(「エレミヤ記感想」その2)
十九歳の青年、彼は、今は万民の上と万国の上とに据えられた。彼は、今は牧伯以上、帝王以上の者となった。
彼は、わずかにユダヤ一国の上に立って、その運命を支配すべき者ではない。エジプト人とエジプト国の上に立ち、バビロン人とバビロン国の上に立ち、フィニシヤ人とフィニシヤ国の上に立ち、即ち彼の在世当時の全ての国民の運命を予見し、その罪を責め、その罰を宣告し、その滅亡を判決すべき者となった。
予言者とはそのような者である。彼は読んで字の通り、必ずしも
予め言う者ではない。即ち
先見者であるだけではない。ヘブライ語のナビーは、
沸騰する者という意味であるとも言い、または単に
告知者という意味であるとも言う。
もし
沸騰者ならば憤慨者、民の罪悪を憤る者、抑えようとして抑えることの出来ない感慨をありのままに噴出する者である。もし
告知者ならば、神の御心を民に告げ知らせる者である。
しかし、字義を離れてナビー(予言者)そのものに就いて言えば、彼は先見者で沸騰者で告知者である。そしてエレミヤなどは、その最も顕著な者で、最も熱烈な者であった。
彼は今から、国民を抜きもし、毀しもし、滅ぼしもし、倒しもし、建てもし、植えもするということである。彼がこれを為すというのはもちろん、彼は神の御心を語る者なので、彼の言う言葉は、必ず事実となって現れるであろうということである。
彼は荏弱(じんじゃく)な一青年ではあるが、彼がもしエジプトに滅亡を宣告すれば、終に亡ぶであろうということである。彼がもしユダヤに再興を約束すれば、ユダヤは終に再び興るであろうということである。
当時の強国であるアッシリヤもバビロニヤも、また第二等国に位(くらい)したエドム、アモン、エラム等も、彼の言葉のままに、あるいは亡びあるいは興るであろうということである。
何と偉大なことか、ナビー(予言者)の権能は。大王ネブカドネザルでさえ、この権能は有(も)たなかった。それにもかかわらず、この権能が十九歳の一青年に付与されたということである。
彼がもし暗愚であれば、彼は宗教狂と成り果てたであろう。予言者であることの難しさは、他を責めることよりも、むしろ己を慎むことにある。しかし、エレミヤはこの大任を負わせられて、彼の常識を失わなかった。
エホバの言また我に臨みていふ。エレミヤよ、汝、何を視るやと。我答
へけるは、巴旦杏(はたんきょう)の枝を視ると。エホバ我に言ひ給ひける
は、汝善く視たり、そは我れ速かに我言をなさんとすれば也。(11、12節)
エホバの言再び我に臨みて云ふ。汝、何を視るやと。我れ答へて曰ひけ
るは、沸騰(にえたち)たる鍋を視る、其面は北より此方に向ふと。エホバ
我に言ひ給ひけるは、災(わざわい)、北より起りてこの地に住めるすべて
の者に臨(きた)らん。(13、14節)
エホバの大能が彼に降りて後に、エレミヤはある日、庭においてか、あるいは郊外において、巴旦杏の枝を見た。彼の詩的眼は、直ちにこの木の枝に神の御心を読んだ。
ユダヤの巴旦杏は、日本の梅のようなものである。花の魁(さきがけ)と称せられ、厳冬が未だ去っていない時に、その梢に雪ならぬ花を咲かせるものである。ゆえにヘブライ語では、これをペコースと言い、
醒める者という意味である。
「期(とき)未だ至らざるに冬期の睡眠より醒むる者」、これが巴旦杏である。
想ったよりも早く咲く花、ああ、この木はユダヤ国の運命を告げ知らせる者であろう。この国にかかわるエホバの言葉は、人が想うよりも早く実行されるであろう。
正義の裁判は、速やかに臨むであろう。ペコース(巴旦杏)の花が、思いがけずに咲くように、神の憤怒は、思いがけない時に(ぺカース)、不義を喜ぶこの国民の上に落ちて来るであろう。
