「無抵抗主義の根拠」他1編
明治40年8月10日
1.無抵抗主義の根拠
(5月19日角筈において)
われ汝等を遣はすは、羊を狼の中に入るゝが如し。故に蛇の如く智(さと)
く、鳩の如く馴良(おとなし)かれ。……この邑(むら)にて、人なんぢらを
責めなば、他の邑に逃れよ。
我まことに汝等に告げん。汝等イスラエルの諸邑(むらむら)を回り尽さざ
る間に、人の子は来るべし。 (マタイ伝10章16〜23節)。
◎ 羊の体の構造を見よ。かれには牙はなく、その角もひずめも防御用としては、全く無効のものである。これに反して狼は、その牙も爪も争闘攻撃の鋭利な武器である。羊は始めから平和の子であって、狼は始めから争闘の子であることは、その体の構造を見ても分かる。
信者は羊であり、世は狼であるなら、最も平和で無力なものが、最も獰猛(どうもう)で残忍なものの中に投げ入れられるのである。何と恐ろしいことではないか。
そしてこの無力な羊は、恐ろしい狼に対し、無抵抗でなければならないと言う。蛇の知恵はあってもよい。善に対して敏くなくてはならない。しかし、毒袋を捨てなくてはならない。そして鳩のように順良でなくてはならない。そうです。
純良でなくてはならないと。
◎ 損なうように造られた世に入って、無抵抗の態度をとれとのことである。ある学者は、この言葉があまりにも強すぎるので、後世に付け加えられたものだと言っている。
その説の当否はさておいて、私達信者が世に入るにあたっては、この態度を取らなければならない。キリスト御自身が、この態度を取られたのである。彼は奸悪な世に来て、小羊のようにして、十字架に上られた。
初代の使徒等もまた、その師のように(同章25節)、この態度を取った。彼等には、蛇の知恵と分別はあった。彼等には、善を見る知と、機を察し人を知る悟りがあった。
しかし彼等は、いかなる場合においても、人に害を以て向うことは出来なかった。キリスト者は、元よりいわゆる「お人好し」である。彼の生涯は、当初から無抵抗の生涯である。彼は性質として、害を以て人に迫ることは出来ない。
◎ この言葉を拡充すれば、マタイ伝5章が無くても、戦争などはキリスト者が主張できるものではない。私達は、敵のために祈り、その救いの方法を講じなければならない。
この点においては、クロムウェルも、ワシントンも、今のキリスト教国なるものも、戦争弁護の牧師も、根本において誤っている。
キリストは、義務として無抵抗の生涯を送られたのではない。これは、彼の固有の性質から出たのである。それだから、キリストに連なるキリスト者も、無抵抗が本来の性質でなければならない。
◎ ゆえにキリストは言われた。この邑(まち)で人が君達を責めるなら、他の邑に逃れよと。権利を主張するな、抵抗するな、
逃げ回れと。これは実に武士教育を受けた者などにとっては、堪(たま)らない言葉のように見える。
しかし、
これは恐れて逃れるのではない。怯懦(きょうだ)で逃げるのではない。これは実に、神の力を信じ、彼の義の審判に信頼して逃げるのである 。
ゆえに主は、直ちに厳粛な口調で言われた。「
我まことに汝等に告げん。汝等イスラエルの諸邑を回り尽さざる間に、人の子は来るべし」と。逃げ回ることはずいぶん長く逃げ回らなければならない。長く忍耐しなければならない。しかし、逃げ場がなくならない間に、確かに神の審判は来ると。
私達は、この神の義が現れる時の来るのを信じて逃げるのである。ゆえに私達は、敵に抗して共に亡びる愚を為してはならない。敵と和らぎ、敵のために祈らなければならない。
そうすれば神は、私達に代って裁いて下さるのである。そのような審判は、末日でなくても、私達の短い生涯において、しばしば実験するところである。
◎ 報知新聞の講談に面白い話がある。即ち大岡越前守が、ある日将軍家から善悪を示せという難題を言いかけられた。
すると頓知のある越前は、次の日将軍家の前に、起き上りこぼしを転がし、倒れては起き、倒れては起きするのを指し、善とはこれでござると言った。また美しい京人形を出し、一撃の下にその美しい面をくだき、悪とはこんなものでござると言ったとのことである。
