善いサマリヤ人の話
(ルカ伝10章25節から37節まで。4月5日柏木今井館において)
明治41年5月10日
25節 爰(ここ)に一人の教法師あり。起て彼(イエス)を試み曰ひけるは、師よ、我れ何を為さば、永生(かぎりなきいのち)を受くべき乎(や)。
◎ 「教法師」とは、法学者です。そして当時のユダヤ国の法律と言えば、旧約聖書に保存されているモーセの律法でしたから、法学者と言えば、もちろん聖書学者でした。モーセ律の研究ならびに適用に身を委ねた者です。「学者」というのとは少し違います。
学者は、主として文字の研究者でした。しかし実際においては、二者の相違は至ってわずかでした。
◎ 「起て」 会衆の中に立って。この質問は多分会堂において為されたのでしょう。
◎ 「試みて」 イエスの学力を試みようとして、この質問をしたのであろうと思います。彼を罪に陥れようという奸策ではなかったであろうと思います。イエスの答弁が、その事を示します。
◎ 「師よ」 先生よ
◎ 「我れ何を為さば」 何を為せば。私が何かを為せば、それによって永生を受けることが出来るような事業はあるか。慈善か、伝道か、教育か、世に何か、それを為すことで永久の報償に与ることが出来る事業があるか。「為さば」は、
為し終って、その報いとしてという意味です。
◎ 「永生」 やがて来るメシヤの国における幸福。当時のユダヤ人が、神が与えて下さる最上最大の恩恵と信じたもの。
◎ 「受くべきや」 継承することができるか。権利として享有出来るか。
26節 イエス答へて曰ひけるは、律法に録(しる)されしは何ぞ。汝如何に読むか。
◎ イエスが答えて言われるには、私があなたに答えるまでもない。あなたは法学者だ。あなたが専門とするモーセの律法は、この事について、あなたに何と教えるか。あなたは聖書において、この事についてどのように読むか。
◎ 「汝、如何に読むか」とは、聖書の言葉はどうかと言うのと同じです。昔のユダヤ人は、今のある種のキリスト信者のように、如何なる問題に会しても、必ずこれを証明する聖書の語を引用しました。
ゆえに、「汝、如何に読むか」とは、彼等が議論を闘わす時に、相互に対して常に発した言葉であったとのことです。
27節 答へて曰ひけるは、汝心を尽し、精神を尽し、力を尽し、意(こころばせ)を尽して、主なる汝の神を愛すべし。又己の如く隣を愛すべし。
◎ 法学者は、直に聖書の語を引いて答えました。その第一は、申命記6章5節ならびに同11章13節より、第二はこれをレビ記19章18節から引きました。聖書に詳しい法学者には、聖語の引用は、掌を返すように容易でした。
あなたは全心全力を尽して主であるあなたの神を愛しなさい、これが第一の訓戒でした。自分のように隣人を愛しなさい、これが第二の訓戒でした。
28節 イエス曰ひけるは、汝の答へ然り。之を行はば生くべし。
◎ 「汝の答へ然り」
あなたは正当に答えた。
◎ 「之を行はば生くべし」
これを行いなさい。そうすればあなたは生きるであろうと、法学者の問に対するイエスの答はこれでした。あなたが唱えつつある律法の訓戒を行いなさい。
単にこれを口で唱えるに止まらず、単にこれを人に教えるに止まらず、
これを行いなさい。常に続いてこれを行いなさい(原語は現在動詞であって、この意味があります)。
そうすれば、あなたは今直ちに生きるであろうとのことでした。学者はやがて来るメシヤの国において幸福を受ける資格について問いました。しかし、イエスは来世を待つことなく、現世において今から生きる道を伝えられました。
イエスの教訓に従えば、永生は死んで後に未来の世界において与えられるものではない。今世において今直ちにこれを受けることが出来るものです。