ペコース(Pekohs 巴旦杏)は、ペカース(Pekahs 急速、不意)の表号(しるし)であろう。天然は、よくこれを解すれば、神の言葉である。巴旦杏は、眠っている民に覚醒を告げる神の言葉であると。
田舎の予言者であって田園詩人であったエレミヤは、巴旦杏の一枝に神の深い御心を読んだ。彼にとっては草も小石も有力な説教であった。そして彼に降りた最初の黙示は、巴旦杏の一枝に由ってであった。彼は実にワーズワース以上の天然詩人である。
(巴旦杏とはどのような木であるか、またこれを「はたんきょう」と読まずに、「あめんどう」と読むべきこと等については、これを「聖書之研究」第22号「聖書の植物」巴旦杏の篇において読んでいただきたい。)
巴旦杏に神の裁判の臨むべき
時期を読んだエレミヤは、煮え立った鍋に、それがやって来る
方向を見た。鍋とは、ユダヤ人の使用する普通の家具であって、それは我国における鉄瓶(てつびん)のようなものである。
彼はある日鍋がその口を北から南に向けて沸騰(ふっとう)蒸発しつつあるのを見て、神の憤怒が北から南に向って臨んで来るのを知った。
水が鼎(かなえ)の中に在って沸騰するように、正義は神の心の中に噴起しつつある。そして予言者の目前に鍋がその口を北から南に向けて、熱い蒸気を吐きつつあるように、神の義憤は北方の地から南を指して、このユダヤ国に臨むであろう。
時は不意に、人が想うよりも速やかに、
方向は北から南に向って、神の裁判は臨みつつあると。エレミヤに臨んだ第二回の黙示は、沸騰した鍋に由ってであった。
巴旦杏と鍋、梅と鉄瓶、小さなこの天然物と、小さなこの家具とは、国民の運命をこの青年預言者に伝えた。神は、その御心をその愛子に伝えるに当たって、必ずしも雷霆(らいてい)の声で、大岳の上から轟かせるには及ばない。梅の一枝によって、あるいは煮え立つ鉄瓶によって、宇宙の奥義を人に示される。
耳のある者は聴きなさい。眼のある者は見なさい。神の黙示は、台所に在り、道端にある。必ずしも講壇の上に立つ説教師の説教を聞く必要はない。山中に隠退して、人生の秘密について沈思黙考する必要はない。エレミヤは真に田園詩人であって、家庭の予言者である。
(以上、4月10日)
鉄面皮と孤立
鉄面皮は悪いことである。鉄面皮は、また善いことである。恥に対する鉄面皮、義と情に対する鉄面皮は悪いことである。
しかし、不義に対する鉄面皮、殊に権力に依る不義と圧制と暴虐とに対する鉄面皮は善いことであって、賞すべきことである。そして神と正義とのために尽そうと思う者には、この種の鉄面皮がなくてはならない。
正義は美しいものである。しかし、花のように、美人のように美しい者ではない。正義が美しいのは、山岳が美しいように美しいのである。これには巍々(ぎぎ
:高大なさま)とした所があり、嵯峨(さが
:高くそびえたって、険しいさま)とした所があるから美しいのである。
ゆえに、その唱道者である者にもまた、崎嶇(きく
:山路の険しいさま)とした所、鬱屈(うっくつ)とした所がなくてはならない。彼は、いわゆる八方美人であってはならない。寛容を唱えて、どんな人をも懐(なつ)かそうとする人であってはならない。
預言者は、磐(いわ)でなくてはならない。鉄でなくてはならない。エホバは、預言者エゼキエルに言われた。「
我れ汝の額(ひたい)を金剛石の如くし、磐よりも堅くせり」(エゼキエル書3章9節)と。
そして預言者エレミヤもまた、万国の預言者として世に立つに当たっては、鉄面石心の人とならなくてはならない。
汝、腰に帯して起ち、我が汝に命ずるすべての事を彼等に告げよ。彼等