実に面白い話である。そうである。倒れては起き、負けては勝つのが善の性質である。そしてこれがキリストの教えである。無抵抗な者が勝つ。
愚かな者よ、天然はこの真理を示しているではないか。アフリカ内地で、年々獅子が減って行くのは驚くべきものである。これに反して、獅子や虎に食われるウサギやカモシカは、相変わらず繁殖して行くとのことである。これは弱者、柔和なものの勝利を示す、生物界の大事実である。
◎ 近頃有名な魚類学者、カリフォルニア大学のジョルダン博士は、「戦争と亡国」と題する大論文を公にし、古今の例を引き、戦争は国を起こすものではなくて、国を亡ぼすものであることを論じた。
彼はギリシャもローマも、戦争で亡んだものであることを考証し、明確な、鋭利な史眼を以て論断した。彼は、日露戦争を論じて、日本は三百年の平和の蓄積によって、ロシアに勝ったのであり、日露戦争後の日本こそ、最も注意すべきであると言った。
そして博士の言葉は、事実である。戦争後の議会を見よ。前議会は、最も醜悪で腐敗した議会ではなかったか。
獅子が減るのは、彼の精力が攻撃争闘に集中して、生殖育児の方面に及ばないからである。
戦争で国が亡びるのは、「人」がいなくなるからである。有為な人物は、みな力の府である軍隊に入って、戦場に骨を晒(さら)し、道徳界は社会の腐敗を防ぐ有為な人物を欠き、殖産興業も、人がいないために衰えるから、国は終に亡ぶのである。
今日のギリシャ人を見て、私達はこれが、かの大文明を生んだ国民の子孫であるかと疑うほどである。これは他でもない。かの絶えざる戦争で、有為な人物は死に絶えて、今日残った者は、当時生き残った屑の子孫であるからである。
私は、横須賀に伝道して、海軍軍人中に、人物が多いのに驚くものである。そのような人物は、宗教界や文学者の中には見られない。
国の勢力の中心である有為な人物が、争闘事業に集中して、平和の事業が屑の手に託せられるとは、実に寒心すべきことである。これが国を亡ぼす基(もと)ではないと言うか。戦争が国を興すと、言い得る者が誰かいるか。
◎ そう考えると、鳩のように羊のように無抵抗で純良なことは、勝利の道であることが分かる。このキリストの御言葉は、実に天と地に溢れる大真理である。ゆえにキリスト者は、個人としても、社会としても、国家としても無抵抗の態度をとらなければならない。
2.記者の感想
書きたい事は沢山あります。しかし、書き得る事は多くありません。書きたい事は私の感想です。しかし、書き得る事は、神が私に書かせられる事です。神に使われる記者は、書きたくても、思うように書き得るものではありません。
執筆は、彼にとっては、いわゆる「朝飯前の仕事」ではありません。これは数日にわたる苦悶の業です。天を仰ぎ見て、雲間から洩れて来る光をとらえて、これを神に写すことです。
そしてある時は、雲が堅く閉ざして、少しも光明を送りません。その時私共は、「光欲しさに泣く赤子」となるのです。そうしてようやくにして得た少しばかりの光が、一冊の雑誌となるのです。
およそ十年間も続けて独りで雑誌を書いていると、時には倦怠を感じます。「いつまで書き続けるのだろうか」と、独り自分に問うことがあります。
しかし幸いにして聖書の研究ですから、今日まで継続することが出来たのです。これがもし政治の雑誌か、もしくは文学または社会改良の雑誌であったなら、とてもこう永く続けることは、出来なかったに相違ありません。
聖書の研究は、古典の研究ではありません。
自己の研究です。これは、聖書を通して自己を読むことです。問題は、外にあるのではありません。内にあるのです。
泉は、我が心の奥底から湧き出るべきものです。それゆえに、世の批評も何もかも忘れて、いつまでも書くことが出来るのです。聖書の研究と題して、私は幸福な標題を選んだのです。もし国とか社会とか文とか術とかいう題を選んだならば、私の筆はとうに自殺を遂げたに相違ありません。
