(「日露戦争から私が受けた利益」No.2)
二、
日露戦争によって、私はいっそう深く戦争の非を悟りました。戦勝国に在って、連戦連勝を目撃しても、私は再び元の可戦論者になりませんでした。いや、戦勝の害悪が、戦敗の害悪に劣らないことを目前に示されて、私はますます固い非戦論者となりました。
勝報が届くごとに、国民は手を打って喜び躍りましたが、その間に国民の内心にどのような変化が起こりつつあるかを思って、私は自ら進んで、その狂気の群に加わることは出来ませんでした。
日露戦争は、我が国民の中に残留していたわずかばかりの誠実の念を、根こそぎ取りさらいました。既に非常に不真面目だった民は、いっそう不真面目になりました。
その新聞紙などは、一つとして真の事実を伝える者はなく、味方の非事と言えばことごとくこれを覆い隠し、敵国の非事と言えば、針小を棒大にして語るのを喜びました。
真理そのものを貴ぶ念は全く失せて、虚を以てするにしろ実を以てするにしろ、ただひとえに同胞の敵愾心(てきがいしん)を盛んにして、戦場において敵に勝たそうとのみ努めました。
戦争中の新聞紙は、真理をないがしろにして、勝利だけをひたすら求めるものでした。私は信じて疑いません。戦争が行われていた二十カ月間、日本には一個の新聞紙がなかったことを。即ち事実を報道し、私達に公平な判断を下させることの出来る一個の新聞もなかったことを。
戦争は、私達を不道理な、不真面目極まる民にしました。そしてもし民の道徳に何か値打ちがあるとするならば―――そして私は、無上の価値があると信じます―――、このように道徳的に蒙った国民の損害は、戦争によって獲(え)たわずかばかりの土地や権利によっては、とうてい償(つぐな)うことの出来るものではないと思います。
そして、真理を貴ぶ念が失せただけではありません。人命を貴ぶ念までが失せました。常には人命の貴重を唱えて止まない民は、戦争によって、人の生命が牛馬と比べてみて、それほど貴いものではないように思うようになりました。
敵の死傷二十万と聞けば、喜びのあまり、我が死傷五万との報せに接しても、一滴の涙を流さなくなりました。我が死傷五万とは! 五万の家庭は、あるいはその夫を、あるいはその父を、あるいはその子弟を失ったのです。五万の家庭から、同時に悲鳴の声は揚がりつつあるのです。
ところが、これを悲しむ者などは一人もなく、祝杯は全国至る所で挙げられ、感謝の祈祷は、各教会においてささげられたのです。人命の貴尊も何も、あったものではありません。同胞の愛も何もあったものではありません。
同胞の屍(しかばね)は山を築き、その血は流れて川となっても、それは深く国民の問うところではありませんでした。「戦に勝った」、「敵を破った」、この事を聞いて、同胞の苦痛は全て忘れ去られました。
戦争は人を不道理にするだけでなく、彼を不人情にします。戦争によって、人は敵を憎むだけでなく、同胞をも顧みなくなります。戦争ほど人情を無視し、社会をその根底において破壊するものはありません。戦争は、実に人を禽獣化するものです。
戦争は、戦争を止めるためであると言います。「武」の字は、
戈を止めるという意味であると言います。しかしながら戦争は、実際には戦争を止めません。いや、戦争は戦争を作ります。日清戦争は、日露戦争を生みました。日露戦争は、またどんな戦争を生むか分かりません。
戦争によって、兵備は少しも減じられません。いや、戦争が終わるごとに、軍備はますます拡張されます。
戦争は、戦争のために戦われるのであって、平和のための戦争などは、かつて一回もあったことはありません。日清戦争は、その名は東洋平和のためでした。ところがこの戦争は、さらに大きな日露戦争を生みました。
日露戦争もまた、その名は東洋平和のためでした。しかし、これまたさらに、さらに大きな東洋平和のための戦争を生むであろうと思います。
戦争は、飽くことのない野獣です。彼は、人間の血を飲めば飲むほど、さらに多く飲もうと欲するものです。
そして国家は、そのような野獣を養って、年に月にその生血を飲まれつつあるのです。愚の極とは、実にこの事ではありませんか。
日露戦争は、決して戦争の利益を示しません。その獲たところは、とても費やしたところを償うに足りません。日露戦争が獲たものは、他の戦争が獲たものと同じく、空名誉です。これは、知者が努めて得ようとするものではありません。
二十億の富を消費し、二十五万の生命を傷つけて、獲たものはわずかに国威宣揚です。これでも戦争は好いものであると言うのですか。これでも非戦争論は、非であると言うのですか。
非戦争論を証明するものは、戦争そのものであるとは、私共が戦争の最中にたびたび言ったことです。
日清戦争が非であることの説明は、下関条約と三国干渉とです。日露戦争が非であることの説明は、ポーツマス条約です。
ポーツマス条約! ポーツマス条約! 願わくは、この屈辱が再び臥薪嘗胆の愚を演じさせることなく、反って戦争廃止を支援する有力な声となりますように。
三、
日露戦争によって、私は多くの友人を失いました。しかし、それと同時にまた、多くの新たな友人を得ました。この戦争は、私に取って、友人の真偽を見分けるための、好個な試験石でした。
詩人カウパー(
