「ヨブ記注解 第8章〜第17章」No.2
第9章
ヨブがビルダデに答える ◎彼もまた神の公義を認めている ◎しかし、神の行為に圧制家のそれに類するものがあるのはなぜか ◎神は独断者である。ゆえに人が彼と争っても益はない ◎善悪の無差別 ◎自修の無益 ◎中保者の希望
1節 ヨブこたへて言ひけるは
2節 我まことに其事の然(しか)るを知れり。
人いかでか、神の前に義(ただ)しかるべけん。
3節 よし人は、神と弁争(あらそ)はんとするとも、
千の一も答ふること能(あた)はざるべし。
4節 神は心慧(かしこ)く力強くましますなり。
誰か神に逆らひてその身安からんや。
5節 彼山を移したまふに山知らず。
彼震怒(いかり)をもて之を翻倒(くつがえ)したまふ。
6節 彼地を震(ふる)ひてその所を離れしめたまへば、
その柱ゆるぐ。
7節 日に命じたまへば日いでず。
又星辰(ほし)を封じたまふ。
8節 唯彼のみ独り天を張り、
海の涛(なみ)を履(ふ)みたまふ。
9節 また北斗参宿(しんしゅく)昴宿(ぼうしゅく)、
および南方の密室を造りたまふ。
10節 大いなる事を行ひたまふこと測(はか)られず。
奇しき業を為したまふこと数知れず。
11節 視よ、彼わが前を過(すぎ)たまふ。然るに我これを見ず。
彼すゝみゆき給ふ。然るに我之を暁(さと)らず。
12節 彼奪ひ去り給ふ。誰か能(よ)く之を阻(はば)まん。
誰か之に汝何を為すやと言ふことを得為(えせ)ん。
13節 神其震怒を息(や)め給はず。
ラハブを助(たすく)る者等(ものども)之が下に屈(かが)む。
14節 然れば我争(いかで)か彼に回答(こたえ)を為すことを得ん。
争(いか)でわれ言(ことば)を選びて彼と論(あげつ)らふ事を得んや。
15節 仮令(たとい)われ義(ただし)かるとも彼に回答(こたえ)をせじ。
彼は我を審判(さば)く者なれば、我彼に哀(なげ)き求めん。
16節 仮令我彼を呼びて彼われに答へたまふとも、
わが言を聴(きき)いれ給ひしとは我信ぜざるなり。
17節 彼は、大風をもて我を撃砕き、
故なくして我に衆多(おおく)の傷を負(おわ)せ
18節 我に息(いき)をつかしめず、
苦き事をもて我身に充(みた)せ給ふ。
19節 「強き者の力量(ちから)を言はんか。視よ、此(ここ)にあり。
審判(さばき)の事ならんか。誰か我を喚出(よびいだ)すことを
得為(えせ)ん」と。
20節 仮令(たとい)われ義(ただし)かるとも我口われを悪(あし)しと為さん。
仮令われ完全(まった)かるとも、尚われを罪ありとせん。
21節 我は全し。然(しか)れども我はわが心を知らず。
我(わが)生命(いのち)を賎(いやし)む。
22節 皆同一(ひとつ)なり。故に我は言ふ。
神は完全者(まったきもの)と悪者(あしきもの)とを等しく滅したまふと。
23節 災禍の俄然(にわか)に人を殺す如き事あれば、
彼は辜(つみ)なき者の苦難を見て笑ひたまふ。
24節 世は悪き者の手に交(わた)されてあり。
彼またその裁判人(さばきびと)の面(かお)を蔽(おお)ひたまふ。
若し彼ならずば、是誰の行為(わざ)なるや。
25節 わが日は駅使(はゆまづかい)よりも迅(はや)く、
徒(いたずら)に過去りて福祉(さいわい)を見ず。
26節 其走ること葦舟(あしぶね)のごとく、
物を攫(つか)まんとて飛翔(とびかけ)る鷲のごとし。
27節 たとひ我(われ)わが愁(うれい)を忘れ、
顔色を改めて笑ひをらんと思ふとも、
28節 尚この諸(もろもろ)の苦痛のために戦慄(ふるいおのの)くなり。
我思ふに汝われを釈(ゆる)し放ちたまはざらん。
29節 我は罪ありとせらるゝなれば、
何ぞ徒然(いたずら)に労すべけんや。
30節 われ雪をもて身を洗ひ、
灰汁(あく)をもて手を潔(きよ)むるとも、
31節 汝われを汚(けがら)はしき穴の中に陥いれたまはん。
而して我衣も我を厭(いと)ふにいたらん。
32節 神は我のごとく人にあらざれば、我かれに答ふべからず。
我等二箇(ふたり)して共に審判に臨むべからず。
33節 また我等二箇の上に手を置くべき
我等の間には中保(ちゅうほう)あらず。
34節 願(ねがわ)くは彼その杖を我より取(とり)はなし、
その震怒(いかり)をもて我を懼れしめたまはざれ。
