偽預言者とは何か
明治40年6月10日
聖書に、偽預言者または偽りの預言者について書かれている。「
偽の預言者を謹(つつし)めよ」(マタイ伝7章15節)、また「
偽預言者多く起りて多くの人を欺かん」(同24章11節)、「
偽りの預言者バリエス……此人は国の方伯(つかさ)セルギオパウロという智者と共にあり」(使徒行伝13章6、7節)、
「
昔し民の中に偽はりの預言者ありき、其如く汝等の中にも偽はりの師いでん」(ペテロ後書2章1節)、「
多くの偽預言者出で世に入れり」(ヨハネ第一書4章1節)。以上は新約聖書においてである。
旧約聖書には、偽預言者という言葉はない。しかし、「
偽りを述ぶる預言者」(イザヤ書9章15節)、「
虚誕(いつわり)の黙示と卜筮(うらない)と虚しきことと己の心の詐(いつわ)りとを汝等に預言する者」(エレミヤ記14章14節)等の言葉がある。
もちろん偽預言者と言うのと同じことである。ただ旧約においては、新約におけるように、 Pseudoprophetes という、この類の預言者を呼称するための一個の言葉がなかったまでである。
そもそも偽預言者とは何であるか。これは単に憎むべき者、蔑(さげす)むべき者、売僧(まいす)、偽善者、羊の皮を被った狼等と称し、一目してそれが偽物であることを知ることが出来る者であったか。
言葉を換えて言えば、偽預言者とは、必ず悪人であったか、悪を企み、悪を行うことでその日を送った奸寧(かんねい)邪知の者であったか。
偽預言者の名そのものが、そういう者として彼等を私達に紹介する。私達はその名を聞いただけで、その顔に唾をしたく思う。
しかしながら、聖書はそのような者として偽預言者を私達に伝えない。偽預言者とは、その当時偽預言者と認められた者ではない。したがって、その当時世に嫌われ、その紳士淑女に避けられた者ではない。いや、それとは正反対である。
偽預言者とは、真預言者に対してそう言われた者であって、彼等は真の預言者から見て、偽りの預言者であったのである。彼等は世が見て、偽預言者と言った者ではない。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホセア等の極めて少数の人が見て、偽預言者と判定した者である。
人の真偽を判別することが難しいのは、今も昔も同じことである。そして偽預言者と真預言者とは、誰にでも見分けられるものではない。真理を知る者だけが、よく虚偽を識別できる。
真預言者だけが、よく偽預言者を見分けることが出来た。
偽預言者とは、もちろん偽りの世が見て、そう呼んだ者ではない。神の人が見て、そう名付けた者である。
それでは偽預言者とは何であったかと言うと、彼等は先ず第一に、
当時のいわゆる愛国者であった。即ち国の利益を思い、国威宣揚を唱え、ひたすらその富強安寧幸福を願った者である。
ゆえに彼等は進んで政治に携わり、他の強国との同盟を説き、自国の悪事と言えば、ひたすらこれを隠そうとし、これを完全無欠な国として世界に紹介し、それによって、賞賛同情を博そうとした、
即ち、
偽預言者とは、何よりも先ず第一に、自分の国を愛した者である。正義よりも、公道よりも、そして実にエホバの神よりも、ユダ国またはイスラエル国を愛した者である。
彼等は国王の頌徳者(しょうとくしゃ)、国民の讃美者であった。宗教もこれを国のために利用して、これによって国を建てようと思った者である。
ところがイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホセヤ、ザカリヤ等の預言者は、全く正反対の態度を取った。彼等はもちろん国を愛した。しかし、国よりも神と正義とを愛した。彼等は神の人であったので、国に責めるべき事があれば、これを責めることに少しも躊躇しなかった。
国の名望などというものは、彼等は少しも眼中に置かなかった。神の正義、神の名誉、これが彼等の熱心を喚起した唯一の原動力であった。
預言者ミカは言った。
我はエホバの聖霊に由りて能力(ちから)身に満ち、公義と勇気、衷に満
つれば、ヤコブ(ユダ国)に其愆(とが)を示し、イスラエル(国)に其罪を示
すことを得。(ミカ書3章8節)
と。
「国にその愆(とが)と罪とを示すことを得」と。これは、偽預言者には為し得なかったことである。必ずしも国民の反対を恐れてではない。彼等はあまりにも切に国を愛していたので、情において為そうと思っても為し得なかったのである。
ところが真の預言者は、エホバの聖霊によって、この情に打ち勝つことが出来た。ゆえに大胆に、臆せず、国にその愆(とが)を示し、民にその罪を示すことが出来た。
