(「神学か農学か」その2)
この習慣を供せられたので、私はキリスト教を究める上でも、多くの無益な懐疑から免れることが出来た。
キリストの奇跡などは、真正の科学者としては、
有るべからざる事として、先天的に拒むべきことではない。
本当にあったか、これが、彼が知りたいと思うことである。
もし有ったという充分な歴史的証明を供せられ、有り得ることについて充分な力学的ならびに道徳的理由を供せられるならば、彼は疑い深くならずに、これを信じるべきである。
真正の科学者は、天然の事物ならびに現象に対しては、ナタナエルのように、「
真のイスラエル人にして其心詭譎(ききつ)なき者」(ヨハネ伝1章47節)でなければならない。
詩人ロングフェロー(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%BC )は、理想的科学者ルイ・アガシ(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%82%B7%E3%83%BC )について、歌って言った。
其(そ)は五十年前なりし
美はしき五月(さつき)の月に於て
美はしきバイデヴォーの谷に於て
赤子は其揺籃(ゆりかご)の中に臥(ふ)せり
老ひたる乳母(うば)の天然は
彼を彼女の膝に抱上(だきあ)げ
言へるやう「茲(ここ)に一つの物語あり
汝の父は之を書き給へり」
「来れ、我と共に遊べよ、
人の未だ践(ふ)まざる地に到れよ、
而(しか)して其処(そこ)に人の未だ読まざる
神の自筆を以てせる記録を読めよ」と。
『アガシ第五十回誕辰』中の三節
科学者の精神はこれである。幼児の精神である。天然の事実を、ありのままに信じることである。奇跡だからといって驚かない。また疑わない。事実は事実として信じる。そして神に感謝する。
私のキリスト教の信仰は、今日に至ってもこの信仰である。即ち
事実の信仰である。理屈の信仰ではない。実験の信仰である。
何故に神は在るか、私は知らない。私はただ、神が在るのを知る。
何故にキリストは私の救主であるか、私はよく知らない。私はただ、キリストによって私の罪が取り去られ、私は神を見ることが出来、潔(きよ)いことと義(ただ)しいこととについて思うことが出来る。
私は
何故に聖書は神の言葉であるかを、よく知らない。ただ聖書が私の心を動かす様は、人の言葉の如くではないことを知っている。
魚は魚、鳥は鳥、獣は獣、人は人、キリストはキリスト、私はそう信じるのである。それには、それ相応の説明はあるであろう。しかし説明は、事実の真相を説き尽くすことは出来ない。
天然について黙想する者は、天然についてよく知る者ではない。それと同様に、キリストについて黙想しても、よくキリストを知ることは出来ない。
天然を知る方法は、直ちに天然に接することにある。それと同様に、キリストを知る方法は、直ちに私達の霊において、活きているキリストに接することにある。
二者を知る方法は、同一である。科学の方法はまた、宗教の方法である。
信仰は実験である。科学と宗教とが異なる点は、その方法・精神においてではなく、単にその探究の領域においてある。
地のことを究めるのが地文学であって、天のことを究めるのが天文学である。そのように、霊のことを究めるのが宗教である。
私にとっては、宗教は私の科学を、霊の領域に移しただけのことである。
私は今、聖書を究めるに当たっても、かつてアワビやニシンやサケのことを究めたのと同じ方法精神でする者である。
事実(ファクト)、事実、事実、「天然の堅き基礎の上に、永遠に築く者は頼る」。見える天然は、見えない永遠に達するための、唯一の階段である。人は先ず「天然の堅き基礎のうえに」立たなければ、真実と真理と神とに達することは出来ない。天然の研究を以て宗教研究に入った私は、幸福な者である。
農学から宗教に移った私は、未だかつて宗教の実(リアリティー)を疑ったことはない。いや、もし宗教が実でないものであれば、私は今日直ちにこれを捨てるべきである。
宗教がもし単に哲学であるなら、論理であるなら、方便であるなら、政略であるなら、世を治めるための経綸であるなら、私は今日直ちにこれを去るべきである。
空(くう)によって人の腹を満たすことは出来ない。それと同様に、空論では人の霊魂を養うことは出来ない。人の肉体が要するものは、政治
論と経済
論と社会
学とではなくて、実の穀物と、実の肉類である。
それと同様に、人の霊魂が要するものは、神学
論と教会
論と聖書
学とではない。実のキリストと、実の聖霊とである。ここに至って、キリストの言葉が、いよいよ深いことを悟るのである。
イエス曰ひけるは誠に実(まこと)に汝等に告げん。若し人の子の肉を食は
