今年のクリスマス
(クリスマスの意味、平和の中心点)
明治38年12月10日
またクリスマスが来ました。例年の通り、甚だ喜ばしく思います。しかし、
如何に喜ばしいか、それは年ごとに変わります。今年のクリスマスの喜ばしさは、昨年のそれとは違います。今年のクリスマスと、三十年前のクリスマスとを比べてみると、何だか同じクリスマスではないように感じられます。
しかし、それはそうあるべきはずであると思います。私共の信仰は、常に進歩すべきものです。キリスト教は、一年や二年で、その奥義が分かるものではありません。
日に日に、年に年に新しく感じられるのがキリスト教です。キリスト教は、毎年新しい宗教(おしえ)のように、感じられるべきはずのものです。したがって、クリスマスの嬉しさ、有り難さも、年ごとに新しく感じられるべきはずです。
クリスマス! キリストがお生まれになった日! この日は、キリストがお生まれになった日! この日は、キリスト信者にとっては、実に意味の深い日です。この日がなかったならば、今日の私共の生涯は、全く別のものであったでしょう。
世には、私共が敬慕する英雄豪傑は数多(あまた)います。しかし、その中の一人が生れなかったとしても、私共の生涯にそれほど違いは無かったであろうと思います。
たとえニュートンが生れなかったとしても、クロムウェルが生れなかったとしても、ワシントンが生れなかったとしても、そのために私共の生涯が今日とは全く違ったものであったろうとは思えません。
ニュートンなしでも、私共は宇宙についてだいぶ知っていただろうと思います。クロムウェルなしでも、英国は何らかの方法で、その自由を回復したであろうと思います。ワシントンなしでも、米国に大共和国は起こったであろうと思います。
しかしながら、もしキリストがお生まれにならなかったならば、私共の生涯は、今日とは全く違ったものであったに相違ありません。キリストは、独一無二の人物です。彼に似た者など、他には一人もいません。
彼は、
一人の人ではありません。彼は、
唯一の人です。釈迦も孔子もソクラテスも、私共にキリストの代理を勤めてくれることは出来ません。キリストによって表された真理は、他の人によっては、決して表れませんでした。
クリスマス! この日に私の自由も救いも希望も永生も生れて来たのです。私を、今日生きる甲斐があるようにした全ての善いものは、この日この時に世に出たのです。
キリストは、今は私の全てです。彼は私の義、救い、生命です。彼は、今は私自身です。今は私には、「私」なるものはないのです。もしあるとすれば、それは私が「罪の私」として、既に捨て去ったものです。
「
我れキリストと偕に十字架に釘(くぎづ)けられたり。もはや我れ生けるに非ず。キリスト我に在りて生けるなり。今、我れ肉体に在りて生けるは、我を愛して我が為めに己を捨し者、即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり」(ガラテヤ書2章20節)。
これは今日の私の生涯であるだけでなく、また全てのキリスト信者の生涯です。キリストの降世に由って、新生涯がこの世に始まったのです。そして私は、その生涯に入ることが出来て、その生涯はまた私の生涯となったのです。
クリスマス! この日は、私の救主がお生まれになった日です。そしてまた、聖(きよ)められた新しい私共が生れた日です。私共キリスト信者の生涯は、文久や慶応や明治に始まったものではありません。これは、1900年前の昔、ユダヤのベツレヘムに始まったものです。
私達は、キリストの属(もの)です。ゆえにキリストの生涯は、私達の生涯です。私達は、キリストと共にベツレヘムに生れ、キリストと共に成長し、キリストと共に人に憎まれ、世に棄てられ、彼と共に十字架につけられ、彼と共に葬られ、そして終に彼と共に甦って、父の懐に行く者です。
私共は、キリストの御生涯を歴史的に研究するだけに止まってはなりません。また実践的に、その御足の跡に従うだけに止まってはなりません。私共は、実質的にキリストと同体にならなければなりません。
即ち葡萄の枝がその幹に連なるように、私共はキリストの一部分となって、彼の生涯を我が生涯としなければなりません。
福音書即ち我が履歴書としなければなりません。
そして、信仰の進歩とは、これであろうと思います。信仰の進歩とは、必ずしも自分の徳性が完備することではないと思います。また必ずしも、自分の確信がますます強固になって、岩をも溶かす熱心を起こすことではないと思います。
信仰の進歩とは、キリストに近寄ることです。キリストが信仰の目的物であるのです。彼に達して、私共は信仰の極致に達するのです。
彼が私共に来るのではありません。私共が彼に行くのです。あるいは私共が、彼に
牽(ひ)きつけられるのです。そして彼の生涯が全く私共の生涯となるに及んで、私共は私共の「走るべき途程(みちのり)を尽し」たのです。
キリストの御誕生が私共の誕生となり、キリストの死が私共の死となり、彼の復活が私共の復活となるまでは、私共は未だ、全くキリストの属(もの)と成ったのではありません。
そしてクリスマスが、少しでも実(まこと)に誠に我が誕生日として祝せられるに至って、私共はややキリストに近寄ったのであると思います。
クリスマス!