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しかし、自己について書くことは、易しいようで易しくありません。これは、
自己を他人に与えることです。我が
術、我が
学、我が
文を与えるのではありません。
我自身を与えるのです。
世に辛い事、難しい事と言って、これに勝るものはありません。己が心血を絞るだけではありません。己が霊魂を傾けることです(イザヤ書53章12節)。
そして、この辛い業に従事して、私は時に思います。キリストがその血を流して世を救われたとは、これに類した事ではないであろうかと。
血とは、白血球と赤血球とが混ざった流動体ではありません。血とは、生命そのものです(「
そは肉の生命は血にあれば也」とレビ記17章11節にあります)。
血を流すとは、霊魂を傾けると言うのと同じで、ピリピ書2章7節に言う、「
己を虚(むなし)うし」と言うのと同じであろうと思います。
自己を空虚(から)にして、他人を充満(みた)すこと、これがキリストの業であって、またその御足の跡を踏もうとする私共の業ではないでしょうか。
いずれにしろ、自己に就いて書き、かつ語ることほど、苦しい仕事は他にないと思います。
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この事を知らない世の呑気な宗教家は、私共に会うと、必ず尋ねます。「あなたの雑誌はいくら出ますか」と。「いくら出ますか。何冊売れますか」と。何と情けない問ではありませんか。しかし、確かに近世流の問です。
ああ、彼等がもし宗教が何であるかを知るならば、自分に恥じて、そのような質問はかけられないはずです。「幾冊売れますか」と。ああ、私共は、聖物を汚すこれらの質問家に問いたいと思います。「霊魂の目方はいくらありますか、その目下の相場は、ドルとセントではいくらになりますか」と。
「幾冊売れますか」と。それは、人が問いかける質問です。しかし、「何をしますか、どのような善をしましたか、寡婦(やもめ)と孤児(みなしご)とを慰めましたか、罪人にその罪を悟らせて、彼を神に連れ帰りましたか」、これは多分、天使が私共に問いかけてくれる質問であろうと思います。
私共は、自分の霊魂を傾注して、他の霊魂を獲ないでは、満足しません。金は金で獲られますが、霊魂は金では獲られません。霊魂は霊魂でなければ獲られません。霊魂を傾けなければ、霊魂は獲られません。
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そうしてやや少しばかりの霊魂を獲ることができて―――もちろん神の恩恵によって―――私共は非常に満足するのです。私共の労力は、既に既に充分に償(つぐな)われたのです。
たとえ今日、何かの止むを得ない事情のために、この雑誌を廃刊しなければならない場合に立ち至ったとしても、私は深く歎かないのです。この小さな雑誌もまた、神の恩恵によって、少しなりとも、ある永久的な事業を為したのです。
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詰まるところ、伝道は現在における成功を期して為すべき業ではありません。これは、伝道者が死んで後に始めて実を結ぶべきものです。今はただ、種まきに従事するだけです。
収穫は、将来においてでなければ、来世においてです。私共は、遠い未来を望んで、私共の業に従事する者です。今、結んだ実は、未来に結ばれるべき数多な実の予兆に過ぎません。
聖書の真理は、人の学説のように、5年や10年で廃(すた)れるようなものではありません。これを播く者は、山林を植える者の類です。レバノンの香柏が、その実を振落し、万国がそれによって喜ぶ時は、百年、千年、万年の後です(詩篇72篇16節)。
私は19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて、この非キリスト教的な日本国に生れて来て、私の生涯の中の最も良い部分をこの事のために消費したことを、非常にありがたく感じます。
完