「奇跡の信仰」No.3
問 そう言われるのであれば、止むを得ません。しかし、もし信仰の眼で見れば、全てのことが奇跡として見えるようになりませんか。
答 そうです。奇跡とは、神の能力の発現ですから、神の存在と活動とを信じる者の眼には、奇跡と天然との別はありません。彼にとっては、実に天然と称して、神から全く離れ、独り働いて独り生じるものはないのです。
彼にはただ二種類の奇跡があるのです。尋常的奇跡、これが天然です。非常的奇跡、これが聖書に示してあるような奇跡です。
今日まで万物を天然的に解してきた彼は、今は意志的に、即ち奇跡的に、これを解するようになりました。彼の宇宙観は、神を信じることによって一変しました。
問 多分そうであろうと思います。しかしその結果として、万事万物はきままな意志の遂行と化し、天然に法則と順序とは絶えて、科学はその研究の精神を失い、また、人は労働の無用を感じて、ただ密室にこもって、ひとえに祈祷によってのみ、神の援助に与ろうと欲するには至りませんか。
答 その御心配は全く無用です。神を信じて天然は、決して混沌とはなりません。したがって科学は、その研究の精神を失いません。いや、神を信じることによって、科学の精神が始めて起こるのであると思います。
科学の精神は、天然の統御ならびに征服にあります。そして天然を恐れ、その奴隷となった者に、この精神が起こるはずはありません。
人は先ず、天然の主人公とならなくてはなりません。そして彼が神を信じることによってのみ、この機能は彼に賦与されるのです。霊が物に勝つまでは、物の科学的研究は始まりません。
そして宗教は、人に霊の自由を供し、彼に天然に打ち勝ち、これを治めようとする意志を起こします。科学研究第一の要素は、この自由の意志であることは、深くこれに従事した者の誰もが認めるところです。
それだけではありません。神の意志とは、
気ままな意志ではありません。意志とは気ままなものであるとは、これを不完全な人においてのみ見た者の言うことです。
世に信頼すべきもので、義者の意志ほどのものはありません。天然はその季節を誤って、五穀が実らず、民がそのために飢餓に泣くことが有っても、義者は決してその約束を破りません。泰山は崩れて海と成っても、義者は決してその志を曲げません。
変わり易いものは、意志ではありません。
病んでいる意志です。健全な意志は、天然の運行よりも信頼するに足りる者です。人の意志でさえそうですから、神の意志はなおさらのことです。
世に恒久不易なものと言って、神の意志のようなものはありません。「
天と地とは廃(すた)らん。然れど我言は廃らじ」(マタイ伝24章35節)とは、神の声です。
もし神の意志が変幻恒(つね)ないものであるならば、世に信頼なるものは、全く跡を絶つようになります。神を信じるとは、恒久を信じることです。そして天然は、神のこの恒久性の一面を表すものなので、私達は非常な興味をもって、これを研究するのです。
恒久と言っても、もちろん神のように恒久なのではありません。山は恒久であっても、もちろん神が恒久であることには及びません。
しかしながら、人事が菫花(きんか:スミレの花)一朝の栄の如くであるのに比べて、山岳が千秋にその姿を変えないのを見て、私達は神を私達の「磐(いわ)」と呼んで、彼の恒久を讃えまつるのです。
天然を神の意志の発現と見て、私達は始めて天然の真相を悟り、したがって謹んでこれを研究しようと欲する念が私達の心に起こるのであると思います。
しかし、意志である以上は、神の意志であっても、永久不易の
規則ではありません。そして規則でない以上は、時にそれが変更されることは、決して不思議ではありません。
そして規則でない以上は、時にそれが変更されるのは、決して怪しむに足りません。天然の法則を規則と解すると、天然は人を縛る桎梏となります。
しかしながら、愛の神の意志の発現である以上は、これは謹んで服従すべきものであって、強いてその束縛を受けるべきものではありません。