の面を懼るゝ勿れ。否(しか)らざれば、我れ彼等の前に汝を辱(はず)かし
めん。
視よ、我れ今日此全国と、ユダの王等と、その牧伯(つかさ)と、その祭司
と、その地の民の前に汝を堅き城、鉄の柱、銅(あかがね)の牆(かき)とな
せり。彼等、汝と戦はんとするも、汝に勝たざるべし。
そは我れ汝と偕(とも)に在りて、汝を救ふべければなりとエホバ言ひ給へ
り。
(1章17、18、19節)
「人の面を懼るゝ勿れ」。彼等は必ず憤怒を以て、君に向うであろう。彼等は、彼等の古い習慣が打破されるのを好まないであろう。彼等は、彼等の不義偽善を指摘されることを喜ばないであろう。
君は、彼等の中に在って、邪魔者として扱われるであろう。しかし、彼等の面を恐れてはならない。彼等は、彼等の面に表れているほど恐ろしい者ではない。彼等の心は、彼等の面のように恐ろしくはない。
彼等の良心は、静かな所で、彼等を責めるのである。彼等はまた、時には死の恐怖に襲われ、神の裁判を想像して、戦慄するのである。
そうだ。彼等の面を恐れてはならない。彼等の面に向って、彼等の罪悪を述べよ。君は外から言葉で彼等を攻めよ。私は内から良心の声を以て彼等を責めよう。
彼等は多数であって、君は一人である。しかし、私、エホバの神は、君と力を合せて、彼等の背後から、彼等を責めることを忘れるな。
「彼等の面を畏るゝ勿れ。否(しか)らざれば、我れ彼等の前に汝を辱かしめん」。君がもし、私の味方となって、彼等を責めないならば、私は君の敵となって、彼等に君を辱しめさせるであろう。君が彼等を逐(お)わないなら、彼等に逐われるであろう。
世が喜ぶことといって、神の使者を苦しめることほどのものはない。君は彼等に嘲弄されるであろう。士師サムソンのように、異邦人の前に曳かれて、弄ばれるであろう(士師記16章を見よ)。
預言者が責めるべき人とは誰か。敵として有(も)つべき者は誰か。「此国と、ユダの王等と、その牧伯と、その祭司と、その地の民」とである。即ち国王と、政治家と軍人と、宗教家と、国民全体とである。彼は即ち全国を相手として立つべき者である。
彼はもちろん、王侯貴族の代弁人ではない。富豪の代弁人ではない。宗教家の一人ではない。だからと言ってまた、世にいわゆる平民の友でもない。彼は、
神の僕である。ゆえに、神に敵対する者には、貴族にも平民にも敵対するのである。
彼の属する党派なるものはない。彼は、神と共に立つ者である。世にもし彼の他に、神と共に立つ者がいれば、その人は、貴族であるか、平民であるか、政治家もしくは軍人であるか、宗教家もしくは平信徒であるかにかかわらず、彼の友である。
しかし、もしそのような人が一人もいないなら、彼は一人で立つべきである。彼は異邦のギリシャ人にならい、
人は社交的動物であるという言葉に従って、強いて同志を求めるべきではない。
彼には、頼るべき階級はない。彼は貴族でもなければ、平民でもない。彼には、属すべき党派はない。彼はエジプト党でもなければ、バビロン党でもない。彼には、帰依すべき教会はない。彼は、祭司でもなければ、レビの族(やから)でもない。
彼は、神の僕である。ゆえに堕落した彼の在世当時の社会に在っては、止むを得ず孤独であるべきである。そして彼は、孤独であることを悲しんではならない。エホバの神は、彼と共に在って、彼を救うであろうとのことである。
単に孤独であるばかりではない。彼は国王、政治家、軍人、宗教家、平民、即ち全国民に対して、鉄の面と金剛石の額(ひたい)とを向けるべきである。
彼等の罪悪は、決して仮借(かしゃく
:見逃すこと)すべきではない。淫縦(いんじゅう)は淫縦と呼ぶべきである。奢侈(しゃし)は奢侈と称えるべきである。偽善は偽善として攻めるべきである。