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Cowper )は言いました。「心に何の苦痛を感じることなしに虫一匹を踏み殺す者を、私は私の友人名簿の中に留めない」と。
まして戦争を狂気する者をやです。
良心の詰責を感じることなしに、同胞の屠殺に賛成する者は、その名を我が友人名簿に留めておくべきではありません。
彼は生類の敵であるだけでなく、人類の敵です。かの廃娼論または禁酒論などは、抱腹絶倒と称すべきです。
酒を飲んでは悪い。しかし、人を殺しても宜しい。姦淫を犯しては悪い。しかし血を流しても宜しい。孤児は憐れむべきである。しかし、幾万の孤児を作っても宜しいと。
世に多くの矛盾はありますが、しかし、慈善家の主戦論ほどのものはありません。もし戦争は良いと言うならば、慈善は全くこれを廃止するが良かろうと思います。
しかし、酒は人を殺すものであるという理由で禁酒論を唱える人が、人を殺すことを目的とする戦争に大賛成を表するとは、何のことやら、私には少しも分かりません。私は今から後は、そのような人とは慈善または救済について、一切共に語るまいと決心しました。
殊に、キリスト信者の最大多数が戦争の謳歌者であったことを見て、私はいっそう深く、今のキリスト教界なるものが、私の活動の区域でないことを悟りました。
平和の君を救主と仰ぐと称する今のキリスト信者は、平和の熱愛者ではありません。今や平和の主張者は、キリスト教会の内には少なくて、反ってその外に多くいます。
哲学者スペンサー(
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Spencer )、文豪フレデリック・ハリソン(?)、同じくモノキュアー・コンウェイ(
http://en.wikipedia.org/wiki/Moncure_Daniel_Conway )のような人が、ほとんど激烈な戦争廃止論者であって、大監督とか小監督とか称してキリスト教会の牛耳を握る者は、たいていは熱心な主戦論者です。これは、実に奇態な現象です。
今から130~140年ほど前に、米国にトマス・ペーン(
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Paine )という人がいました。この人は、当時のキリスト教会に反対し、「道理の世」(
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Age_of_Reason )という書を著したということで、今に至っても誰も彼の本名を以て彼を呼ぶ者はなく、ただ「無神論者の巨魁(きょかい)トム・ペーン」としてのみ、彼の名はキリスト教会内に知られています。
しかしながらこの人が、米国における最初の非戦論者であったことが、今に至って分かりました。彼は、無神論者ではありませんでした。彼は、無教会信者であったのです。
彼は即ち、彼の在世当時のキリスト教会なるものが、人道の維持者でないことを知って、これに反対したのです。「トム・ペーン」は、教会の柔和な服従者ではありませんでした。しかし、彼は人道の勇敢な戦士でした。
キリスト教会が腐敗したので、神は近世の最大慈善事業である戦争廃止運動を、教会から奪って、これを教会以外の人にお与えになったのではあるまいかと思います。今日のキリスト教会の恥辱で、この名誉剥奪ほど大きなものはあるまいと思います。
かくて、日露戦争は、多くの新しい友人を私に紹介しました。私は、平和の名によって、多くの未知の人と、親交を結ぶようになりました。平和の神は、平和主義を介して、私に多くの人と平和を結ばせられました。
私には今や、全世界に二種の人がいるだけです。即ち
戦争を好む人と戦争を嫌う人だけです。前者は、たとえ彼がキリスト信者であろうが、あるまいが、慈善家であろうが、あるまいが、私の友ではありません。
これに反して、後者は、たとえ彼が不可思議論者であろうが、あるいは甚だしい場合には無神論者であろうが、私の尊敬する友人です。
戦争のような世界の大問題は、実にそのような性質を備えるものではあるまいかと思います。即ち、これによって人類を二分し、平和の子供と戦争の子供と、白い羊と黒い狼とを判別すべき性質を備えるものではあるまいかと思います。
そして日露戦争は、私にとっては友人の精錬所でした。これによって、純金と金渣(かなかす)とは、明白に両分されました。これは私にとっては、実に大きな利益です。
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この他にもまだ、私がこの戦争から受けた利益は幾つもあります。しかし、以上の三つが、その最も大きなものです。
しかしながら、これらの利益があったからといって、戦争はもちろん決して善いことであるとは言えません。あたかも人が罪を犯して、罪が罪であることを知ったからといって、罪は善いことであるとは言えないのと同じです。
しかしながら、「
凡ての事は神を愛する者には悉く働きて益を為す」とあるので、近世の最大惨事とも称すべき日露戦争もまた、多くの人に多くの利益を与えたのであろうと信じます。しかし、その利益があまりにも高価なので、私はそのような恩沢に浴する機会が、再び私に与えられないことを祈ります。
完