝えられたものであって、それが実際においては、とうてい行われ得ないものであることは、キリストにおいても予め承認されていたのか。これが聖書のこの言葉について起こる難問題である。
いま、この難問題の研究に入るに先だって、私達が心に留めておくべき二三の事がある。
その第一は、
実際に行い難いキリストの教訓は、決してこれに止まらないということである。実にキリスト教全体が、最も高潔な道徳を人から要求するものであって、これを実際に行うことが困難なことは、たまたま、キリスト教が超自然的であることを証明するのに充分である。
人間が作った宗教は、人間がこれを守ることが容易である。これに反して神が定められた宗教は、人間がこれを守ることが非常に困難であることは、当然のことであろう。
もしキリスト教の要求する道徳が、人間の達し得る終局点以上であるのでなければ、私達はそれが、神から出た宗教であることを疑わざるを得ない。「
七次(ななたび)ならず七次を七十倍するまで赦せ」(マタイ伝18章22節)、
「
己(おのれ)に施(せ)られんとする事は亦人にも其如く施よ」(ルカ伝6章31節)、その他守るのが非常に難しいキリストの教訓は、数限りない。
ゆえにもし行うのが難しいからという理由で、無抵抗主義を教えるこの言葉を捨てるならば、私達は新約聖書のほとんど全体を捨てなければならなくなるであろうと思う。
第二に、
行うことの困難さにも種類がある。信仰によって山を移すことは、出来ないことではないかも知れないが、しかし、不可能事と見なしてもよい事である。
病を癒し、方言を語ることなどは、現代では、実行することが難しいことと見なしてもよいと思う。しかしながら、キリストがこの教訓において述べられたことなどは、これは実行することが難しいとは言うものの、実行しようとすれば、不可能なことではない。
全て道徳的な事は、私達の意志の支配下にあるものであるから、もしこれを行う意志と勇気とさえあれば、私達はこれを断じて行うことが出来る。
もし
難事と不可能事とを混同して、キリストのこの言葉を軟弱的に解釈しようとすれば、その結果、キリスト教全体の教義を、人間の便宜に応じて解釈するようになる恐れがある。
その第三は、
キリスト教の道徳は、全てこれを純正道徳と見てはならないことである。キリスト教は、単に道徳を命じて、これに従わない者を罰しようとはしない。キリスト教は、高潔な道徳を命じると同時にまた、これを行うための、能力(ちから)と動機とを供給する。
これを難事と見なすのは、人間普通の能力から計算してのことである。しかし、神の力を加えられれば、これは決して実行困難な事ではない。山上の垂訓は、天国の民の守るべき道徳を示したものである。
これは人間なら誰でも、未だキリストの教えに接していない者も、また聖霊の恩化を受けていない者も、行えるものとして伝えられたものではない。
キリストの言葉を解釈するに当たって、これを聖書の他の言葉から離して解釈しようとしてはならない。
「
神の栄えの権威に循(したが)ひて賜ふ諸(すべて)の能力を得て強くなり」(コロサイ書1章11節)とは、キリストの全ての高く潔い教訓を実行しようとする時の私達の用意でなくてはならない。
そしてこの用意があって、この教訓に対すれば、不可能事としてこれを避けようとはしない。
以上の注意を以てキリストのこの教訓に対すれば、私達は決して、これを不可能事または難事とは見なさない。私達は、これは文字通りに解釈して、少しも差し支えない言葉であると信じる。
そしてそのように解釈して、その通りに実行することが、神の御旨に最も良く適うことであるだけでなく、これが私達自身を守る上においても、また、私達の敵を遇する上においても、最も良い方法であると信じる。
そう言うと、直ちに次のような問題が起こって来る。
(一)
もし全然悪に敵対しなければ、悪は終に増長して、善は全く地上から断たれるようになるであろうと。
しかしながら、これは実際において、決してそうではない。悪が悪であるのは、抵抗を好むことにある。悪に抵抗すれば、火に油を注ぐようなものである。抵抗に会って、悪は減じないだけでなく、反って益々増長する。
悪が最も恐れるものは、譲歩である。これに会って、彼はその心胆を挫(くじ)かれるのである。その証拠に、悪を矯(た)めるための機関は、今日では非常に完備しているにもかかわらず、悪は少しも減退の徴候を表すことなく、反っていわゆる世の進歩と同時に、ますます増長しつつある。
兵器は益々改良されているが、戦争が止む徴候はさらになく、法律と警察とは益々緻密になっているが、盗賊と詐欺師とは、ますます跋扈(ばっこ)する。
