(「ガラテヤ書第一章」No.2)
11節 兄弟よ、我れ汝等に告ぐ。我が宣伝(のべつた)へたる福音は、人に由るに非ず。
君達は、私が君達に伝えた福音を離れ、福音ではない他の者に移ったと聞く。私は今、私の福音について、少し君達に告げよう。君達はこの事を知るべきである。即ち私が宣べ伝えた福音は、人に由るものではないことを。人に由って伝えられたものを、私が受け継いで君達に伝えたものではないことを。
12節 そは我は之を人より受けず、亦教へられず、惟(ただ)イエス・キリストの黙示に由りて受けたれば也。
私は、私の福音を人から受けたのではない。また人に教えられたのではない。直接これを、イエス・キリストから受けたのである。私に人である教師はいなかった。キリストはその霊によって、直接これを私の霊に示された。私は真にキリストの直弟子である。間接の弟子ではない。直接の弟子である。
私は肉において、ナザレのイエスを知らなかった。しかし、霊において、主なるキリストを見た。私にこの直覚がないならば、私は使徒となり伝道師となる資格のない者である。
13節 我が前(さき)にユダヤ教に在りし時の行為を汝等は聞けり。即ち甚しく神の教会を迫害し、且つ之を荒らせり。
私が宣べ伝えた福音が、人に由るものでないことは、私の経歴に照らして明らかである。君達がしばしば私から聞いたように、私は前には激烈なユダヤ教の人であって、甚だしくキリストの教会を迫害し、かつこれを荒らした。
14節 又ユダヤ教に在りては、我国人中、年(とし)相同じき多くの輩(ともがら)にまさりて、先祖等の遺訓に熱したり。
私は通常のユダヤ人ではなかった。私は、その最も熱心な者であった。私は、私の同輩の者にまさって、先祖等の遺訓(いいつたえ)を厳守し、ひとえに模範的愛国者になろうと思った。
私は愛国の情に駆られて、キリストとその福音とを憎んだ。私の愛国心がどれほど熱烈であったかを知る者は、私が、父祖の貴い宗教を捨て、人の伝説に服して、他教に転じるような者でないことを知っているであろう。
15、16節 然れども我が母の胎内より我を簡(えら)び、恩恵(めぐみ)を以て我を召し給ひし神、其子を異邦人の中に宣(の)べしめんがため、彼を我が衷に顕はすことを善(よし)とし給ひし時、我は直に血肉と謀ることをせず、
私はユダヤ教の信者であって、熱烈な愛国者であった。私は、たとえ死んでも我が国教を捨てるような者ではなかった。
しかし神が私を召された時、そして召すに際して恩恵(めぐみ)をお与え下さった時、即ち、私の罪を悉く赦し、私をその御子の義で被って下さった時、そして私を遠い過去から召して下さったことを知った時、
即ち、神の指導の下に、私の家系も教育も境遇も、全て私に異邦人の中にキリストを宣べさせるための準備であることを知った時、私にこの確信が起こった時、私は全ての情実を排斥し、骨肉や朋友と相談せずに、猛然と独りで決心して、旧を去って新に就いた。
17節 又我より先に使徒となりてエルサレムに在る所の者にも往かず、アラビヤに往けり。而して復(ま)たダマスコに返れり。
私は骨肉と相談しなかっただけでなく、私より先に使徒となってエルサレムに居る者達の所へも行かなかった。私は、直ちに人のいないアラビヤに行った。そしてエリヤのように独り神と共に在って、彼の静かな細い声を聞いた(列王記略上19章12節)。
私は、寂寞のうちに在って、直接神から教えられた。そして時を経て後に、またダマスコに帰った。
18節 其後三年を経て、我れペテロを尋ねんためにエルサレムに上り、十五日間彼と共に居りしが、
私の上京は、私が改心してから三年後のことであった。私はペテロを尋ねようとして上った。伝道のことについて、彼と相談するためである。しかし、彼に教えられるためではなかった。そして十五日間、都に留まって、しばしば彼と会った。
19節 他の使徒等には、主の兄弟ヤコブを除ては、誰にも会はざりき。
私は十五日間都に留まった。しかし、当時の教会の首長であった主の肉体の兄弟ヤコブを除いては、他の使徒には誰にも会わなかった。それによって、私にはその時、使徒等から福音の教義について学ぶ時も機会も無かった事が分かるであろう。
私はその時既に、福音の奥義を知っていたのである。ゆえにその事について、使徒等から教えられる必要はなかったのである。
20節 今我が汝等に書き送る所は、視よ、神の前に我は偽はらざるなり。
私がここに言うことは、事実である。肝要な事実である。見よ私は、我が神と良心とに誓って言う。私はこの事において偽らないことを。私は実に、ペテロならびにヤコブとの始の面会において、福音の奥義について、彼等から新たに学ぶことは何も無かった。
21節 其後我れスリヤ並にキリキヤの地に至れり。
私は永くエルサレムに留まらなかった。その後、北方のスリヤならびにキリキヤに往き、十年の久しい間、その地に留まった。
22節 我はユダヤに在るキリストの諸教会に面(かお)を識(し)られざるに至りき。
遠隔の地に留まること十年、私は終にユダヤに在る諸教会に顔を忘れられてしまった。それによって、十二使徒等と私との交際が、決して親密なものでなかったことが分かるであろう。
