(「キリストの血について」No.2)
二、生命は血において在る、ゆえに血を流すことは、生命を奪うことである。即ち死なせることである。あるいは殺すことである。そして罪を犯したら、死なせざるを得ない。
「
罪を犯せる霊魂は死ぬべし」(エゼキエル書18章4節)と。「
血を流す事あらざれば赦さるゝ事なし」(ヘブル書9章22節)と。
ユダヤ人が信条によれば、罪と流血(即ち死)との間には、必然的関係があった。使徒パウロもまた、この信仰を変えなかった。彼は言った。「
罪の価は死なり」(ロマ書6章23節)と。
三、生命は血の中に在る。そして
生命はまた、これを他に伝えることが出来ると。これまたユダヤ人の信仰の一つであった。彼等は信じた。神はその生命を人に伝えることが出来る。人はその生命を他の人に伝えることが出来る。禽獣もまた、その生命を人に伝えることが出来ると。
いわゆる潔礼(きよめのれい)とは、この信仰に基づいて起ったものである。即ち潔(きよ)い鳥の血を、癩病から潔められようとする者の上に七回灌(そそ)げば、その人は潔められたとのことである(レビ記14章3〜7節)。
この場合においては、潔い鳥の生命が、病んだ人の体に移って、その人は潔められたということである。即ち今日の言葉で言えば、ここに血清療法が行われたのである。
以上は、血に関するユダヤ人の見解であった。それが、私達今日の見解と趣きを異にするのは、言うまでもない。
ユダヤ人にとっては、生命はすべて一つであった。人の生命も、鳥の生命も、獣の生命も、みな一つであった。ゆえにこれらは、相互に交換することが出来ると思った。
彼等にはまた、私達におけるように、肉的生命、知的生命、霊的生命というような区別はなかった。彼等にとっては、生命はただ一つであった。パウロの次の言葉などは、この辺の消息に通じていなければ分からない。
若しイエスを死より甦らしゝ者の霊、汝等に住まば、キリストを死より
甦らしゝ者は、其、汝等に住む所の霊を以て、汝等が死ぬべき身体をも
生かすべし。 (ロマ書8章11節)
即ち霊的生命は肉的生命となって働くであろうとの事である。生命の一元説は、古くからユダヤ人が信じたことである。今日の科学によっては、未だ十分に証明することは出来ないが、しかしながらすべての哲学が、一元論に傾きつつある今日、決して軽視してはならない信念である。
(一)血は生命である (二)血を流すことは死ぬことである (三)血を人に灌ぐことは、その人に生命を分かつことであると。以上が血に関するユダヤ人の思想であった。そしてこの思想をキリストの生涯の事実に適用したものが、新約聖書に現れたキリストの血に関する思想である。
キリストの血とはキリストの生命である。そして人の血はその人自身であるから、キリストの血というのは、キリストと言うのと同じである。キリストの血によって救われるとは、キリストの生命によって救われるということであって、またキリストによって救われると言うのと同じである。
また血を流すとは、死ぬということであって、死に伴うすべての苦痛をも合せて言う。ゆえにキリストの血に頼って義とされるとか、または十字架の血によって平和を得たとか言う場合には、「血」は「流された血」と解すべきであって、死とこれに伴う苦痛を指して言うのである。
「
我血は真正(まこと)の飲料(のみもの)なり」と言い、「
新約の中保(なかだち)なるイエス及び其灌ぐ所の血」と言う場合においては、血は永久にイエスより流れ出る生命であって、これを受けて復活があり、また永生があると言うのである。
「
我血は真正の飲料なり、……我血を飲む者は我に居り、我も又彼に居る」と言うのは、同じヨハネ伝の4章14節に、「
我が予(あた)ふる水を飲む者は、永遠に渇くことなし、且つ我が予ふる水は其中にて泉となり、湧出て永生に至るべし」とあるのと、ただ、血と言うか水と言うかの違いがあるだけで、その根底の意味は同じである。
ゆえに黙示録22章17節においては、この水を称して、「生命の水」と言っている。血と言っても、水と言っても、生命と言っても、つまる所は同じである。
キリストはどのようにして人を救われたかと言うと、犠牲(いけにえ)の言葉を用いてこの問に答えて言えば、
彼は自己を神の祭壇の上に捧げ、自から罪祭の礼物(そなえもの)となりて
其血を流し、神に対しては其怒を宥め、人に対しては其罪を担ひ、以て
人を神の前に執成し給へり
と。
倫理の言葉を用いて答えて言えば、
彼は完全に人たるの本分を尽し、死に至るまで神を怨まず、人を愛し、
