神癒について
明治39年1月15日
問 先生、あなたは神癒をお信じになりますか。
答 もちろん信じます。神がお造りになったこの身体です。神がその病を癒せないわけはありません。キリストは今もなお、生きておられます。彼の能力に、昔も今も変わりはありません。
もし御心に適うなら、彼は今でも昔のように、生れつきの盲人の目を開くことが出来ます。死んだ人を生き返らせることが出来ます。
問 それでは先生は、何故、病気に罹られた時に、医者におかかりになるのですか。
答 医者にかかるのが、神の御心だと信じるからです。私は、そのことについては、聖書の言葉によるまでもなく、私の常識によって決します。
問 しかし聖書には、「
エホバは汝のすべての疾(やまい)をいやし」(詩篇103篇3節)と書いてあるではありませんか。
またヤコブ書には、「
汝等の中誰か病(や)める者ある乎。あらば教会の長老を招くべし。彼等主の名に託(よ)りて其人に膏(あぶら)を沃(そそ)ぎ、之が為めに祈らん云々」(5章14節以下)と書いてあるではありませんか。
その他、キリストが癲癇(てんかん)、中風、血漏その他全ての病を癒されたことを、聖書は沢山書き記しているではありませんか。
答 その事は、私も承知しています。私も、神に依らずには如何なる病も決して癒すことは出来ないことを固く信じます。エホバは、私達の全ての病を癒す神です。
しかしながら、エホバは私達の病を、
どのようにして癒されるか、それが問題なのです。
神が病を癒される方法は、一つでは足りません。いわゆる奇跡を以てする癒しだけが、医療の唯一の方法ではありません。医術を以てするのも、神が私共の病を癒される一つの方法です。
そして今日のように医術が比較的に進歩した時に当たっては、神に感謝しながら、これを使用するのが、常識に適った信仰の道であると思います。
問 しかし、病に罹った時は、医者に行けと、聖書の何処に書いてありますか。聖書は、医者の無能を唱えて止まないではありませんか。
「
汝等は、只虚(テキストでは「コウ」と読む難しい漢字が使われているが、「虚」とほぼ同じ意味だと思う)言を造り設くる者、汝等は皆な無用の医師なり」(ヨブ記13章4節)と。
「
此婦(このおんな)多くの医者のために甚だ苦(くるし)められ、其所有をも尽く費(ついや)しけれども何の益もなく、却て悪しかりき」(マルコ伝5章26節)と。
聖書の言葉そのままによれば、医者は全く無用の者ではありませんか。
答 そうです。しかしまた、聖書には汽車に乗れとか、憲法政治を採用せよとか、銀行を興して金融の道を開けとも書いてはありません。
またもし聖書が、医者の無用について述べているとするならば、「
智者安(いず)くに在る、学者安くに在る、此世の論者安くに在る。神は此世の智識をして愚かならしむるに非ずや」(コリント前書1章20節)、また「
我(神)智者の智を滅し、慧(さと)き者の慧きを廃(むなし)くせん」(同19節)とも記しています。
パウロ在世当時の知者といい、聡い者というのは、今日の哲学者、科学者に当たります。そして聖書にこう書いてあるから、私達キリスト信者は、カントの哲学も、ダーウィンの進化論も顧みてはならないと言うのですか。
もしそうであるとすれば、私共は近世科学の結果である全ての発明をも利用することは出来ません。また近世哲学の結論であるすべての進歩的思想を懐くことも出来なくなります。
あなたは私に、医者にかかってはならないと言われて、私にカントの平和論をも信じるな、近世科学の発明にかかる汽車・電車にも乗るなと言われるのですか。
問 しかし、医術に多くの誤謬があるのは、あなたも御承知でしょう。あなたは、今日の医術が、神の像(かたち)に象(かたど)って造られた人の身体を、悉く解し得ると御信じになりますか。
答 もちろんそうは信じません。私は、今日の医術に、多くの仮想があることを信じます。ゆえに私は多くの注意を払って、私の身体を医師に託します。