◎ 法学者は、どのような大事業を為せば、その報償として永生を受けることが出来るかと問いました。イエスはこれに対して、「神を愛し、人を愛する普通道徳を行え。そうすれば今から直ちに生きるであろう」と答えられました。イエスにとっては、永生を受け継ぐに足りる特別の大事業などは無かったのです。
神を愛し、人を愛すること、それが生命であったのです。世が普通道徳として蔑(さげす)んだもの、それがイエスにとっては最大道徳でした。人は永世を来世において望みましたが、それに代えてイエスは、今に始まる生命を説かれました。
法学者は、学者でありながら、永生が何であるか、これを受け継ぐ道が何であるかを少しも知りませんでした。彼はイエスに質問をかけて、意外な答に接しました。しかしながら、意外ではありましたが、それが真実であることを否定することは出来ませんでした。
29節 彼れ自身を罪なき者に為さんとて、イエスに曰ひけるは、我が隣とは誰なる乎、
◎ 法学者は、イエスの答が簡単で透明であることに、
あっけにとられました。彼はそのような分かり切った事を問うたと思って、自分ながら甚だ間が悪く感じました。
しかし、彼も学者だと自ら任じる者です。このままイエスに屈服してその前を退くことは出来ません。それで、なおさらに一問を試みました。
◎ 「自身を罪なき者に為さんとて」は、多分誤訳であろうと思います。彼はここで、自身の罪を覆い隠そうとしたのではないと思います。彼は学者です。イエスのような平信徒に説伏されて、甚だ
もどかしく感じたのです。
ゆえに「自身を正しき者とせんとて」、
即ち、そのような単純な質問を提出した自分の浅薄さを覆い隠すために、さらに質問を続けたのです。
◎ 「我が隣とは誰なる乎」と。彼はこの問をかけて、さらにイエスの学力を試みると同時に、衆人の前における学者たる自己の面目を維持しようとしました。
30節 イエス答へて曰ひけるは、或人エルサレムよりエリコに下る時、強盗に遇へり。強盗その衣服を剥取(はぎと)りて、之を打擲(うちたた)き、死ぬばかりになして去りぬ。
イエスはこの質問に接して、前のように、聖書の言葉に訴えて答えることはされませんでした。彼はその代わりに、一つの事実談を語られました。これが即ち有名な、「善きサマリヤ人の話」です。
これは、たとえ話ではないと思います。描写があまりにも写実的であって、作話(つくりばなし)とは思えません。これは、多分その当時に有った事実であって、イエスはこれを聞かれて、説教の良い材料として、しまって置かれたのでしょう。
◎ 「或人」 あるユダヤ人
◎ 「エルサレムよりエリコ」 距離はわずかに20マイルですが、道は断崖絶壁の間を縫い、強盗の巣窟に適し、その出没に便利な所です。
ゆえに今日に至ってもなお、同じこの辺において、強盗、追剥(おいはぎ)の難に遭う者は絶えません。1820年に、英国の貴族F. ヘンニッカーという人もまた、この道で強盗に殺されました。
31節 斯る時に或祭司この路より下りしが、之を見過(みすぐ)しにして行けり。
◎ 「斯る時に」
ちょうどそのような時に
◎ 「或祭司」 同国人で、しかも宗教の職を司る祭司
◎ 「之を見過(みすぐ)しにして行けり」
彼を見ながら過ぎて行った。心に多少同情の念を懐いたではあろうが、実際に助けようとはせずに、彼を避けて過ぎて行った。そして注意しなさい。彼は祭司だったのです。
32節 又レビの人も此に至り、進見(すすみみ)て同じく過行けり。
◎ 「レビの人」 祭司の下に付いて神殿に奉仕する人。神殿の下役人とでも言いましょうか。
◎ 「進見(すすみみ)て」 同情に引かれてか、または好奇心に駆られてか、遭難者に近寄ってみました。しかし、面倒と入費と、特に同じ危険が自分の身に及ぶことを気遣って、祭司同様過ぎ行きました。