この日を全ての人の誕生日としなくてはなりません。私共の敵も味方もみな、再びこの日に生れ変わらなければなりません。世界万国の人がみな、この日をその誕生日と定めるようになって始めて、本当の平和が地上に臨むのです。
「
主一つ、信仰一つ、バプテスマ一つ、神、即ち万人の父一つ」(エペソ書4章5、6節)。そうです。
誕生日一つ。
東北人も西南人も、関東人も肥後人も、そうです、日本人もロシア人も、外交上の同盟によってではなく、神がこの世に与えて下さった唯一の生命のパンであるイエス・キリストの血を飲み、肉を食うことによって、骨肉の兄弟を超える霊の兄弟姉妹となる時に、本当の平和がこの世に臨むのです。それまでの平和は、みな仮の平和です。
武装的平和です。
人がみな性を異にし、齢(よわい)(誕生日)を異にし、国を異にし、人種を異にし、宗教を異にし、宗派を異にする間は、ある種の戦争は決して絶えません。彼等が全てこれらの異同を忘れ、全てベツレヘムに行って、天使の讃美の歌に伴われて、キリストと共にうまぶねの中に生れるまでは、永久の平和は、世に臨みません。
そしてその平和は、世に臨みつつあります。万民は徐々に、ベツレヘムに向いつつあります。彼等は相互の血を流しつつある間にも、ダビデの村に向いつつあります。
彼等は、正義の名を借りて戦いを開いても、人道の名に余儀なくされて、これを止めざるを得なくなりました。文明と言い、人道と言いますが、これはみな、ベツレヘムへの途中です。
非戦論は嘲られますが、それは東洋の日本国に限ります。文明の本舞台である西洋諸国においては、非戦論は、今や事実上の大勢力です。
今年9月19日に、スイス国のルチェルンで開かれた第十四回万国平和主義者大会においては、日本国を除く、他の全ての文明国からは代表が送られて、かつて詩人テニソンが夢想した世界議会(Parliament of the World)開設の議題さえ、その議事に上りました。
軍備が拡張されつつある間に、軍事は日々不人望になりつつあります。宗教家が戦争を謳歌しつつある間に(呪うべき彼等よ!)、商人や製造業家は、相結んで、戦争廃止を企てつつあります。
ベツレヘムにおける産声は、今や世界の議論となりつつあります。戦争に疲れ果てたこの世界は、東方の博士のように、星に導かれて、平和の君をその馬槽(うまぶね)の中に探りつつあります。
「全ての道路はローマに向う」という諺にもれず、全ての事件(ことがら)は、ベツレヘムに向いつつあります。商業も工業も、農業はもちろん、政治も教育も、みなベツレヘムの平和を待ち望みつつあります。
世界歴史の終局点は、他ではありません。日本の東京ではありません。英国のロンドンではありません。ユダヤの郡の中で、最も小さなものであるベツレヘムです。そこに平和の君がお生まれになりました。
そして、そこに万国の民は再び生れなければなりません。そしてそこに再び生れて、ロシアの熊も英国の獅子と共に住み、ドイツの豹も米国の肥えた家畜と共に居て、ベツレヘムの小さな童子(わらべ)に導かれます(イザヤ書11章6、7節)。
その時剣は打ち変えられて鋤となり、槍は鎌となり、国は国に向って剣をあげず、戦いのことを再び学ぶことはなくなります(イザヤ書2章4節)。