偽預言者がどのような者であったかを知りたいと思うなら、これを真預言者と相対して見るべきである。真預言者が現れた時に、必ず偽預言者が現れた。一方は、他方を離れては現れなかった。
預言者ミカヤに対して、偽預言者ケナアナの子ゼデキヤがあった(列王記略上22章24、25節)。預言者アモスに対して、偽預言者ベテルの祭司アマジヤがあった(アモス書7章10〜17節)。
預言者エレミヤに対して、ギベオンのアズルの子である偽預言者ハナニヤが在った(エレミヤ記28章)。またネヘラミ人シマヤがあった(同29章24節以下)。
その他、名は記してはないが、イザヤに対しても、エゼキエルに対しても、またその他の預言者に対しても、偽預言者があったことは確かである(エゼキエル書13章、ザカリヤ書13章2節等を見よ)。そしてこれらの対照によって、私達は真預言者と偽預言者とを明白に分けることが出来る。
今ミカヤ対ゼデキヤの例について見よう。イスラエルの王アハブは、ギレアデのラモテを略取しようとするに当って、その預言者四百人ばかりを集めて、「
我れギレアデのラモテに戦ひに往くべきや又は罷(や)むべきや」と問うた。
すると彼等偽預言者等は、王の意に逆らうことを恐れ、かつ国威宣揚を願って、異口同音に「
王よ攻め上り給へ。主エホバ必ず之を王の手に付(わた)し給ふべし」と答えた。
ところがアハブ王が、同じ事をイムラの子ミカヤに問うたところ、彼は臆せずに王に答えて言った。「
エホバ汝に就いて災禍(わざわい)あらんことを言ひ給へり」と。そのように、憚(はばか)らずに、善事を預言せず、ただ悪事だけを預言したので、王はミカヤを憎んだとある。
ケナアナの子ゼデキヤは、王に善事を預言した四百人の預言者(偽)の一人であったであろう。彼は、ミカヤが「
エホバ虚言(いつわり)を言う霊をこの全ての預言者等の口に入れ給へり」と言ったのを聞き、怒ってミカヤの頬を打ったという。
この場合においては、ゼデキヤとその同僚とは、いわゆる忠臣愛国者であった。彼等は君のためを思い、国のためを計って、王の作戦計画に同意し、彼に勧めて遠征の途に上らせようとした。独りミカヤだけが、その無謀な計策に反対した。
彼は、アハブ王の人物を知った。ゆえに彼の為すことが、正義と公道とに適(かな)わないことを知った。
預言者ミカヤが欲したことは、他国の攻略ではなくて、自国の改革であった。ラモテの王の征服ではなくて、イスラエルの王の悔改めであった。
偽預言者は、国の膨張を望んだ。真預言者は民の改心を求めた。一方は威を外に張ろうとした。他方は内に聖(きよ)まることを願った。偽りの預言者と、真の預言者との別は、ここにおいて明白である。
威か徳か、二者の欲するところによって、その真偽は現れた。
国の富強に目を留めた者、これが偽預言者であった。国の神聖に意を注いだ者、これが真預言者であった。(列王記略上22章を見よ)。
同じ事が、アモス対アマジヤの場合について見ても分かる。アモスは、イスラエルの民の罪科を歎(なげ)き、これを戒めて、「
汝等悔改めざれば、其罰としてイサクの崇邱(たかきところ)は荒され、イスラエルの聖所は毀たれん。エホバ剣をもてヤラベアムの家に赴かん」と告げた。
ところが祭司アマジヤは、これを不敬の言葉となし、王ヤラベアムに言い遣わして、「
イスラエルの家の真中(まなか)にて、アモス汝に叛(そむ)けり」と言った。即ち、アモスを逆臣である国賊であると称して、彼を王に訴えた。
彼アマジヤの目に映じたアモスは、民を乱す者、王に背く者、神の聖殿を汚す者であった。しかしアモスの目から見れば、彼に沈黙を命じ、彼を王に訴えた祭司アマジヤこそ真の逆臣国賊であって、偽りの預言者であった。
神の御旨を伝えた者、これが真の預言者であった。王の意を迎えた者、これが偽りの預言者であった。後者は必ずしも悪人ではなかった。彼はあるいは恭順の人、温厚篤実の人であったであろう。
しかし彼は、ペテロのように「
神の事を思はず人の事を思ひたれば」(マタイ伝16章23節)、真の預言者の目から見て、偽りの預言者であったのである。
当時の愛国者であった偽りの預言者は、また武力の賞賛者、同盟の賛成者であった。彼等は、神の国をこの世に建てるに当って、人の力を借りる必要を信じた。彼等は、純正の義にはあまり重きを置かなかった。
彼等は、武によってユダとイスラエルの神聖を維持しようとした。また時には、他の強国と同盟を結んで、自国の利益を計ろうとした。ゆえに彼等のある者は、ヘゼキヤ王に勧めて、エジプト国と同盟を結ばせた。また彼等のある者は、エホイアキム王に勧めて、バビロン国と友好関係を結ばせようとした。
彼等は即ち、国運発展の方法として、普通の政略を講じることに躊躇しなかった。彼等は神を信じると同時にまた、剣の力を信じた。彼等は