神を信じると同時に、天然は私達の敵であることを止めて、私達の友、またはホームとなるのは、全くこのためです。
意志は、その中に愛を含みます。それゆえに、神の意志の発現である天然は、また神の愛の発現として、私達の眼に現れます。そして愛は、熱心の唯一の発動者ですから、天然に神の意志を認めて、私達は熱心にこれに対し、愛によってその奥義を究めようとします。
キリスト信者の天然の研究なるものは、不信者のそれとは全く違い、彼は面白半分にこれに従事するものではありません。私達は、父がお造りになった庭園に、その奇石珍草を探る心で、楽しくこれに従事するのです。
天然を奇跡と解すれば、天然の研究は止むと言う人は、未だこれをそう解したことのない人であると思います。驚嘆は、確かに科学研究の一大刺激です。そして信仰は、天然の研究に、この健全な刺激を供するものです。
奇跡を信じれば、私共は労働を止めてしまうであろうという御心配もまた、根拠のない御心配です。私達は、万物を奇跡的に解してのみ、始めて労働とは何であるかが分かるのです。
労働は、飢餓を恐れて、止むを得ずいやいやながら、私達が従事すべきはずのものではありません。
労働とは、その真正の意味においては、神と共に働くことです。あるいは神に、私に在って働いていただくことです。
「
我が父は、今に至るまで働き給ふ。我もまた働くなり」(ヨハネ伝5章17節)というキリストの言葉は、よく労働の真意を尽したものです。自分のうちにあるわずかばかりの力によって、自分の職務を尽そうとするので、私共は非常に労働の苦痛を感じるのです。
しかしながら神は、私が要する能力は、全てこれを私に与えて下さると信じて、私共は能力の不足を全く感じなくなり、したがって労働の苦痛なるものは、私共の念頭から、全く跡を絶つに至るのです。
神の奇跡を信じない労働者の生涯は、この点から考えてみて、実に気の毒なものです。私共は、労働者を助けようと思うなら、彼の賃金の増加を願い、彼の労働時間の短縮を計るだけでは足りません。
彼に奇跡の神を紹介し、彼が上から新たな能力の供給を受け、走っても疲れず、歩んでも倦(う)まない者にするのもまた、彼を慈しむ一つの方法であると思います。
奇跡の神が居られるからと言って、ただ口を開いて茫然として、神が自分を養うことを待つ者などは、未だ真の神を発見したことのないものです。
困窮は発明の母であると言いますが、しかし真正の発明の母は、困窮ではなくて感謝の心です。
人類が危急に迫って、止むを得ず絞り出す知恵は、とうてい宇宙の深奥に達し、そこにその秘密を捜し出すことの出来る知恵ではありません。
大なる発明は、神の恵みを喜び、天然と和して、造り主の指導の下に、その宝庫に入って、欣然(きんぜん)として、秘密のカギを得て、探り得た発明です。
天然を大きな謎と解し、鬼才によってその秘訣を盗みだすことを発明とは言えません。天然を奇跡と見るならば、学術上の発明が止むであろうという心配も、全くの杞憂(きゆう)に過ぎません。
問 種々の御説明によって、奇跡の哲理はだいぶ分かりました。しかしながら、これを信じたとして、何の実益がありますか。
奇跡を信じずには、宗教は信じられないでしょう。しかしながら、あなたにしても昔の聖人の奇跡を、そのまま繰り返そうと思ってはおられないのですから、それをお信じになっても、あなたの御生涯には、何か直接の実益があると言われるのではなかろうと思います。どうですか。
答 奇跡信仰の実益、これは近頃珍しい御質問です。しかし、全く益のない御質問ではないでしょう。信仰が信仰である以上は、現生涯に全く関係のない信仰などは無いはずです。
そして、もし奇跡が真に有るとすれば、これを信じて、私共の生涯に、何かの利益が無いとも限りません。
私は未だかつて、宗教上の信仰なるものを、一つの気休めとして解釈したことはありません。信仰は、人の主義・確信であって、彼の生命の真髄です。奇跡の信仰もまた、その中心的で重要な地位から動かされるべきものではありません。