彼の身を以て神を人に示し、人を神に導き給へり。而して彼れ死して彼
の精神(彼の場合においては聖霊と称する。霊的生命である)益々
人に伝はり、彼は今尚ほ彼の精神(霊的生命)を以て彼を信ずる者の中に在
りて生き給ふ
と。
ユダヤ人の慣例(ならわし)から全く脱却することが出来なかった新約聖書記者等は、犠牲の言葉を用いて、キリストにかかわる彼等の霊的実験を述べたのである。
しかし、この慣習に何のかかわりもない私達は、このような言葉に接して、その意義を探るのに甚だ苦しむのである。私達はこれを今日の私達の言葉に翻訳して読まなければならない。古人の言葉を文字通りに解釈したら、私達は大きな誤謬に陥らざるを得ない。
しかしながら、ここに一つ注意すべきことがある。即ち私達が古人の言葉を、私達今日の言葉で
解き去らないこと、その事である。即ち私達の浅薄な思想で、古人の深遠な思想を説了しないことである。
今人が理想的であるのに対して、古人は写実的であった。殊に古代のユダヤ人はそうであった。理想は空想に傾き易く、したがって皮想に走り易い。
精神と言えば一時の活気であると思い、生命と言えば、肉体の精力であるかのように思う。しかし、精神とはそのような浅薄なものではない。生命とは、そのような薄弱なものではない。
精神は聖霊である。神から出る真正(まこと)の生命である。もし生命を血と称して迷信に傾く懼れがあるならば、血を単に生命と解して、浅薄に流れる危険がある。
霊的生命は、単に生命としてイエスの身から流れ出るのではない。彼が赤い温かい生き血を流して、その結果として彼から流れ出て、私達の中に在って、永生と成るのである。
そのようにして、古人の言葉を今人の言葉に訳して読む必要があるが、それと同時にまた、今人の思想を古人の言葉で言い表す必要がある。
私達は実にキリストの血によって贖われ、また潔められ、また救われるのである。人間の不完全な言葉で、私達に在って成し遂げられたキリストの救いを言い表そうとすれば、これに優って適切な言葉はないのである。
私達がキリストによって救われると言うのは、哲学者によって思想の新光明に引き出されるということとは違う。キリストが私達に与えて下さる生命は、世のいわゆる元気でもなければ、また活気でもない。
これは深い静かな霊であって、真の真、実の実である。私達は、これを聖霊とお呼びする。即ちキリスト御自身である。彼の人格の本体であって、すべての生命の精髄である。
なお一つ注意しておくべき事がある。
それは、救いに両面があることである。即ち消極的ならびに積極的の両面があることである。
救いは、その一面においては、罪の消滅である。他の一面においては、生命の供給である。前者は一時的であって、後者は永久的である。聖書の言葉で言えば、私達は先ず、私達の
反逆を癒されなければならない(ホセア書14章4節)。
これがいわゆる贖罪である。罪は死に価するものであるので、私達は罪から救われたいと思うなら、自身で死に当るか、そうでなければ、ある他の者が私達に代わって死の苦痛を舐(な)めなければならない。
しかしながら、救いはこれだけでは成し遂げられない。死を免れた罪人は、さらに義とされなければならない。即ち正義の生命の供給を受けて、自身が義人と成らなければならない。
医術の言葉で言えば、患者は第一に病根を取り除かれなければならない。第二に、これに続いて滋養物の注入によって、生活力を加えられなければならない。そして、血を流す(shedding)は罪を除くために必要であって、
血を灌ぐ(sprinkling)は、新生命を注入するために必要である。
キリストが施された救いにもまた、この両面があった。彼は血を流して、彼を信じる者の罪を除いて下さった。彼はまた、彼等の上に彼の血を灌いで、彼等を永久に活かして下さる。十字架の血によって民を贖って下さり、彼から流れ出る血によって、彼等に永生を与えて下さる。
今、以上の二つの事に注意して、キリストの血に関する新約聖書の言葉を読むならば、その意味は、やや明瞭になるであろうと思う。
「
人の子の血を飲まざれば汝等に生命なし」(ヨハネ伝6章53節)と言うのは、イエスの生命を受けなければ、生きて神の子となることは出来ないということである。
「
主が、己が血を以て買ひ給ひし所の教会」(使徒行伝20章28節)とは、キリストが十字架上の死によって、その罪を除いて下さった、信徒の団体という意味であって、血は、この場合においては、前に述べた救いの第一の意義において解すべきである。エペソ書1章7節も同じように解すべきである。
