「キリスト教とキリスト」他
明治39年10月10日
1.キリスト教とキリスト
主義ではない。性格である。教理ではない。生命である。キリスト教ではない。キリストである。主義はどれほど高くても、教理はどれほど深くても、儀文であって束縛である。私達は、直ちに活けるキリストに至り、その生命を受けて、真の自由に入るべきである。
(儀:法則。標準。模範。)
2.福音書と書簡
福音書は、救主の言行を伝えたものである。書簡は、救われた者の信仰を述べたものである。救済の一事を神から見て福音書がある。人から見て書簡がある。
ただ見地を異にするだけである。実体を異にするのではない。二者の相違を説く者は、キリストに現れた救済の事業を認めない者である。
3.科学と神学
今や科学は唯心説に還りつつあるのに、神学は唯物説に傾きつつある。科学者は天然を奇跡視しつつあるのに、神学者は出来るだけ奇跡の承認を避けつつある。
「
それ後の者は先に、先の者は後に為(な)るべし」(ルカ伝13章30節)。信仰の見地から見ても、今や神学者は遠く科学者に及ばない。
4.私のキリスト教
私のキリスト教はこれである。神は私の内に働かれると。私が義(ただ)しいのではない。私が聖(きよ)いのではない。私に能力(ちから)があるのではない。
神はその正義を以て、その聖潔を以て、その能力を以て、私の内に働かれる。強い神が、弱い私に現れられたもの、これが私のキリスト教である。私はこれ以外に、私のキリスト教があるとは知らない。
5.限りなき恵み
(詩篇第107篇)
歓喜に溢れて主を讃美しなさい。
なぜなら、彼の恵みには限りがないからである。万事を彼にお任せしなさい。
なぜなら彼の恵みには限りがないからである。
彼は私達の全ての敵を服従させられた。
彼の恵みには限りがないからである。彼は私達に多くの善い友を与えて下さった。
彼の恵みには限りがないからである。
彼によって、私達の生涯は、勝利の生涯であった。
彼の恵みには限りがないからである。私達は終に安らかに眠ることが出来るであろう。
彼の恵みには限りがないからである。
私達は目覚めて、主の御国に永久の春を楽しむことが出来るであろう。
彼の恵みには限りがないからである。彼の恵みには限りがないので、私が世に在る限りは、また世を去って後も、その恩恵と憐憫とは、私と共にあるであろう。
6.自省と仰瞻(ぎょうせん)
私は日々自己を省みない。私は日々私の主を仰ぎ見る。私は私の内に、何も善い事を発見出来ない。私の善は、全て「
キリストと共に神の中に蔵(かく)れ在るなり」(コロサイ書3章3節)。
私が汚れていることは、悲しむ必要がない。神はその聖潔によって、私を聖(きよ)めて下さる。私が愚かであることは、歎く必要がない。神はその知恵によって、私を賢くして下さる。
私は自己に省(かえり)みて降り、神を仰ぎ見て昇る。それはあたかも、日光が私を天に向けて引き付けるのに似ている。私が私の主を仰ぎ見る時、私の信仰の翼は張って、私の身は地を離れて、主の宝座に向って昇るように感じる。
7.信仰の道
信仰の道は、何と容易なことか。ただお任せすればよいのである。そうすれば光明が私に臨み、能力が私に加わり、汚穢(おわい)は私を去り、聖霊が私に宿る。
信仰は、完全に達する近道である。知識の小道をたどるようではない。修養の山をよじ登るようではない。信仰は鷲のように翼を張って、直ちに神の懐に達する。
学は暗闇を照らすための灯火である。徳は暗夜に道を探るための杖である。しかし、信仰は義の太陽である。私はその太陽に照らされて、恩恵の大道を闊歩(かっぽ)し、心に神を讃美しながら、私達の旅行を終ることが出来るのである。
8.クリスチャンとしての資格
私の過失を挙げて、私が悪人であることを証明しようとする者がいる。しかしそのことは、たとえ悉く事実であるとしても、私がクリスチャンである上においては、何の関係もない。最も善いクリスチャンの一人は、キリストの側に、十字架につけられた盗賊の一人であった。
彼れイエスに曰ひけるは、汝、汝国(みくに)に来らん時、我を憶(おも)ひ
給へ。イエス答へけるは、誠に我れ汝に告げん。今日汝我と共に楽園に
在るべし。 (ルカ伝23章42、43節)
もしその盗賊でも楽園に行けるということであれば、私がそこに行けない理由があろうか。私は悪人だからということで、クリスチャンとしての資格を失わないのである。
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キリスト教と兄弟主義
明治39年10月10日
◎ キリスト教は兄弟主義であると言う。そうです。その結果においては、強固な兄弟主義である。しかし、その原因においては、そうではない。キリスト教は、本来兄弟主義ではない。読んで字の通り、キリスト主義である。
私達各自が、直ちにキリストに連結することである。そしてその結果として、兄弟が相愛するようになるのである。
同胞が相連なって、キリストに連なるようになるのではない。キリストに連なって同胞が相連なるようになるのである。
キリストによらない兄弟主義には、キリスト教は重きを置かない。
◎ 兄弟主義を唱える者は、多くは自分が他人に助けられたいと思って、これを唱えるのである。他人を助けたいと思って、唱えるのではない。
キリストによってのみ、私達は実に無私になれるのである。キリストを愛しない兄弟主義は、つまるところ利己主義に過ぎない。
◎ 兄弟主義の美は、誰もがこれを知っている。しかし、これを実行する力は、ただキリストにおいてだけ有る。彼によって肉(自我)を十字架に付けられるまでは、私達は真に兄弟を愛することは出来ない。
キリスト教は、兄弟主義を唱えずに、その力を供する者である。キリストによってだけ、本当の兄弟の縁は結ばれるのである。
完