35節 然(しか)らば我言語(ものいい)て、彼を畏れざらん。
其は、我みづから斯(かか)る者と思はざればなり。
辞 解
2節 「我まことに其事の然(しか)るを知れり」 あなたが言うような平凡な真理は、私はずっと前から知っていた。今これについて、あなたの説法を聞く必要はない。
◎「人いかでか云々」 神が正義であることは、私もまたよく知っている。しかし、人―――罪の人―――はどうして神の前に正しくありえようか。これは難問題である。あなたたち、「煩わしい慰め人」達は、この問題を、私に解釈してくれようとはしないのである。
3節 「神と弁争(あらそ)はんとするとも」 訴訟上の弁論である。たとえ神を相手に取って公平な審判を仰ごうとしても云々。
4節 「心慧(かしこ)く力強く」 知恵とこれを実行するのに充分な力量とを備えておられる。そのような者と争えば、敗訴は当然である。そのような愚を演じる者がいるかと。
5節 「山知らず」 山の知らない間に、即ち
思いもよらぬ間にこれを移される(詩篇35篇8節参考)、神は独断される。山に謀ることなく、不意にこれを移されると。
◎「震怒(いかり)をもて云々」 雷霆(らいてい)を以てという意味であろう。
6節 「地を震(ふる)ひ云々」 地震を言うのであろう。
◎「柱」 古代の宇宙観によれば、地は大きな宮殿のようなもので、これに柱や天上があった。そして山岳は、地上で天を支える柱であると信じられたのである。
7節 ヨシュア記10章12、13節参照。
8節 「天を張り」 天を天幕と見て言うのである。「
エホバは蒼穹(おおぞら)を薄絹の如く布き、之を幕屋の如く張り給ふ」(イザヤ書40章22節)。
◎「海の涛を履み給ふ」 大風が、大波を上げながら洋面を走る様を言うのであろうか。
9節「北斗参宿(しんしゅく)昴宿(ぼうしゅく)」 ヘブライ語のアーシュ、ケセール、ケーマーの三語を訳した語で、星宿の名である。共に著明な星座であって、観星者の誰もがよく知っているものである。「聖書之研究」第60号「聖書における星」の欄を参考にしなさい。
◎「南方の密室」 赤道以南に羅列する星座を言う。北半球にいる人の眼には映じないものである。ゆえにこれを
密室と言う。
10節「大いなる事………奇しき業」 量れないこと、探れないこと。その大きさは無限である。その知においてもまた無限である。
11節「視よ、彼わが前を過(すぎ)たまふ云々」 神の道は量ることが出来ない。また探ることも出来ない。雷霆によって地を撃たれるかと思えば、また静かな
細い声で、人と語られる(列王記略上19章12節参照)。
彼の形状は、これを宇宙において見ることが出来る。しかし霊である彼は、風のように私の前を過ぎて行かれても、私はそれを見ることが出来ない。神の大能は驚くべきであり、その微妙もまた驚くべきである。
12節 「彼奪ひ去り給ふ云々」 神は専制家である。独断者である。
彼は、彼が思うままを為される。そして人は、彼の行為に対して、くちばしを容れることが出来ない。
13節 「ラハブを助(たすく)る者」 意味は明瞭でない。イザヤ書51章9節によって観ると、ラハブはエジプト国を指しているようである。
詩篇74編13節によれば、ラハブは「竜(たつ)」または「ワニ」という意味である。そして「海を分ち、水の中なる竜の首を挫(くじ)き」とあるから、水(海)とラハブとは、相離れられない者のようである。
ゆえに、「ラハブを助(たすく)る者」とは、
高ぶったエジプトの従者という意味であるか、あるいは猛獣ワニとその類であるか、あるいは
海とその波となるか、今に至っては、その意味を定めることは難しい。
ただ、その全体の意味が
強者とその仲間とにあることは、敢えて疑うことが出来ない。注解上のこの種の困難は、考古学に関わるものであって、実際的信仰には何の影響もない。
14節 「然れば我争(いかで)か彼に回答(こたえ)を為すことを得ん」 神がその震怒(いかり)をお止めにならなければ、最大の勢力でさえ、その下に屈する(前掲)。それだから弱い私は彼と争っても、どうして彼に回答することが出来るであろうかと。
古代の法廷に在っては、強者は権者であった。ヨブはその事を思って、彼がとうてい、正義の法廷に立って、神の対等者になり得ないと信じた。