しかしながら、同じように今日の政治学にも社会学にも、多くの誤謬があります。立憲政体なるものが、果して完全な政体であるかどうかは、未だ大疑問です。
それだけではありません。今のキリスト教にもまた、多くの誤謬があることは、明らかです。今の医学が全く信じるに足りないように、今の神学も、今の聖書学も、未だ全く信じるに足りません。
もし誤謬が多いという理由で医術を排斥するならば、同じ理由によって、今の神学や聖書学をも排斥しなければなりません。
私達人間は、私達が有(も)つだけの知識に頼るより他に道はありません。医術に誤謬が多いことは、決して、これを悪魔の術として排斥する理由とはなりません。
問 しかし、医師の誤謬によって生命を奪われた者は、沢山いるではありませんか。政治や哲学は、直接の生命問題ではありません。しかし、いわゆる医学に至っては、これは私達の生命に関わることです。
そして、貴重、いや神聖な私達の生命は、人に任すべきものではないと思います。あなたは、そうはお信じになりませんか。
答 医師の誤謬によって生命を奪われた者は、沢山います。しかしまた、医師の診察を受けずに生命を失った者も、沢山います。
試みに、医術に種痘の発見がなかったとしてごらんなさい。幾千万の小児が、成長することなく死んだか分かりません。種痘の発見は、人類の発見の中で、最も大きなものの一つであると思います。
また、近頃になって、ジフテリヤ病の血清療法が、続々と功を奏しているではありませんか。その他不完全ながらも、医術は人類の苦痛の多くを拭いつつあるではありませんか。
医術にしても、神の特別の指導がなければ、今日の進歩に達しはしなかったであろうと思います。多くの医学者は、最も熱心なキリスト信者でした。彼等は、神に仕え同胞を救おうとする熱心から、彼等の研究に従事したのです。
私は信じて疑いません。医術の多くの発見も、他の技術の発見のように、神からの直接のインスピレーションによったことを。私は、医術に誤謬が多いという理由で絶対的にこれを排斥するのは、甚だ没常識であると、唱えざるを得ません。
問 それではあなたは、ヤコブ書5章14節以下を、どのように解釈されますか。
答 文字通りに解釈します。私は、「
義者の篤き祈祷は力あるもの」であることを、信じて疑いません。
私は、人の病は、直接・間接に、その罪の結果であることを信じます。ゆえに病に罹った時は、神に罪の懺悔をして、その赦しを乞う必要があると信じます。
私はまた、霊魂の病は、これを神に任せ、肉体の病はこれを医師だけに委ねる人が、よく事理を解する人でないことを認めます。私は、肉体の病に罹った時にもまた、祈祷が最も必要であると信じます。
しかしながら、ヤコブ書の、この言葉の中に、医者にかかってはならないとは、一つも書いてありません。また、薬を用いてはならないとも書いてはありません。いや、「
膏を沃(そそ)げ」と書いてあるのを見れば、適当な療法は、これを施すべしと言っているようにも見えます。
御承知のとおり、今から二千年前のユダヤにおいては、今日世に称する医術なるものは、ありませんでした。その時代の薬品と言えば、少数の香料と香油とに限られました。
「
ギレアデに乳香あるにあらずや、彼処に医者あるにあらずや」とは、エレミヤ時代の医術の有様を示した言葉です(エレミヤ記8章22節)。
強盗に打ちたたかれて、死にそうになった旅人を、あるサマリヤ人が救った時に、彼はその傷に「
油と酒とを」塗ってやったと書いてあります(ルカ伝10章34節)。ゆえに、ヤコブがここで病人に膏を沃(そそ)げと言ったのも、この意味で言ったのであろうと思います。
もちろん膏を沃(そそ)ぐとは、
聖(きよ)めるという意味にも取れます。しかしながら、穏当な聖書学者E・H・プランプター(
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Hayes_Plumptre )氏なども、ヤコブ書のここにある「
