「テサロニケ前書の研究」その8
(第2章)
14節 蓋(そは)兄弟よ、爾曹はユダヤの中なるキリスト・イエスに在る神の教
会に倣へる者となれり。彼等がユダヤ人に苦められし如く、爾曹も己が国
人に苦められたれば也。
◎「蓋(そは)」 神の道は、あなたたち信じる者の中に在って、実効を奏した。そしてその明らかな証明は、あなたたちが、自分の同胞から受けた迫害にある。
迫害は、信仰行動の実証である。信仰がない所に迫害はない。またキリストにおける真正の信仰がある所に迫害がない所はない。迫害は信仰の反影である。内に確固とした信仰があれば、外から強固な迫害が必ず来る。
私があなたたちに伝えた道(ことば)が、誠に神の道であることを知りたいと思うか。それならそれを、あなたたちが、あなたたちの同胞から受けた迫害において見なさい。この迫害は、誠にあなたたちが受けた道が、神の道であることを証するものである。
◎「ユダヤの中なるキリスト・イエスに在る神の教会」 神の教会である。しかも単に独一無二の神を信じる教会ではない。ナザレの人キリスト・イエスを信じる教会である。
ユダヤ国に在り、ユダヤ人の中に在る教会である。しかもこの世の教会ではなくて、キリスト・イエスにおいて在る教会である。教会は地上のものである。しかし、その基礎(いしずえ)を地に置くものではない。キリスト・イエスに在って地上に存在するものである。
これが、世が教会を迫害する主な理由である。
即ち、それが地以外のものであるにもかかわらず、地上に存在するからである。あたかも僻陬(へきすう)の人が、異国の人を嫌って、これを彼等の中から追い出そうとするのに似ている。
◎「彼等がユダヤ人に苦められし如く云々」 ユダヤ人の中に在るキリストの教会は、ユダヤ人に苦しめられて、それが真に神の教会であることを自証した。そして、あなたたちテサロニケの信者も、あなたたちの同胞に苦しめられて、全ての教会の模範であるユダヤ教会に倣(なら)う者となった。
迫害は、キリスト教会の特性である。これのないものは、キリストの教会ではない。十二使徒によって建てられたユダヤに在る教会は、この特性を呈して、それが真にキリストの教会であることを証明した。
そしてあなたたちもまた、同じ特性を呈して、同じ特権を有する者であることを証明した。
神の道の在る所に迫害は行われる。ユダヤ人の中に在る最初の信者は、これを心に受け入れて、その同胞に苦しめられた。そしてあなたたちもまた、これを信じてあなたたちの同胞に苦しめられた。
同一の結果は、同一の原因を証明する。同胞の迫害があって、信仰の確立のないものはない。神の道は、あなたたちの中に在って、働きつつある。それはあなたたちが自分の同胞から受けつつある迫害によって明らかであると。
15節 ユダヤ人は主イエスと己が預言者等を殺し、又我儕を苦しめて逐出せり。彼等は神を悦ばせず、かつ凡(すべて)の人に逆ひ、
◎「
人の敵は其家の者なるべし」(マタイ伝10章36節)。 パウロの第一の敵は、彼の同胞であるユダヤ人であった。ゆえに彼は、ユダヤ人の名を口にして、心に深い痛みを感じない時はなかった。
ユダヤ人は何者であるか。彼等は主イエスを殺した。また、彼等に送られた預言者を殺した。そして主イエスの僕で、預言者に倣おうと思う私達使徒を苦しめて、国外に放逐した。そのようにして彼等は、神を喜ばせず、全ての人に逆らった。神に敵対して人類の敵となった。
16節 我儕が救を得させんとて異邦人に語るを阻(はば)めり。是れ彼等の罪の常に盈(み)たされんためなり。神の終局の怒彼等に臨(いた)れり。
◎「我儕が救を得させんとて云々」 神を喜ばせず、人に逆らい、己れ自ら救われようと思わないだけでなく、また、他人が救われることをも欲せず、「
人の前に天国を閉ぢて、自ら入らず、且つ入らんとする者の入るをも許さ」(マタイ伝23章13節)ない。
私達を彼等の中から放逐しただけでなく、また異邦人の中に在っても私達を追いたてた。彼等は頑強で嫉妬に満ち、従順の性と共に仁慈の質を捨て去った。神に恵まれるべき者が、神を捨てるに至った結果は、その通りである。
◎「是れ彼等の罪の云々」 預言者を殺し、主イエスを殺し、その僕達を追いたて、今は使徒達が道を異邦人に伝えることを妨害する。彼等ユダヤ人は、そのようにして罪に罪を重ね、自分に敗滅を招きつつある。
罪は満たされなければ罰せられない。異邦人の中に福音の伝播を阻害して、彼等は