33、34節 或るサマリヤの人旅して此に来り、之を見て憫(あわれ)み、近よりて油と酒を其傷に注ぎて之を裹(つつ)み、己が驢馬(ろば)に乗せ、旅邸(はたごや)に携往(つれゆ)きて介抱せり。
◎ 「サマリヤの人」 ユダヤ人が賎しんで止まないサマリヤの人。彼等は普段は相互と交際をしませんでした(ヨハネ伝4章9節)。
◎ 「人旅して此に来り」 祭司とレビの人とはエルサレムの神殿に仕え、その帰り道にここに来合わせたのでしたが、このサマリヤ人は、別に宗教上の職務を帯びてではなく、ただの旅行中に、偶然にもここを通りかかったのです。
彼は多分商人であって、商用でエリコからエルサレムに上る旅程にあったのでしょう。
◎ 「之を見て憫(あわれ)み」 心動き、惻隠(そくいん
:いたましく思う)の情を発し、常時の人種的怨恨を忘れて
◎ 「近より」 祭司とレビ人とが通り過ぎていったのに反して
◎ 「油と酒」 オリーブ油とブドウ酒、当時ではありふれた痛みの緩和剤でした。
◎ 「注ぎて之を裹(つつ)み」 薬を注いで傷を包み
◎ 自分のロバに助け乗せ、旅館に連れて行き、介抱しました。
35節 次の日出る時、銀二枚を出し、館主に与へて此の人を介抱せよ、費(ついえ)若し増さば我れ還りの時、我れ汝に償ふべしと曰へり。
◎ 「銀二枚」 我国今日の二円余り
◎ 「我れ汝に償ふべし」 入費を病人から請求するな。私が彼に代ってあなたに払うからと。実に親切の極です。
36節 然らば此三人の中、誰か強盗に遇ひし者の隣なると汝意(おも)ふや。
◎ 「此三人」 宗教家の祭司と、宮守のレビ人と、異邦人のサマリヤ人と
◎ 「隣なる」 では足りません。
隣となりしです。イエスの教訓は、この一語に存しているのです。そのような場合における訳語の不完全は、ほとんど許せません。
◎ 隣とは誰であるかとの学者の問に対して、イエスは隣と
なったのは誰かと反問されました。隣家に住んでいる者は、必ずしも隣人ではない。また国が同じで郷が同じ者も、必ずしも隣人ではない。
隣人とは、自分から進んで善を為して成る者であると。
これがイエスの隣人の定義でした。向こうから自分に接近する者は、隣人ではない。こちらから彼に近より、援助を供して、彼の隣人となるべきであるとのことでした。
実に不思議な隣人の定義です。しかし、実に深い定義です。世の人は隣人を求めます。しかしキリスト者は、自分から進んで人の隣人となるべきです。
◎ 「然らば此三人の中、誰か強盗に遇ひし者の隣なると汝意(おも)ふや」と。イエスのこの反問に会って、学者はさらに自分の無学を感じたでしょう。
37節 彼れ曰ひけるは、其人を矜恤(あわれ)みたる者なりと。イエス曰ひけるは、汝も往て其如く為(せ)よと。
◎ 「其人を矜恤(あわれ)みたる者」 憐れんだ者、憐みの業を為した者
◎ その学者は自分に恥じてか、あるいは今なおサマリヤ人の名を口にすることを厭うてか、「サマリヤ人です」とは言わずに、「その人に憐れみを為した者」と遠回しに答えました。彼は議論に負けても、自分の偏執を棄てることが出来ませんでした。
◎ 「汝も往て云々」 行ってあなたも人の隣人になれと。隣人は誰なのかについて論じるな。あなたは苦しむ者に援助を与えて、その隣人となることが出来ると。
世の学者の考えと、イエスの考えとは、そのように全く違います。「何を為して永生を受くべき乎」との学者の問に対して、イエスは「神を敬し人を愛して今より生くべし」と答えられました。
「隣人とは誰ぞ」との問に対して、「汝より進んで苦む人の隣人となれよ」と答えられました。意外と言いましょうか、深遠と言いましょうか。驚嘆する他はありません。
完