信仰と剣と政略とで彼等の国を維持し、神の国をこの地に来らせようとした。
ところが真の預言者は、そのような複雑で矛盾した方法には全く反対した。彼等は十戒の第一条を文字通りに信じた。「
汝我面(わがかお)の前に我の外何物をも神とすべからず」と。
即ち唯一神教の精神をそのままに実行しようとした。
エホバに依頼む者は、エホバの外何物にも依頼むべからずと。これが、彼等が厳然として採って動かない主張であった。
彼等のある者は、歌って言った。
或者は戎車(いくさぐるま)に頼み、或者は騎馬に頼む。然れど我等は我が
エホバの名を唱へん。(詩篇20篇7節)
と。これは軍備排斥の言葉である。信仰を以て兵馬に代えようとする言葉である。また預言者イザヤは当時の同盟論者に反対して言った。
援助を得んとてエジプトに下り、馬に依頼む者は禍ひなるかな。戦車多
きが故に之に頼み、騎兵強きが故に之を頼む。然れどイスラエルの聖者
を仰がず、エホバを求むることをせざるなり。(イザヤ書31章1節)
と。預言者ホセアもまた同じことを言った。
アッスリヤは我等を援(たす)けず、我等は馬に乗らじ。 (ホセア書14章3節)
と。そうして武力と外交とを全く排斥した真の預言者は、エホバに依頼むことを国政の唯一の方法とした。
汝等静かにせば救ひを得、平穏にして依頼まば力を得べし。 (イザヤ書30章15節)
と。戦車に頼まず、騎馬に頼まず、外交に頼まず、同盟に頼まず、ただ静かにエホバの神に依り頼めば、国を救うことが出来、勢力を得るであろうということであった。
そして神の選民の歴史においては、事実は常にそのとおりであった。ギデオンがミデアン人を破ったのも、ヘゼキヤ王がアッスリヤ軍を退かせたのも、ユダとイスラエルの連合軍がモアブの軍を滅ぼしたのも、みなこの方法によってであった。
神の選民に、剣を抜いて戦う必要はない。異邦に援助を乞う必要はない。ただ祈って頼めば足りるとは、真正の預言者の堅い信仰であった。
即ち彼等は、キリスト以前の平和主義者、キリスト教以前の非戦論者であった。彼らは個人の行為からだけでなく、国家の政治家らも腕力と政略とを放逐しようとした。
このような理由で、偽りの預言者と真正の預言者との間に、衝突が絶えなかった。一方は他の者を罵って、偽りの預言者と言った。両者の相違は、必ずしも人物、ひととなりの相違ではなかった。信仰、主義、方針の相違であった。
いわゆる「偽預言者」の中にも、誠実な愛国者があったであろう。また、後世の真正の預言者と称する者の中にも、エリヤのような粗野な人、ヨナのような薄志弱行の人、エレミヤのような感情激変の人もいた。
両者共に国を思ったであろう。しかし、偽りの預言者は、いわゆる「偽りの預言」をしたのである。即ち唯一神教の主義によらずに、神以外のある他の勢力によって、国を救い民を救おうとしたのである。
その精神は、必ずしも咎めるべきではない。ただ真正の預言者が懐いた厳密な唯一神教の立場から見て、その方法と政略とが、全く誤っていたのである。
ここにおいて、真の預言者と偽りの預言者との別がはっきりするのである。
神の他、何物にも頼らなかった者、これが真の預言者である。
神に頼る他に、またこの世の勢力にも頼ろうとした者、これが偽りの預言者である。
預言者の「真」と「偽」とを両者の品性または人格によって決めてはならない。その預言者が取った主義方針によって定めるべきである。
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偽りの預言者、偽の監督、偽の宣教師、偽の牧師、彼等はどういう者であろうか。
キリストの福音を宣(の)べると同時に、軍備拡張の必要を唱え、神の僕であると称しながら、政権の保護を求め、この世に友人が多いことを誇り、社交を円滑にして福音の伝播を計ろうとし、この世に在っては、この世の方法によらざるを得ないと称して、この世の全ての方法によって、神の国をこの世に建設しようとする。
その精神は、咎めるべきものではないであろう。またそのような方法を取る者を、悉く悪人である、偽善者である、媚びへつらう者であると言うことは出来ないであろう。
しかし、それにもかかわらず、彼等は偽りの預言者の類である。善人ではあろうが、「偽って」福音を説く者である。キリストの福音の精神は、彼等の取る主義精神とは、その根本を異にする。
人は善意を懐いているからと言って、偽善者でないとは言えない。世には自らを欺く人がいる。そして昔時の偽りの預言者の多くは、そのような人であったのである。即ち自分の善良さを信じるあまり、偽って神の御旨を伝えた者である。
完