そして私共はまた、世がベツレヘムに来るのを、手を束(つか)ねて待っていてはいけません。私共も進んで、彼等をそこに連れて行かなければなりません。少なくとも彼等に、ベツレヘムがあることを、明らかに示さなければなりません。
あるいは口で、あるいは筆で、またその他の全ての方法によって、私共もまた、ベツレヘムの星になって、東方の博士だけでなく、その賢者をも愚者をも、ユダヤの王として御生れになった、人類の王であって、その救主である者の許に導かなければなりません。
本当の平和は、かの君においてだけ存します。世のいわゆる平和運動なるものは、永久の平和を来たらすことの出来るものではありません。家庭の平和も、社会の平和も、国家の平和も、世界の平和も、ベツレヘムの平和でない以上、永久の本当の平和ではありません。
世に平和を与えたいというのであれば、ベツレヘムの平和を与える以外に道はありません。伝道こそ唯一の平和事業です。「
平和を宣べ、善きことの福音を宣ぶる者の足は、如何に美はしきかな」(ロマ書10章15節)。
万民の平和を望む者は、政治に入るよりも、むしろ福音の伝道に従事すべきです。ベツレヘムの夕をキリスト降誕の日に止めずに、新しい天と新しい地との開闢(かいびゃく)の日にすべきです。
ああ、キリストはベツレヘムに御生れになりました。神は讃美すべきです。私の永生の希望も、万民の救済の希望も、社会改良の希望も、万国平和の希望も、希望という希望は、全てこの一事に存します。
神が人となって、人の中に降られたということです。驚くべき音信、しかも信ずべき音信………私達はこの音信に接して、私達のこの世の事業について決して失望してはなりません。
神は既に既に世に降られました。罪の除去、世界の改善は、既に既に始まりました。私達はただ、私達の微力によって、神の御業に協賛するだけです。ベツレヘムの馬槽に始まった神の偉業は、キリストの再来、聖徒の復活、万物の復興を以て終るべきものです。神の御心は、必ず行われます。
たとえ大政府がこれに逆らおうが、たとえ新聞記者が総掛りになってこれに反抗しようが、たとえ全国民が起(た)ってこれを妨げようが、神の御心は、太陽が東から出て西に入るよりも確かに、河がその源に発して、大洋に注ぐよりも確かに、きっと、必ずこの世に行われます。
「
主エホバ此事を宣べ給へり。彼必ず之を行ひ給ふべし」。キリストは、既にお生まれになりました。彼は既に昇天されました。ゆえに彼は、必ず再び来られます。今は未だ夜です。しかし、「
歓びは朝と同時に来ります」(詩篇30篇5節)。
ベツレヘムの星は、復活の朝を告げる明けの明星です。そして既にこの星を見た私共は、「
愈々(いよいよ)輝光を増して昼の正午(まなか)に至る旭日(あさひ) 」(箴言4章18節)の到来を疑ってはなりません。
戦争も終には止みます。濘人(ねいじん)も悪人も奸物(かんぶつ)も、終には亡びます。私共の事業は、無益ではありません。
私共は、今晩またベツレヘムの星を仰ぎ見て、私共のうなだれた頭を揚げ、私共の失った希望を回復し、新しい勇気を得て、新しい年に新しい事業を計画すべきです。
完