15節 「仮令(たとい)われ義(ただし)かるとも云々」 混乱していたヨブは、法律の本義を忘れ、彼が正義の側に立っていても、弱さゆえに神と争うことは出来ないと言う。そのように言うことで、彼は神を侮辱したのである。なぜなら、神は威力によって、義者を強圧する者ではないからである。
◎「彼は我を審判(さば)く者なれば云々」 神は私と対等な者ではない。ゆえに私は彼と争えない。彼は私を審判する者である。私は争う者ではない。彼に審判される者である。ゆえに私は、審判者である彼に哀求するだけである。
16節 「彼を呼びて云々」 「呼びて」は、裁判所に呼びだすのである。「答へ」は、その召喚(しょうかん)に応じることである。
たとえ私が神を相手取って訴訟を起こし、そして神が、私の起訴に応じることがあっても、私は彼が私の言葉を聞き入れて、これに耳を傾けて下さるとは信じないと。
17節 彼は言葉によって私にお答えにならず、威力によって私を圧倒される。
18節 私に言葉を出させず、ただ苦楚茵陳
(くそいんちん)(苦い薬草か)(参考:
http://www.cclc.org.tw/encyclopedia/Tarragon/home.htm )で私の身を満たされる。外より圧し(前節)、内より悩まされる。
19節 神の言葉として解すべきである。ヨブは言う。「神は私の訴訟を嘲って言われる。『強き者の力量を言はんか云々』」と。
◎ 神は言われた。「強者が何であるかを知ろうと思うか。私は即ち彼である。審判(さばき)を仰ごうとするか。私を召喚することが出来る裁判人は誰か」。
私が神の前に出れば、私の身は恐怖に襲われて、たとえ正義は私の側にあっても、私は私に不利益な言葉を発して、訴訟は私の敗訴となって終わるであろう。
21節 「我は全し」 そうです。私は自己に省みて、悪い所はない。「然(しか)れども我はわが心を知らず」、そう断言しても、私は私自身をさえ解しない者である。ああ、憐れむべき私よ。私は私の内に二個の私がいるのを覚える。一つの私は、他の私の自信を保証しないのである。
◎「我(わが)生命(いのち)を賎(いやし)む」 私はそのような二元的な生命を賎しむ。
22節 「皆同一(ひとつ)なり」 善悪は皆同一である。その間に差別はない。
神は善人と悪人とを等しく滅ぼされる。
23節 神は罪のない者の絶滅を見て喜ばれる。
24節 世は悪人の手に渡され、神はまた悪人を保護するために裁判人の眼を覆われる。
◎「若し彼ならずば、是誰の行為(わざ)なるや」 もし神でなければ、誰がこの事を為し得るか。これは神でなければ為せないことである。ゆえに私は言う。「皆同一である。世に善悪の差別はない」と。
25節 「わが日は」 私の生涯は、私がこの空気を呼吸する間は
◎「駅使(はゆまづかい)」 当時の飛脚である。疾走で有名である。サムエル後書18章22、23節を見なさい。
はゆまづかいは、早馬使(はやうまづかい)である。東方の駅使には、一日に優に125マイルを走る者がいたと言う。
◎「徒(いたずら)に過去りて福祉(さいわい)を見ず」 ただ路程を過ぎるだけであって、その間に何の快楽もない。使者の使命はただその目的地に達することである。その他にはない。
26節 「葦舟(あしぶね)」 エジプト国ナイル河に浮かぶパピルス草(葦の類)で造った小舟を言うのであろう。嬰児モーゼの母が彼を隠したのは、おそらくこの舟のさらに小さなものであったであろう(出エジプト記2章3節参考)。急流を下るとき、その速さは矢のようである。
◎「物を攫(つか)まんとて飛翔(とびかけ)る鷲のごとし」 鷲が最も速いのは、この時である。卒然下って来て、獲物を奪い去る。
◎人生は、これを何に譬えようか。陸上を走る駅使のようである。水上を行く軽い舟のようである。空中を飛翔する鳥のようであると。
27節「笑ひをらんと思ふ」 嬉色(きしょく)を呈しようと思う。
30節 「雪をもて身を洗ひ」 雪水を以てではない。
雪水は濁水である(6章16節)。
雪を以てである。雪のように白くなるためである(詩篇51篇7節参考)。
◎「灰汁」 アルカリ水である。石鹸の用をなす。
31節 「汚(けがら)はしき穴」 泥の坑である。
◎「我衣も我を厭(いと)ふ」 私の身は汚穢を極め、私の衣さえ私の身を厭うようになった。衣服を感覚のある者として言う。