先祖の罪の量(ますめ)を充たしつつある(マタイ伝23章32節)。
◎「神の終局の怒彼等に臨(いた)れり」 ユダヤ人と、ユダヤ人が依頼した制度とに臨むべき神の最終の裁判は、既に彼等に向って宣告された。
彼等がキリストを殺して後四十年、パウロがテサロニケ前書を書き送って後二十年、国民としてのユダヤ人は、ローマ人に掃滅されて、西方アジアには、再びユダヤ国を見なくなった。
愛の神に憤怒なしと言うな。愛であるがゆえに、彼は時には怒らざるを得ないのである。神の忍耐は大である。しかし無限ではない。
人の罪が満たされる時には、即ち、頑強は進んで無慈悲と化し、自分だけが真理を拒むだけでなく、進んで他人がこれを受け入れるのを阻むようになれば、神の怒りは終に彼の上に臨まざるを得ない。
忍びなさい。あなたたち同胞から迫害される者よ。これをユダヤ人の実例に見てみなさい。彼等は聖徒を迫害して、終に神の怒りを己が身に招いた。
あなたたちを迫害して止まないあなたたちの国の人達もまた、永く神の憤怒に触れずにおられようか。神の道(ことば)は、誠にあなたたちの中に在って働くのである。
あなたたちこれを信じる者は、これによって救われ、あなたたちの国の人で、これを信じない者は、これに逆らって亡ぼされる。
迫害は、真理が根付いたことの実証である。真理の臨まない所に迫害はない。したがって、救いはない。また滅亡もない。
17節 兄弟よ、我儕今暫時(ざんじ)爾曹より離れ居る。然れども是れ面のみな
り。心に非ず。我儕切(しき)りに願ひて、急ぎ爾曹の面を見んとせり。
◎ 兄弟よ、わたしたちは真理の友である。また迫害の友である。迫害は私達を益々親密な朋友にした。ゆえに私達は、急いで直ちにあなたたちの顔を見ようとした。
これは私達の切なる願いであった。私達は同志である。
同遇の友である。同じ真理を受けて、同じ迫害を忍ぶ者である。
わたしたちは、今、場所を異にしている。しかし心は、同じ主に在って一つである。そして
心が一つである者は、また肉体においても、相会したいと思う。
わたしたちは、多数の勢力が何であるかを知っている。多数の不信者に取り囲まれて、彼等に嘲笑罵詈(ばり)されることは、何と苦しいことか。
そしてあなたたちは、今この苦しい攻囲の中にいる。私達もまた幾回か敵地に在って、独りで信仰の孤城を守った。私達は今、あなたたちが悲境にいるのを聞いて、あなたたちの救援に赴きたいと思う心が甚だ切である。
18節 是故に我儕、爾曹に至らんと願へり。殊に我パウロ之れを願ふこと一次
のみならず、再次なりし。而してサタン我儕を妨げたり。
◎「我儕」 パウロとシルワノとテモテ(1章1節)は、あなたたちの救援に行きたいと思った。殊にパウロはこれを願った。しかしサタンは、わたしたちを妨げて、この望みを遂げさせなかった。
わたしたちは、遠隔の地に在って、あなたたちが艱苦にあることを聞いて、手を束(つか)ねて、これを傍観するに忍びなかった。
◎「サタン云々」 善事の妨害は、全てサタンの手を通して来るものだとは、パウロ在世当時の一般の信仰であり、彼もまたそのように信じたようである(コリント後書12章7節参考)。
19、20節 そは我儕の望、喜、また誇の冕(かんむり)は誰ぞや。我等の主イエ
ス・キリストの臨らん時、その前に於ける爾曹ならずや。そは、爾曹は我
儕の栄、又喜なればなり。
◎ わたしたちが、それほどまでにあなたたちを慕うのは当然である。なぜなら主イエス・キリストが世を裁くために再び来られる時に、わたしたちの望とし、また喜びとし、また誇るべき冠となすべきものは、あなたたちを除いて、他にはないからである。
私たちは主の前に出て、何を望もうか。あなたたちを「
キリストの中に完全を得て、神の前に立たしめ」(コロサイ書1章28節)たということを以て、主の賞賛に与ることではないか。
わたしたちはその時、何を喜ぶであろうか。
あなたたちを清い女として、キリストに献(ささ)げたことではないか(コリント後書11章2節)。
そしてわたしたちが天使の前に誇って戴くべき冠とは何か。それは、金銀宝石をちりばめた冠ではなくて、神の活ける霊を得て、死から甦ったあなたたちではないか。わたしたちの勤労の結果は、主に在って救われたあなたたちである。
わたしたちはこの世に財貨を蓄えない。またこの世に在って、王冠を戴かない。しかしわたしたちは、絶対的貧者ではない。わたしたちはあなたたちによって、天に財(たから)を蓄えた。あなたたちは、誠にわたしたちの財産である。わたしたちが誇りかつ楽しむ富である。
