「天使とは何か」他1編
明治42年10月10日
1.天使とは何か
天使とは、肩に翼を生じ、童顔清姿で天地の間を飛行し、神と人との間に介在して前者の御旨を後者に伝える者であるとは、一般に人に信じられていることである。しかし聖書が示している天使とは、果してそのような者であるか、これがここで、私が知りたいと思っていることである。
一、
天使とは天人である。人のような霊を有しているが、人のような肉と情とを備えていない霊的実在物である。そのような者が事実として存在するかどうかは、科学的に証明することは出来ない。
しかし、単に人の場合においても、彼は肉のみではなくて、また霊であるから、彼が肉を脱して後は、天使のような者となって、その霊的存在を続けるであろうとは、信じるのがそれほど難しい事ではない。いわゆる祖先の霊を祭ると言い、英雄の霊を崇めると言うのは、人のこの信仰に基づくのである。
そして天使とは、人のように肉に宿らない霊である。神のような
純霊の実在物である。彼は人に似ているが肉を備えず、神に似ているが神より低い者である。
神は霊であるので、彼は肉を備えた人の他に、自分に似た天使をも造られたとは、信じるのが難しい事ではない。人もまた死んで後は、天使のような者となるとのことである。
即ちキリストが、「
それ死より甦る時は、娶らず、嫁がず、天にある使者等(つかいたち)の如し」(マルコ伝12章25節)と言われたように、である。
また人ではない天使の実在に就いては、キリストも使徒等もしばしば述べている。
其日其時を知る者は、唯我父のみ。天の使者も誰も知る者なし。
(マタイ伝24章36節)
我等は宇宙の者、即ち天の使及び人々に観玩(みもの)にせられたり。
(コリント前書4章9節)
二、
天使は天の使、即ち神の使者である。ゆえに神の命を人に伝え、神の御旨をこの世に行う者は、すべて天使である。必ずしも、肉を備えていない天人に限らない。
肉を備えた人でも、またある場合においては悪人でも、天使として使われることがある。聖書に言う天使なる者は、多くの場合においては、この意味においての天使である。
彼は天から福(よ)い音(おとずれ)をもたらす者である。嘉(よ)い恩賜(たまもの)を持ってくる者である。そしてこの意味においては、キリストも天使であれば、使徒等も天使である。
すべて「
和平(おだやか)なる言を宣(の)べ、又善き事を宣べる者」は天使である。ゆえに聖書に天使と書いてあるからと言って、必ずしも天人と解すべきではない。多くの場合においては、それが明らかに神に遣わされた
人であることが、示してある。
二個(ふたり)の天使黄昏(ゆうぐれ)にソドムに至る。ロト時にソドム
の門に坐し居たりしが、之を視、起ちて迎へ首(こうべ)を地に下げて言ひ
けるは、我主よ、請ふ僕の家に臨み、足を濯(あら)ひて宿り云々。
(創世記19章1、2節)
彼れ(エリヤ)金雀花(えにしだ)の下に伏してねむりしが、天の使彼に
触り起きて食へと言ひければ、彼れ見しに其頭の側に炭に焼きたるパン
と、一瓶の水ありき云々。 (列王記略上19章5節以下)
その他新約聖書において、百夫の長コルネリオにペテロを紹介したという神の使者は、どう見ても、信者の一人である(使徒行伝10章)。黙示録に言う七つの教会の使者(天使)なる者は、その監督であろうとは、多くの注解者の所説である。
また処女マリアが天使の見舞いを受けたと言う話にしても、天人の降臨に接したと解する必要はないと思う。神がアナニヤを遣(や)ってパウロを見舞わせたように(使徒行伝9章)、またマケドニヤ人の一人を送って彼をその地に招かれたというように(同上16章)、ある聖(きよ)い信仰の人を送って、この時におけるマリアの心を励まされたと解するのが最も適当であると思う。
聖書全体の記事によれば、すべて人として知られた神の使者は人として記され、どのような人であるか、その姓も名も分からなかった者は、単に天使として記されてあるように見える。
三、しかし、私達がここで特に注意すべきことは、聖書で天使と言われている者は、その多くの場合において、肉を備えない霊でもなく、また肉を備えた人でもなくて、風、火、水、電気等の
天然力であったことである。
言うまでもなく昔の人は、小児のように万物を人格視した者である。彼等にとっては、彼等のいわゆる火、水、土、気の
四行なる者は、単に物質の力ではなくて、活きた霊を備えた者であった。
彼等にとっては、物に死物と生物との区別は無かった。彼等にはただ、神と万物との区別があっただけである。人と天使との区別が判然としていなかったように、人と物との区別も判然としていなかった。