たとえ国王の嗜みであっても、罪悪を罪悪以外の名で称すべきではない。たとえ民の世論であっても、世論におもねるべきではない。黒は黒、白は白と、事実ありのままを唱えるべきである。
そのようにすれば、彼はこの社会に在って、敵地に陣を張る境遇に立たざるを得ない。彼は、周囲に敵を受ける覚悟をしなければならない。ゆえに神は彼を、地の民の前に
堅い城、鉄の柱、銅の牆とされたと。
弱く脆(もろ)い一青年であるエレミヤ。身に寸鉄を携えるでもない。彼には階級または党派または教会の保護はない。しかし、エホバの言葉を身に体(たい)して、彼は独り立って、敵人が取り囲む中で、金城鉄壁になるべきである。
「彼等汝と戦はんとするも汝に勝たざるべし」と。神の預言者である一青年は、国王、政治家、軍人、宗教家、平民、即ち国民全体よりも強いであろうと。
神が彼に在って国民の中に降りたのであるから、国民は誤っても、彼は誤らないであろう。元老の議は敗れても、彼の言葉は成就するであろう。預言者一人は、全国民よりも強い。国民はこぞって敵国を亡ぼすことは出来ても、預言者一人を亡ぼすことは出来ないであろう。
彼を殺すことは出来るであろう。しかし彼の生命である彼の言葉は、生存して、事実となって現れて、終には罪悪の民を滅ぼすであろう。何と禍なことか。預言者を送られた罪悪の民は! 彼等の運命は定まった。
「我れ汝と偕に在りて汝を救ふべければ也とエホバ言ひ給へり」 世はこぞって立っても、預言者に勝つことが出来ないことの説明はここにある。エホバが彼と共に在って、彼を救われるからである。
彼自身に不抜(ふばつ)の精神があるからではない。不撓(ふとう)の精力があるからではない。
エホバが彼に由って語り、
エホバが彼を介して働かれるからである。
世は、人が欲するように成るものではない。神の変わらない御心に従って進むものである。預言者が強いのは、彼がこの御心によるからである。世の人が弱いのは、彼等が自己に頼るからである。預言者に、世に勝つ力があるのではない。彼は、神に従うので、神と共に世に勝つのである。
預言者は、世に勝つ秘訣を知る者である。彼の強さを理由として彼を褒めるべきではない。彼の聖(きよ)い知恵を賞賛すべきである。そうです。彼に与えられた信仰こそ、彼を羨むべき理由である。
そのように固められて、エレミヤの生涯は始まった。今から彼は、あるいは国王に対し、あるいは牧伯(つかさ)に対し、あるいは祭司に対し、あるいは平民に対し、彼の預言的攻撃を開始した。ここに一大戦争は、ヤコブの家とイスラエルの家の全ての族(やから)の中に開かれた。
一大強敵は、民の中に現れた。国王、牧伯、祭司、平民はこぞって彼を圧服しようとした。彼は半百年の間、孤独の生涯を続けた。彼はたびたび泣いた。自分の孤独を悲しんだ。彼は、時には神をも恨んだ。
しかし彼は、
堅い城、鉄の柱、銅の牆という彼の本性を失わなかった。そして彼は、非常に国人から苦しめられたけれども、打ち勝たれることはなかった。
ユダ王国の終りの五十年間、そして実にユダ民族過去二千五百年間の歴史は、神がエレミヤを以て指定されたものであった。そして実に、ユダ王国は終に亡びてしまった。しかしエレミヤの言葉は亡びなかった。エレミヤの言葉は、民の慰藉として残った。そして今なお残存している。
二十世紀の今日に至っても、エレミヤの言葉は、神を愛するすべての民の慰藉であって、能力(ちから)であって、指導である。「
草は枯れ、其花は落つ。然れど主の言は、窮(かぎり)なく存(たも)つなり」(ペテロ前書1章25節)。
(以上、5月10日)
「エレミヤ記感想」完