◎「爾曹は我儕の栄、又喜なればなり」 あなたたちは主の再臨の時におけるわたしたちの栄また喜びであるだけでなく、今日既にわたしたちが、栄かつ喜びとするものである。来世の栄また喜びであるだけでなく、今の世に在って、現時の栄華また歓喜であると。
伝道師の唯一の財宝は、彼が神に導くことの出来た信徒である。彼が未来において頼るべき者は、これである。彼が現時において依るべき者もまたこれである。
苦しい時に慰め、楽しい時に同感する者はこれである。パウロが今直ちに、テサロニケに在る信者を見たいと思ったのは、この情理に基づいている。即ち彼に取っても彼等に取っても、相互を慰める者は、全宇宙において、彼等相互を除いて、他にないからである。
第2章概察
◎ この章は、初代における伝道の状況を示す。迫害は至る所で伝道師を待っていた。ユダヤ人に追われ、異邦人に苦しめられ、至る所で
世の汚穢また万(よろず)の物の塵垢として迎えられた。
彼が新伝道地に入ることは、非常な困難であった。そして入って後もまた、大きな紛争の中においてでなければ、神の福音を伝えることは出来なかった。この時には未だ、今日いわゆる「伝道の快楽」なるものはなかった。
伝道師は彼の生命を投げ出さなければ、彼の聖職に従事することは出来なかった。その時には、伝道は実に戦闘の一種であった。 (1、2節)
◎ 初代の伝道は戦争であった。しかし、伝道師の武器と防具とは、彼の誠実を除いては、他になかった。彼の身に寸鉄を携えなかったことはもちろん、彼を守るのに自国の公使はなく、また領事もなく、彼はただ万事を、
心を察して下さる神に委ねて進んだ。
彼は誰からも、尊重と栄耀とを求めず、甘んじて侮辱を受け、世に何の権利もないような者となって、道を伝えた。
教会は、貧しい時に最も清い。伝道師は、弱い時に最も強い。
国旗と軍艦に守られて異邦に伝道する今の宣教師に、何の異能も伴わないのは、当然である。こう言われている。
亡国の民は、最も力ある外国宣教師を作ると。今の英国または米国の民が、最も力のない宣教師を作るのは、同一の理由に基因するに違いない。 (3、4、5節)
◎初代の伝道師は、自給であった。彼は教会または伝道会社から、既定の俸給を仰がなかった。彼は信者
一人をも煩わせないようにするために、夜昼仕事をして神の福音を宣べ伝えた。
彼は非常に身の潔白を重んじた。彼は、彼が宣べ伝える福音が、汚れ(利欲)から出るのではないことを示そうと努めた。彼の時代は、あるいは私達の今日の時代よりも、この自給的生涯を送るのに適していたのであろう。
しかし、彼の成功の一大原因がここにあったことは、敢えて疑いを挟むべきではない。俸給的伝道と、自給的伝道、軟弱と強健、睡眠と覚醒、二者の分かれる所は、一にここに存するようである。 (9節)
◎ 迫害は、初代のキリスト信徒の、必要的随伴物であった。彼等は、迫害のないキリスト教なるものを、知らなかったようである。彼等は同国人の迫害を蒙って、初めて自分がキリスト信者であることを認識したようである。
今の「信者」は、水の洗礼を受けて、教会に入ったことで信者であると称し、初代の信者は、世の迫害を受けることを、信者である兆候であるとした。そして、前者が虚であって、後者が実であることを判別できない者が誰かいるであろうか。 (14、15節)
◎ 初代のキリスト信徒に取っては、迫害は真のバプテスマであった。彼等はこれによって、キリストの心に入り、また相互の心に入った。迫害は、彼等相互を本当の兄弟姉妹にした。
水の洗礼は、兄弟的関係を起こすに足りない。迫害の水に覆われてのみ、私たちは初めて、血肉もただならない兄弟姉妹となることが出来るのである。
追い求めるべきは、実に信仰のために被るべき、同胞または骨肉からの迫害である。これがあって真の教会は興り、真兄弟と真姉妹とは成る。
私達には、本当の、温かい、頼るべき、慕わしい教会はない。なぜなら、私達には迫害がないからである。あるいはあっても、私達はこれを避けるからである。あるいは迫害を呼び起こすだけの信仰が、私達にないからである。
キリスト信者にとって、迫害がないほど不幸なことはない。それにもかかわらず、今の宣教師的キリスト教は、迫害を惹き起こさないことを誇りとする。それがパウロ時代のキリスト教と大いに異なる所があるのは、その結果によって明らかである。 (17、18、19節)
(以上、12月22日)
(以下次回に続く)