膏を沃ぐ」という言葉を、薬品使用の意味に取っています(ケンブリッジ聖書ヤコブ書103頁を参照)。
もちろん私は、聖書のこの一節を取って、キリスト信者に、薬品使用を義務として強いようとはしません。しかしながら、ヤコブがここに薬品の使用を禁じていないことだけは明らかであると思います。
長老を招けとは、もちろん今日のある教会にある長老職を招けと言うのではないことは、明らかです。長老とは、もちろん信仰の長者です。祈祷の実力を知り、力ある祈祷を神に奉げる秘訣を知っている人です。そのような人を病気の時に招いて、その祈祷を乞うのは、最も適当なことです。
私はヤコブのこの言葉の中に、解し難い教理は、何も発見することが出来ません。私といえども、病に罹った時には、たいていはここに教えられている通りに実行しているつもりです。
問 しかしながら、人が医者に頼れば、それだけ神に頼らなくなるのは、分かり切っているではありませんか。神だけに頼ってこそ、本当の信仰が出るのではありませんか。
答 必ずしもそうとは限りません。良く万物の理をわきまえた者は、全ての方法を取りつつ、全ての事において、神に頼ります。知識ある信仰は、その熱心の度を増すために、神が備えて下さった明白な手段までを放棄しません。
問 しかし、祈祷で病が癒えるものである以上は、別に医術の助けを借りる必要はないではありませんか。もしあなたの御説明の通りであるならば、祈祷によって病を癒そうとする場合は、全くなくなるではありませんか。
答 決してそうではありません。もし医術が完全無欠のものであるならば、あるいはそうかも知れません。しかし、医術が人間の術である以上は、これに完全に頼ることは出来ないのはもちろんです。
ヤコブ在世当時のように、医術が今日よりもさらに不完全であった時には、祈祷の必要が今日よりもさらに多くあったことは、よく分かります。しかし、今日でも病の時における祈祷の必要は、決して失せません。
今日でも、未だなお多くの不治の病があります。癩病
(現在では、抗生物質により完治出来る…旅人)とか、胃ガンとか、肺結核とか、脊髄病など、今日の医術ではとうてい治すことが出来ない病があります。そしてそのような病に罹った時は、ただ祈祷を以て、神に頼るだけです。
この時こそ、エリヤのような信仰を持った人の祈祷を乞うて、その治療を計る他に、道はありません。医術が比較的に進歩した今日に在っても、信仰治療の範囲は、まだ沢山残っています。
神は人類に、その造主を忘れさせないようにさせるために、疾病治療に関する秘密を未だ悉くは、彼等に御示しになりません。私達は全ての場合において、直接・間接に、神に頼らなければなりませんが、しかし、直接彼だけに頼らなければならない場合は、今日といえども未だ沢山あります。
問 あなたの御説を伺うと、何だかわかったようで、少しも分かりません。あなたは、神癒を信じていらっしゃるようでもあり、また信じていらっしゃらないようでもあります。この問題に対するあなたの御態度は、どうも明瞭を書いているように思われます。
答 そうおっしゃるならば、この問題に対する、私の態度をあなたに明白に申上げましょう。
私は、神を信じる上で、神癒なるものに余り重きを置きません。あなた方が唱えられる神癒なるものは、私の信仰箇条とはなりません。
私は、神が私の祈祷を聴いて、私の肉体の病を癒して下さろうが下さるまいが、それによって神の私に対する御心のほどを判断しません。
私は、私の肉体の病を癒されようとして、キリストを信じたのではありません。私は、私の霊魂を救っていただくために、彼の弟子となったのです。私の肉体は、罪の故に既に死んだものです(ロマ書8章10節)。これは一度癒されても、終には必ず死すべきものです。
甦らされたラザロでさえ、終には死んでしまいました。キリストに肉体の病を癒されることは、霊魂の罪を赦されるような、大きな救いではありません。私は、私の霊魂さえ癒されれば、私の肉体はどうなっても良いのです。