悪は、あるいは抵抗によって抑えることが出来るかも知れない。しかし抵抗に依って悪を絶つことは出来ない。そして悪を絶つ方法としては、悪に譲るより他に善い方法はない。そしてキリストはここに、悪を矯める方法ではなくて、これを断つ道を示されたのである。
悪に譲れば、悪は自由を得て、気ままに跋扈するであろうとの恐れは、一つは神の存在を認めないことから、二つには悪の性質を究めないことから来る恐れである。
なるほど、もし人間の他には、広い宇宙の中に人事を司る者がいないとすれば、あるいは悪がついに跋扈して、全地を覆うようになる恐れがあるかも知れない。
しかしながら、「
微睡(まどろ)むことなく、寝(ねぶ)ることなくしてイスラエルを守り給ふ者」(詩篇第121篇4節)の存在を知る者は、悪の拘束については、あまり心配しない。
万物は、全て彼の命に従うものであるから、彼が善いと見なされる時には、彼はその悪者に死を下すことも出来る。疫病によって、これを苦しめることも出来る。飢餓を送ることも出来る。またそれらよりも遥かに善いことに、その悪者に悔改めの心を起こさせることも出来る。
もし神が存在されない宇宙にいるのであれば、私達は神に代わり、これに誅罰(ちゅうばつ)を加える必要があるかも知れない。しかし神が守っておられるこの宇宙に在っては、私達は安心して、悪を神の御手に任せていれば良いのである。これが確かに、聖書が私達に無抵抗主義を勧める理由である。
我が愛する者よ、仇(あだ)を報ゆるなかれ。退きて主の怒を待て。そは録
(し)るして主の曰ひ給ひけるは、仇を復(か)へすは我に在り。我れ必ず之
を報いんとあれば也
(ロマ書12章19節)
この意味は、神が唯一の復讐者であるから、人は仇を悉く神に委ねるべきであるということである。宇宙に主宰がいなければ、そうはいかない。しかし、全能全知である主宰がおられる以上は、私達は悪はこれを彼の手に委ねておいて良いのである。
二つには、私達は悪が自滅的であることを忘れてはならない。善とは、神と共に在ることであって、悪とは神を離れることである。そして神を離れて生命はないから、悪はそれ自身において自滅的なものである。
悪はちょうど、根を断たれた樹のようなものである。これは、構わずにおけば、終には枯れてしまうものである。そして悪の自滅には、幾つも方法がある。
その最も通常なものは、悪人が相互に戦って、殺し合うことである。悪人は、義者に対しては互いに結託して抵抗するが、しかし義者が譲るのを見れば、しきりに罵詈悪口を放った後は、無為に苦しんで終に相互に対して争闘を始める。
そしてその果てには、互いに相手が供した毒を飲み、相互に振るった剣を受けて、倒れてしまう。
悪はまた、思想の枯渇によって倒れる。悪意は悪想を生じ、悪想は終に彼を誤謬と失敗とに導く。悪はまた多くの疾病を招き、家族、友人間の永久の不調を惹き起こし、身心が疲労して終に再び起てなくなる。
善人にも苦痛は多く有るが、しかしこれは慰藉の伴わない苦痛ではない。しかし苦痛がひとたび悪人に臨むと、これは癒すことのできない苦痛であって、彼は終にこれに耐え切れずに倒れる。
私達はもちろん、ここで善悪の来世における責罰について語る必要はない。しかしながら、キリスト教の最も明白な教義に照らして見て、悪はむしろ憐れむべきものであって、憎むべき(人の目から見て)ものでないことも、よく心に留めておかなければならない。
無抵抗主義についての第二の疑問は、
もしこれを実行すると、人は無気力な者になって、世に活動も勇気もなくなるようになるということである。
なるほど、もし無抵抗が利欲か、恐怖の念から出たものであるならば、その結果は、無気力に終わるに相違ない。いわゆる支那人根性なるものが、この種の卑しむべき無抵抗主義であることは、誰でも知っている。
しかしながら、キリストが教えられた無抵抗主義が、そんな卑しいものでないことは明らかである。私達は愛のために、道理のために抵抗しないのである。
そして、そのように抵抗しないことは、私達に取って抵抗するよりも多くの勇気を要することである。先ず自分の抑え難い憤怒を抑えなければならない。これは非常な困苦である。
「
怒を遅くする者は、勇士(ますらお)に愈(ま)さり、己の心を治(おさ)むる者は、城を攻取る者に愈(ま)さる」(箴言16章32節)。私達は、他人に向って発する勇気を、自分に向って発するのである。
次に悪人を憎まないだけでなく、これを愛さなければならない。これまた非常な勇気を要するものである。
無抵抗主義とは、消極的な行為ではない。これは、愛敵行為とするのでなければ完全に実行することの出来ないことである。