ず、其血を飲まざれば汝等に生命なし。我が肉を食ひ、我が血を飲む者
は永生あり。我末の日に之を甦(よみがえ)らせん。夫(そ)れ我が肉は真の
食物、又我が血は真の飲物なり。 (ヨハネ伝6章53〜55節)
私が見、また実験するところによれば、人が救われるのは、真理を教えられて救われるのではない。真の生命を授けられて救われるのである。悟りを開かれて救われるのではない。聖霊を与えられて救われるのである。
聖霊は実に実在物である。理ではない。恵みの雨が天から降って乾いた地を潤(うるお)すように、聖霊は神の所から出て、渇いた人の霊を潤す者である。
ギリシャ人は理を語り、ローマ人は法を説いた。しかしユダヤ人は神に依って実を伝えた。それだから、理は哲学者に任せよ。法は政治家に譲れ。しかし私達クリスチャンは、科学者の精神によって実を求める。キリスト教は、理論家または経綸家の手に委ねておくべきものではない。
天然学によって養われた私は、世の全ての儀礼に堪えることは出来ない。天然はそのままで美しくまた正しく、また慎み深い。天然は別に礼服を着ずにその造主を讃美する。
天然に僧侶の階級はない。特に聖殿と称すべき、神を礼拝する場所はない。天然は、純粋な平民である。天然は、直ちに神に造られて、直ちに神に縋(すが)る。ゆえに天然的に神を拝そうと思えば、自由独立にならざるを得ない。
そうです。私の独立信仰は、もともとルターやクロムウェルから学んだことではない。山の松から、空を飛ぶ鳥から、大海を遊泳する魚から学んだことである。私の家の庭に咲く萩(はぎ)も、櫟(くぬぎ)の梢(こずえ)にさえずる蝉も、今なお私に「自由であれ、独立であれ」と告げつつある。
天然を学んで私達は、教則に縛られることは出来ない。天然を友として、私達は僧侶から膏(あぶら)を注がれようとはしない。天然の子供である私達は、詩人ホイットマン(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3 )の言葉を借りて言う。
Ah, more than any priest, O soul, we too believe in God;
But with the mystery of God, we dare not dally.
嗚呼(ああ)、何(いず)れの僧侶よりも、我が霊魂よ、我等は篤く神を信ず、
然れど神の深事(ふかきこと)を以て、我等は弄(もてあそ)ばんとせず。
天然によって育てられた私は、教会の分離に堪えない。天然は一体である。宇宙をコスモスというのは、
整体という意味である。天然は大きな音楽である。または大きな絵画である。
天然に対照はあるが、矛盾はない。天然によってキリスト教を究めて、私達はパウロと共に叫ばざるを得ない。
キリストは数多(あまた)に分かるゝ者ならん乎(や) (コリント前書1章13節)
と。天然は自由と同時に一致を教える。自由を重んじる一致と、一致の中にある自由とを教える。
実(まこと)に天然の研究ほど人の寛容の性を養うものはない。最も狭隘(きょうあい)で、最も嫉妬深い者は、常に天然学を賎しんで止まない神学者である。
科学者が、科学的真理のために人を焼き殺した例はない。しかし、神学者が神学論のために人を殺し、友を陥(おとしい)れ、憎み、妬んだ例は数え挙げられないほどである。
世に、いわゆる「神学者の憎悪」(Odium theologicum)ほど厭うべきものはない。そして悪魔のこの毒炎から免れたいと思うなら、神の天然を学ぶ他に善い道はない。
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もしここに、今から神の道の研究に従事しようと思う有為(ゆうい)な青年がいるとするならば、私は私の経験によって、何の研究を彼に勧めるか。神学か農学か。
神学を学ぶ益は多くあるであろう。しかし、農学を学ぶ益も、決して少なくはない。農学は、農学のために必要なばかりではない。神学のため、伝道のためにも必要である。
直ちに思想の翼に乗って、天に上るか。あるいは地に土台を築いて、それから後に上るか。前者はあるいは近道かも知れない。しかし、落ちる恐れが多い。後者には、人を「
塵に就かしむる」(詩篇119篇25節)恐れがある。しかし、安全で健全である。
そして私は、空想に走り易い日本国の青年に向っては、神学を究めるよりは、農学を究めることを勧めたいと思う者である。
私はこれを思って、神が伝道に従事すべき私に、神学を修めさせられずに、反って世の神学者等が伝道とは何の関係もないもののように思っている農学を修めさせられたことを、今に至って深く深く感謝せざるを得ない。
「神学か農学か」完