霊魂のためを思うと、病は少しも悪いことではありません。そうです。多くの場合においては、病は恵みです。重い病に罹った結果として、罪の縄目から救われた人は、沢山います。
ある時は、病は実に歓迎すべきものです。感謝すべきものです。病を全て悪事とだけ解する者は、未だ深くキリストの恩恵を味わったことのない人であると思います。
祈祷で病が治るとするならば、キリスト教は速やかに俗化してしまいます。疾病(しっぺい)医癒(いゆ)の願いは、決して無私無欲な願いではありません。病を癒されたいという願いは、誰にも有る願いです。
そして、もしキリストが肉体の医師であると分かれば、利欲一方の官吏でも、商売人でも、争って彼の膝もとに来るでしょう。ちょうど浜口某なる者が、金剛力によって全ての病気を治すと唱えた時に、都下の衆愚が争って彼の許に走ったようなものです。
キリストは万物の造主ですから、もちろん容易に肉体の病を治すことが出来ます。しかし、人の霊魂を救い、彼等を永久に活かそうとするのが彼の目的ですから、彼はある特別の場合においてでなければ、肉体の病を治されません。
彼はもし、霊魂を救うために肉体を癒す必要があると御認めになれば、これを癒されます。しかしその他の場合においては、これを癒されません。
キリストが肉体の病を癒されるからと言って彼を信じ、癒されないからと言って彼の恩恵を疑うようなことは、キリストを信じる道を知らない者がすることです。
ある大臣がキリストの許へ来て、カペナウムに下って、その子を癒して下さるように請うた時に、キリストは彼に問われました。「
汝等休徴(しるし)と異能(ことなるわざ)とを見ずば信ぜじ」(ヨハネ伝4章48節)と。
肉体に医癒の恩恵を受けたという理由でキリストを信じるのは、彼を喜ばせ奉る道ではありません。私共は、私共の霊魂において、キリストの偉大な能力(ちから)を感じるべきです。
そしてここに、これを感じさえすれば、私共は、肉体が癒されるかどうかにかかわらず、彼に感謝して止みません。「
彼(神)我を殺すとも我は彼に依頼(よりたの)まん」(ヨブ記13章15節)と言うのが、本当の信仰です。
使徒パウロも、ある苦痛から免れることを神に求めました。しかし神は、パウロのその祈祷を聴きいれて下さいませんでした。その時パウロはどう言いましたか。コリント後書12章7節以下を読んでごらんなさい。
我に賜はりし多くの黙示に因りて、我が高ぶること無からん為に、一つ
の刺を我が肉体に予(あた)ふ。即ち我が高ぶること無からん為に我を撃つ
サタンの使者なり。我れ之が為に三たび主に之を我より去らんことを求
めたり。
彼れ我に言ひ給ひけるは、我が恩恵汝に足れり。そは、我が力は弱きに
於て全くなれば也と。此故に我は寧ろ欣(よろこ)びて自己の弱きに誇らん。
是れキリストの力、我に寓(やど)らん為なり。
これが本当のキリスト教的信仰です。肉体の治療にあまりにも重きを置いて、神癒を信じるから信仰が強いと言い、信じないから信仰が足りないと言うようなことは、甚だ低い、かつ浅い信仰であると思います。
私は、私の信仰を、その程度に留めておくことを望みません。私は、ヨブやパウロと共に、私の肉体の病を癒されなくても、篤(あつ)く神に依り頼む信仰に達したいと思います。
問 御説あるいはごもっともかも知れません。しかし、あなたの御説は何だか学者の説のように聞こえて、私には未だ充分にこれを受け入れることが出来ません。
答 多分そうでありましょう。私は今、あなたの「神癒」に関する御信仰を壊そうとするのではありません。ただ、今後私が病に罹った時に、私が医師の援助を求めても、そのために無信仰だと言って私を責めないで下さい。
問 それは、委細承知しました。
答 そうして下されば、私はこの問題について、これ以上あなたに何も申上げません。
サヨナラ
完