34節 「杖」 笞杖(むち)である。罰を加えるために用いられるものであって、この場合においては、ヨブに加えられた刑罰、即ち艱難を言うのである。
35節 「我みづから斯(かか)る者と思はざればなり」 私は、そのような刑罰に値する悪人であるとは思わなかったからである。21節の「我は全し」と言うのと同じ。
意 解
◎ ヨブの失望は、今やまさにその極に達しようとする。ゆえに彼の言葉は、実に大風のようであった(8章2節)。これに制裁なく、規律もない。彼は今は暫時的無神論者だったのである。
彼の苦悶が甚だしいものだったことを知らずに、彼の失言を責めるのは酷である。彼が神に向って暴言に類する語を発するのは、彼が神の慈愛に満ちたまなざしを求めて止まないからである。
親密さは、時には礼を失し易い。ヨブの神に対する攻撃には、子が愛を以て親に迫るような観がある。それは戒めなければならないが、憎んではならない。(1〜24節)。
◎ 苦悶の余り、ヨブは、神は人が近づくことの出来ない専制君主であると思った。
神に逆らって、その身が安らかな者が、誰かいるであろうかと。それが間違っていないかどうかは問わず、人が神に逆らうのは危険である。いかなる場合でも、彼は神に屈服すべきであり、神と争ってはならない。
神には知恵があり、能力がある。
しかし、慈愛は、彼において認め難い。彼は、威を以て下を圧する主人である。彼は義を以て争うべき者ではないと。(2〜4節)。
◎ これを、彼(神)が宇宙を統治する道において見てみなさい。山に相談せずに山を移し、雷霆によってこれを挫き、日を閉じ、星を封じ、天を張り、波涛を踏まれる。
宇宙万物はみな、彼の威力を示す。彼は怖るべき者である。近づくべきでない者である。大事を為し、また怪事を為される。とうてい弱い人類の友ではないと。(5〜10節)。
◎ 神の巧妙機智にもまた、驚くべきものがある。彼が静かに私の前を過ぎて行かれても、私はそれを知覚できない。彼が進んで行かれても、私はそれを知ることが出来ない。
彼は死のようである。奪い去ろうとすれば、人はこれを阻むことが出来ない。彼は恐るべきものである。関与してはならないものである。とうてい、拙い人類の友ではないと。 (11〜12節)。
◎ 憐れむべきヨブは、今は神を恐れて彼を愛さない。宇宙に神の恐怖だけを見て、その中に彼の慈愛を発見することが出来ない。しかしこれは、艱難が相次いで私達に臨む時に、私達の誰もが取る、心の態度である。
宇宙はつまるところ、心の反映に他ならない。恐怖で満たされたヨブは、宇宙において恐怖の他何物をも観ることが出来なかった。
神は大風を以て我を撃砕き給ふと。そうです。ヨブよ、彼はまた軟風であなたの頬を払われるではありませんか。残忍刻薄だと、神を誣(し)いてはいけません。あなたの心に春が臨む時に、宇宙は挙って花鳥の絵画に変わるでしょう。(13〜20節)。
◎ 神を解せず、また自己を解しない。それで「我(わが)生命(いのち)を賎(いやし)む」と言うのです。生命の貴さは、その調和にあり、善なる神が善に見え、美なる宇宙が美に見える時にある。
ところが今や神は、虐王暴主として現れ、宇宙は恐怖としてだけ見えるようになって、ヨブは自分の生命を賎しむようになった。
彼は既に「
われ生命を厭ふ。我は永く生ることを願はず」(7章16節)と言った。そして「人生の矛盾」を深く感じるに至って、彼は生命そのものを賎しいと見るようになった。
彼は言った。
皆同一なりと。善悪みな同一である。生死みな同一である。悪者に臨むものは、善者にも臨み、生は死のようなものであって、死はまた別に恐るべきものではないと。
彼は、神は猛力(ブルートフォース)であると観じた。人の苦難を見て喜ぶ嘲笑家のような者だと思った。そしてそのように神を観じたヨブ自身もまた、富貴快楽を蔑視する厭世哲学者の一人となった。
絶望は人を駆り立てて、「冷酷な哲学者」にする。ヨブは今や人生に絶望し、神を去り、宗教を棄てて、喜怒哀楽の上に立つ超然主義の哲学者であろうとした。憐れむべきヨブよ!(21〜24節)。
◎ 神は猛力であると了(さと)り、死生善悪の差別はないと解し、超然的哲学者と化して、ヨブは幸福の人とは成らなかった。