敵の善を思い、その利益と権利とを、我がもののように考えてやるのは、非常な勇気と、心の活動とを要する。善意的に無抵抗を試みて、私達は決して臆病者にはならない。
韓信(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1 )は他人の股の下を潜って、少しもその自重心を失わなかった。いや、後日、漢が天下を動かすことに寄与した彼の勇気と知謀とは、実にその時に萌(きざ)したものである。
もし勇気の養成が私達の希望であるならば、私達は必ずしもこれを、敵人抵抗の所において養う必要はない。全ての平和的事業が、私達の最大の勇気を要求する。勇気は、学術研究のために非常に必要である。勇気なしには、船の船長にも、鉄道の機関士にも成ることは出来ない。
弱者を助けるための勇気、貧者を救うための勇気、
殊に独り立って正義の味方をする勇気、これらは皆、悪を斬り、敵を屠るのに優る勇気である。私達は悪に抵抗しないからといって、勇気の減退を歎く憂いは少しもない。
このように弁じても、ここにまた第三の反対が出て来るのである。即ち無抵抗主義は、たとえ個人間では実行し得るとしても、国家間ではとうてい、これを応用することは出来ない。そして国家間の争闘なるものは、全く私怨から離れたものであるから、抵抗はこの場合においては、反って美徳であると。
これは実に大問題であって、今ここに、その事を深く攻究することは、私達のとうてい企図出来ないことである。殊に目下のように、我が国が他国に向って、戦闘を開いている時に際して、無抵抗主義を国家に勧めるようなことは、私達が大いに心苦しく感じるところである。
そしてチャールズ・サムナー(
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Sumner )が米国人に非戦を勧めたこととか、トルストイ伯がロシア国民に無抵抗主義を勧めつつあることとかは、言うまでもなく彼等の愛国の至情から出たことであって、無抵抗が反って抵抗に優る勢力であることを、彼等が認めたからである。
キリスト教的無抵抗主義は、これを国家に向って応用することが出来るか。この大問題に対しては、私は今は英国の哲学的文士レ・ガリエン氏が彼の名著「文士の宗教」という書において述べた言葉を引いて、私の解答の一部分に代えようと思う。
世は基督の福音を試みたれども、其効なきを認めたりとは吾人のしばし
ば耳にする所なり。之に対しての吾人の答弁は、甚だ簡単なり。世は未
だ基督の福音を試みず。而(しか)して基督降世以後、第十九世紀の今日に
於けるも、未だ其試験の始まりしを聞かず。
サムナーやトルストイの非戦論とは、キリスト山上の垂訓を国家的に試みることを、その国家に勧めることに過ぎない。そしてそれが実際に試みられるまでは、それが実際に行われるべき教訓であるのか、ないのかは分からない。
私達は、個人としても、これを実際に試みてみるまでは、それが実に最上の処世術であることは、分からなかった。しかしこれを一二度行ってみて、始めてそれが、確かに神の福音であることが分かったのである。
無抵抗主義を国家に応用してみて、全世界を導く名誉に与る国家はどこの国か。サムナーは、彼の米国にこの栄光の冠を戴かせようとした。トルストイは、彼のロシアに勧めて、ロシアにこの冠を戴かせようとして努めつつあるのである。
この研究を終わる前に、私達はさらに二三、読者に注意しておきたいことがある。その一は、
「悪に敵する勿れ」とは、言論を以て、あるいは道理に訴えて、悪が悪であることを示すことを禁じたのではない。
悪が私達の身に臨む時に、私達は親切に、かつ静かな言葉で、悪が悪であるゆえんを述べるのは、これは悪事でないだけでなく、反って義務である。
悪に敵するなとは、悪を放任しておけという意味ではない。ただ、道理が聞かれない場合において、悪が暴力または暴言を用いてでも非理を遂行しようとする時には、これに抵抗するなという訓戒である。
その第二は、自ら進んで悪を迎え、これに降参しないことである。私達は、悪は終りまで、これを悪と呼ぶべきである。悪に抗しないとは、悪と和睦するという意味ではない。
私達は悪人を殺そうとはしないが、しかし悪を悪と認めて止まない結果、悪人に殺されることは、あるかも知れない。
その三は、悪を遇するのに知恵を働かせることである。「
鳩の如く柔和にして、蛇の如く智慧(かしこ)くあれ」とは、特に悪に対する時の教訓である。
私達は、悪に抗しない前になるべく悪を避けるべきである。そして善を追求し、悪を避けて止まなければ、悪との不幸な衝突に出会うことは至って稀であると思う。
完