奇跡を信仰して、私共は大胆に大事に当たることが出来ます。これによって、私共は自己の能力を計らず、もし正義であり大道であると信じるならば、天の大能に頼って、臆せず恐れずに、その実行に自らを任じることが出来ます。
奇跡の神を信じて、不可能事は私共の念頭に、全く無くなります。私共は、先ず神意の所在を探れば、それで問題は尽きるのです。後は能力の問題です。そして能力は、私共はこれを奇跡の神に仰ぎます。
そのように申し上げると、あなたは私の無謀さを御笑いになるでしょうが、しかし世界の大偉人とは、みなこの一種の「迷信」を持った者です。ルターでも、クロムウェルでも、ウェスレーでも、みな自己の能力を計って、彼等の眼前に横たわった大事に当たった者ではありません。
彼等はみな、「神、もし我と共に在らば、我何をか為し得ざらんや」という奇跡の信仰をもって、彼等の大任を担った者です。
奇跡を信じない者は、この世に在って臆病者であり続けざるを得ません。そのような人は先ず自己に顧み、周囲に鑑み、時勢を計って、それから後に動く者ですから、注意深くあるようで、実は何も大きな事を為し得ない者です。
もちろん奇跡を信じることに、大きな危険があります。
奇跡を信じなければ、十字架にかけられる心配はありません。しかしながら、カーライルが言うような、「火の車に駕して天に昇るの生涯」は、奇跡を信じない者には遂げることの出来る生涯ではありません。
また奇跡を信じて、私共に永久の忍耐が生じます。自分の内を省みれば、実に軟弱汚穢、取るに足りない者ではありますが、しかし上を見れば、昴宿(ぼうしゅく)参宿をさえ自己の掌の中に自由に動かされる神が在ると信じるので、私共はこの神を仰ぎ見て、自己を清めて、如何なる難事業にも当たることが出来ます。
かの世に多く存在する、他人の欠点を指摘する以外には、自己の可能力を自覚することの出来ない批評家と称する人達などは、みなこの信仰をもたない者であると思います。
無限の能力の所在を知り、またこれを得る道を知る者は、他人の欠点を発見して、自己に満足を買う必要はありません。
そのような人は、直ちに大能力に至り、そこに新たな能力を得て、自己の欠を補うと同時に、また他人の欠までを補ってやろうと思う慈悲心を起こします。実に奇跡の信仰は、私共を積極的な人物にします。
私共は、能力の不足を感じる痩せ犬のような不平家であることを止めて、糧食が足りて香油が滴るばかりの肥馬のような者となって、険に際して躍り、難に遭って勇む者となります。
それだけではありません。
奇跡の信仰は、私共を希望の人にします。死に勝つ希望は、奇跡の信仰によります。天に昇る希望もまた、奇跡の信仰によります。
奇跡の信仰なしには、墓の彼方は真暗です。また奇跡の信仰なしには、世界の未来も真暗です。もし数字をならべて人類の将来を考えるなら、私共はマルサス(
http://en.wikipedia.org/wiki/Malthus )の人口論の結論に達する他はありません。
しかしながら、人の霊の自由を信じ、霊によって現れる神の異能を信じて、私共はこの地の将来について、少しも疑懼(ぎく)を懐かなくなります。
私共は、ただ天国とその義とを求めれば足ります。その他のものは、神が何かの方法によって、私共に加えられると私共は堅く信じます。
奇跡の信仰がなければ、高潔な詩歌も美術もありません。奇跡の信仰がなければ、人はみな算盤一方の商人となります。人が人であるゆえんは、彼に天然を凌駕する能力があるからです。
ある詩人が言った通り、
人にして若し人以上たり得ずば、
人とは如何に憐れむべき者なるぞ。
と。
私の財布の底にある金と、私の筋骨にある力とが、私の所有の全てであるならば、私は如何に憐れむべき者でしょうかと、誰もが叫ばざるを得ません。
私はあなたが、奇跡の信仰を、わずかに宗教家の贅沢品であるように見なさないことを望みます。
サヨナラ
「奇跡の信仰」完