彼は今は生きても何の甲斐もないことを感じた。愛の神を離れて、彼にとっては、時(日)は意味のないものと成った。これはただ通過すべきものであって、その中に何の幸福もないものと化した。無神論者の悲しさは、
今日を楽しめないことにある。
ローマの哲学者は、叫んで言った。
最も良いことは、生れなかったことであって、その次に良いことは、一日も早く死ぬことであると。日本の西行法師は歎いて言った。「いしなごの玉のおちくるたへまより、はかなきものは命なりけり」と。
神を離れて、生命は空虚になるのである。速やかに経過すべき
時間に変わるのである。歓喜で充実するのでなければ、生命は生命ではない。生命を厭うようになるのは、神を忘れる直接の結果である。(25、26節)
◎ 哲学者は、自ら努めて憂愁を忘れて喜色を表そうとする。しかしどうしようもない。彼の心中の寂寥は、彼を穏かでなくする。彼には自分で癒すのが困難な苦痛がある。彼はこれを思って、人知れず独り密かに慄(おのの)く。
彼は信じる。神は彼の罪を許されないことを。平和は自分独りで努めても得られるべきものではない。天から与えられて、始めて自分のものとなるのである。
平和は実物である。これを
思い出すことは出来ない。そして天の神だけがよくこの宝物を私達に与えることが出来るのである。(27、28節)。
◎自ら潔くしようと思って潔くすることの出来ない哲学者は、自己について失望して言う。私は自ら潔くしようと努めてもなお罪ありとされるのだから、何でこの上徒に労しようか。「
飲食するに若(し)かず。我等明日死ぬべければ也」(コリント前書15章32節)と。
自正は自棄に終わる。いわゆる修養なるものは、平安に達する道ではない。(29節)。
◎ 自ら潔(きよ)くなろうと思っても潔(きよ)くなれない。自ら正しくなろうと思っても正しくなれない。雪で身を洗っても、白くなれない。灰汁(あく)で手を清めても清められない。いや、自ら清くなろうと思えば思うほど、我身の汚穢(おわい)はますます暴露されて、自分は汚らわしい泥の中に陥れられる感がある。
私は思った。私が独りで修めて、自ら聖人になり得ない道理があろうかと。しかし、実際は予想と違った。私は己を責め、己に省みて、罪悪の泥塊に過ぎないことを自覚した。
我が身は実に、これを蔽(おお)う衣よりも価値のないものである。その実質が何であるかを知ったなら、無感の衣服も、さぞかしこれを厭うであろう。ああ、私はこの身をどうしたら良いだろうか。(30、31節)。
◎ ここにおいて、私は自分に一大要求物があることを覚えるのである。即ち神と自分との間に介して、私のために神を和らげ、汚らわしい私が、神の前に立つことが出来るようにしてくれる
仲保者がそれである。
純正の神は、私を裁くにはあまりにも厳正である。生来の私は、神の前に立つには、あまりにも不浄である。もし世に神と人との性を帯びて、人を神に紹介する者がいるなら、私は彼に頼って神に裁かれたい。しかし、今やそのような中保者は世にいない。
神の震怒(いかり)の杖は、私に加えられる。ゆえに私は、彼を恐れて語ることが出来ない。願わくは、この恐怖の圧迫が、私から取り去られることを。なぜなら、私自ら、そのように神の震怒に触れるべき者だとは思わないからである。(32〜35節)
◎そうです。ヨブよ、あなたは仲保者を要求しました。そしてあなたの要求は、実に人類の要求です。そして神は終にそのような仲保者を人類に与えて下さいました。今や彼に頼って、罪の人も神に近づくことが出来るようになりました。
「
神と人との間に一位の仲保あり。即ち人なるキリスト・イエスなり」(テモテ前書2章5節)。彼に頼ってのみ、人は神の前に義であり得るのです。
人生問題の解釈は、かの
一位の仲保者だけに存する。ヨブが彼を知ることが出来たとすれば、彼の苦悶はたちどころに消えたであろう。しかし彼も、キリスト降世以前の多くの人のように、暗夜に神を探らざるを得なかったのである。
彼は、はるかかなたに希望の曙光を認めたが、直ちに大光に接することは出来なかった。しかし、ヨブの声は、キリストに接触しない全ての真面目な真理探究者の声であった。
ヨブ記が高貴である理由は、それが知らず知らずの間に、神の子であって人類の王であるイエス・キリストの降世を世に予言することにあった。
(以上、2月20日)
(以下次回に続く)