私は改信してから十三年間、ただ一回、彼等の中の二人と会っただけである。それによって、私は私の福音を彼等から受けたのだという流言が、全然根拠のない讒誣(ざんぶ)であることは、ここに至ってますます明らかである。
23、24節 たゞ彼等は前(さき)に己等を苦しめし者、今はその、前に荒らしたる信仰の道を宣伝ふと聞き、我が故に神を崇(あが)めたり。
彼等は私の顔を忘れてしまった。しかし以前の迫害者が、今は伝道者となったことを聞いて、私ゆえに神を崇めた。私の名が彼等に伝わっただけのことである。彼等と私との間に、深い交際があったわけではない。
感 想
◎ 伝道の使命は、キリストに由って、直ちに神から受けなければならない。人に由って人から受けるべきではない。法王、監督、牧師、神学者等に由って教会から受けるべきではない。
昔の使徒がそうであった。今日の伝道師も同じである。人に命じられ、人から遣わされた伝道師ほど用のない者はいない。 (1節)
◎ 私達は、真理のために争うのはよい。実に、時には論争は義務である。神の命である。しかし、神の真理のために争うのであるから、愛と平和との境を越えるべきではない。
私達はパウロに倣い、争うに先だって、私達の反対に立つ者の上に、父なる神、及び私達の主イエス・キリストより来る恵みと平和とが宿ることを祈るべきである。 (3節)
◎ 私達の模範は、イエス・キリストである。罪人のためにご自分を捨てられた主である。彼を仰ぎ見れば、私達は敵を憎もうと思っても憎めない。栄光は世々彼にある。私達は、彼と共に彼の栄光を担いたいと思うなら、彼のように私達に敵する者をも愛しなければならない。 (4、5節)
◎ 不思議なのは、一度福音を信じた者が、これを捨てることである。恩寵の福音を捨て、もとの倫理道徳に帰ることである。これは、自由を去って、束縛に帰ることである。
子としての権利をなげうって、奴隷としての無資格に還ることである。それにもかかわらず、世のキリスト信者の中にこの道を取る者が甚だ多いことは、なんと嘆かわしいことであろうか。 (6節)
◎ 福音は一つである。一つでなければならない。十字架の福音がこれである。救済の条件として善行を要求する道は、他にもある。しかしキリスト教だけは、善行によらない救済の道を人に供する。これは、世の道徳家が怪しんで止まないことである。しかし福音の奥義はその中に存する。 (7節)
◎ キリストの十字架を説かないものは、福音ではない。正統教会の免許牧師がこれを説かないなら、彼はアナテマであろう。監督がこれを説かないなら、彼もアナテマであろう。法王がこれを説かないなら、彼もアナテマであろう。そして実に、もし天使がこれを説かないなら、彼等もアナテマであろう。
真理に寛容はない。二と二を足せば四である。キリストの十字架なしには、キリストの福音はない。これは天地が崩れても変わらない。 (8、9節)
◎ 人は寛容を愛すると称して、信仰の放縦を要求する。そして人に親しみ、これを喜ばせようと思う者は、しばしば俗衆のこの要求に応じようと思う。しかし、キリストの僕は、断じてそのようにしてはならない。彼は狭隘と呼ばれても、頑固と称せられても、断固として十字架の福音を守るべきである。 (10節)
◎ 道によく従う者は、前にはこれに逆らった者である。容易に信者となる者は、容易にこれを捨てる者である。迫害者サウロは、使徒パウロを作った。私達は、私達の迫害者を退けてはならない。彼等の中に、もしかしたら幾多のパウロがいるかも知れない。 (13、14節)
◎ 私達が神から召された時には、血肉と相談しても無益である。彼等は神のことを知らないからである。彼等はまた、私達の行為を妨げることは出来ない。なぜなら神は、永久の聖召によって、私達を召されたからである。
彼は一時に私達を召されたのではない。永い過去から、私達を選ばれたのである。私達の聖召は、永い過去において始まり、今日始めて事実となって現れたのである。血肉の誰が、私達にかかわる神のこの永久の企図を妨げることが出来ようか。 (15節)
◎ 神からの黙示に接して後は、教師の許に走ってはならない。また衆人の前にこれを公表してはならない。アラビヤに往くべきである。そしてそこで、寂寥の中に神と交わるべきである。直接に神の声を聞くべきである。彼を我が父よとお呼びするようになるであろう。今のリバイバル信者に、一考を促す。 (17節)
◎ 神に教えられて、人に教えられる必要はない。私達は独りで、師のいない山里に在って、神と親交を結ぶことが出来るのである。
都会の信者は神から遠ざかり、僻地の信者は反ってよく神を知る。キリストは今なお活きておられるからである。彼は、山中または海辺の人のいない所において、彼を愛する者を教えられるからである。 (18、19節)
◎ 使徒パウロは、独立信者の模範である。神は彼のような者を起こされて、後世の無教会信者を励まして下さった。私達は何を恐れようか。猛然として進むべきである。 (20〜23節)
「ガラテヤ書第一章」完