「
今、其血に頼りて我等義とせられたれば、況(ま)して彼に由て怒より救はるゝ事なからん乎」(ロマ書5章9節) 「今」はこの場合においては「既に」と解すべきである。
既にその血に頼って私達の罪を除かれ、義人として神に受け入れられているので(第一義)、まして今から後、終末の裁判の日に至るまで、彼の生命の供給を受けて、潔められ、かつ活かされて、終に神の子となって救われることがなかろうかという意味である。
「
今はキリスト・イエスに在れば、曩(さき)に遠(とおざ)かりし汝等は、イエスの血に由りて近づけり」(エペソ書2章13節) 以前は異邦人であった君達は、今はイエスの生命、即ち子たる者の霊を受けて、アバ父よと呼んで神に近づくことが出来た云々。(第一義に解する。しかし、第二義がその中に含まれているのを見る)。
「
其十字架の血に由りて平和を為し云々」(コロサイ書1章20節) 神は、反逆する者を、その子の死によって御自分と和らがせられ云々。
「
父なる神、福音に順(したが)はしめ、イエス・キリストの血に灌(そそ)がれしめんとて云々」(ペテロ前書1章2節) 信者について言っている。 「イエスの血に灌がしめん」とは、「イエスの生命に与らせる」という意味である。キリスト者にならそうとして、イエスと共に恥辱と栄光とを担わそうとして云々。
「
其子イエス・キリストの血すべての罪より我等を潔む」(ヨハネ第一書1章7節) キリストの生命が私達の中に降り、血清療法的に私達を清めるという意味である。
即ち光明は来て暗黒を追いやり、正義は来て不義を消し、生命は来て死を滅ぼすということである。キリストの血が不可思議的に私達を清めると言うのではない。実際的に新勢力によって、汚れた私達を清めるということである。
聖ヨハネは、ここで単に宗教的信仰を述べているのではない。実験的事実を語っているのである。
以上は、解釈の実例に過ぎない。同じように、新約聖書におけるキリストの血に関するすべての章節を解釈することが出来ると信じる。
要するに、聖書はキリストの血において、不可思議的効験を認めない。これに触れようと、染まろうと、浸(ひた)されようと、血そのものに何の効力もない。迷信と情動とを嫌った聖書記者は、特に血の神秘的了解を避けようとしている。その最も善い例は、ヘブル書の記者である。彼は言っている。
若し牛及び羊の血、又牝犢(わかきめうし)の灰と雖(いえど)も之を汚穢(け
が)れたる者に灌ぎて其肉体を潔むることを得るとならば、況(ま)して永
遠の霊に由りて瑕(きず)なくして己を神に献げしキリストの血は、汝等に
活ける神に事(つか)へんがために死の行を去らしめて、其心を潔むること
を為さざらん乎。 (ヘブル書9章13、14節)
即ち、キリストの血が私達を、死んでいて意義のない外形的な行を去らせ、進んで私達の心を清める理由は、彼が
永遠の霊によって、瑕(きず)なしに己を神に献げたからであると言うことである。
彼の血そのものに、不可思議的な能力(ちから)が存しているからではない。彼が純愛を以て、これを神の前に流したからであると。即ち血が貴いのは、これを注いだ精神によるということである。
要するに
キリストの福音は、聖霊供給の福音である。私達が清められるのも聖霊によってである。永遠に救われるのも、聖霊によってである。「聖霊の供給」、福音の目的は、これに尽きている。これを血と言っても、水と言っても、パンと言っても、ただ言葉を変えて、同じ事を言っているのである。
「子たる者の霊」、どのようにしてこれを人に与えるか、どのようにしてこれを自分に受けるか、これは神にとり、人にとり、最上、最後、最大の問題である。
そして、「
其子イエス・キリストの血すべての罪より我等を潔む」と聞いて私達はアーメンと応え、心の中に踊り喜び、迷信的ではなく、だからと言ってまた空想的でもなく、事実中の事実、真理中の真理としてこの音信(おとずれ)を受け、深く新しい意味を付して、古い讃美を唱えるのである。
主にたよるたみの みなひとしく
きよめらるゝまで ながれたえじ
われいけるときも 死にてのちも
イマヌエルの血を たゝえうたはん。
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編者言う。この問題に付着する他の大問題は、
人格に関する問題である。人は果してその人格即ち霊的生命を他に移転することが出来るかと。
聖書はもちろん出来ると教え、近世心理学もまた出来ると唱えているようである。さらに後日に論じるであろう。
完