したがって人が天使と見做されたように、火も水も土も風も、時には天使と見做されたのである。私達の今日の言葉で言えば、天然の法則によって事が成ったと言うところを、古代の人は神が天使を使って為されたと言うのである。
天然力を人格視して、聖書における天使に関する多くの記事が出来たのであると思う。
ヘブル書の記者は、詩篇の言葉を借りて、次のように言っている。
彼れ(神)その使者を風となし
其役(つか)はるゝ者を火焔(ほのお)となす (1章7節)
と。即ち神は、ある時は風を使者として送り、火焔を僕として使われたとのことである。その意味は、この語の出所である詩篇104篇を見ればさらに明白に分かる。即ち
(彼は)風を使者となし
焔を出す火を僕となし給ふ
とある。即ち神は人を天使として使われるだけでなく、風をも火をも使者としてまた僕として使われるということである。
そのように解して、ガラテヤ書3章19節の意味はやや明白になるのである。
律法(おきて)は……(之を)天使等により中保(なかだち)の手に備へ給ひし也
中保とは、モーセを指して言ったのであることは、前後の関係によって明らかである。しかし、
天使等によって律法がモーセに伝えられたとは、ここ以外には、聖書のどこにも書いてない。
出エジプト記によれば、雷(いかずち)と雷光(いなびかり)および密雲とがシナイの山にあり、全山すべてが煙を出した時に、エホバは火の中に在って十戒(即ち律法)をモーセに授けられたとある(出エジプト記19章16節以下)。雷はあり、火はあり、煙はあったとあるが、天使がいたとは書いてない。
しかし、神は風を使者となし、火を僕となされると知って、シナイ山におけるこの現象が、実に天使の出現であったことが分かる。律法は実にこの意味において天使等によってモーセの手に備えられたのである。
肩に翼を備えた天使の飛翔によってではない。これよりもはるかに偉大な、はるかに荘厳な天然力の活動によって、即ち天柱は挫け、地軸はおれようとするばかりの現象の中に、人類にかつて授けられた最大最高の道徳は、神の人モーセの手に授けられたと言うのである。
「
律法は……天使等によりて中保に備へられたり」と。何と偉大なことか、律法は。それは、雷電と大風と噴火と地震とに伴われて、神より直ちに偉人の手に授けられた者である。
律法もまた素(もと)は、キリストの福音と同じく、人からではなく、また人に由らず、天と地との証明を受けて、人の手を借りずに、神から直ちに聖なる人に授けられたものであるとのことである。
天使を単に天使と解しては、ガラテヤ書におけるパウロのこの言葉の意味は、甚だ軽くなる。彼は言ったのである。
律法は偉大である。宇宙万物の証明を得て、神より直ちにモーセに授け
られた者である。しかし、キリストの福音はさらに偉大である。これは
神の子によって、父御自身の証明を以て、私達に授けられた者である。
と。古いパウロのこの言葉を、今日の言葉に訳してみて、その意味が実に雄偉(ゆうい)であることが分かる。
次の場合においては、天使は天然の力と解すべきものであることは、誰が見ても明白である。
エルサレムの羊門の辺(ほとり)にベテスダと云ふ池あり。其中に病める者、
瞽者(めしい)、跛者(あしなえ)又衰へたる者など多く臥(ふし)ゐて、水の
動くを待てり。そは、天の使時々池に下りて水を動かすことあり、
水の動ける後、先きに池に入りし者は、何の病によらず癒(いえ)たり。
(ヨハネ伝5章2〜4節)
これは地文学者のいわゆる間欠泉であったことは、言うまでもなく明らかである。我国の熱海温泉において見るような現象であって、その科学的説明は、至って容易である。
「
天の使時々池に下りて水を動かすことあり」とは、非科学的時代の人の、この現象の説明である。ここで天使と言われているものは、重量と空気の圧力と地球の引力とである。
聖書はここに天使云々と言って、天使のことに就いて教えているのではない。病者に対するキリストの恩恵に就いて語っているのである。そのような場合において、天使を強いて天人と解釈しようとするのは、愚の骨頂である。
聖書はまた、自身天使の天然的解釈を供している。テサロニケ後書1章7節において、世の末期の状態を述べるに当って、
此事は、主イエス火焔(ほのお)の中にて其能力(ちから)の諸使(つかいたち)
と共に天より顕はれん時にあり。
と言っている。火焔と言うのと同時に、使(てんし)と言っている。即ち火を天使として見ているのである。また同前書4章16節に、
夫(そ)れ主号令と使長(つかいのおさ)の声と神のラッパを以て自から天よ
り降らん
とあるのに対して、他の記者は同じ末期の事を叙して、
其日には天は大いなる響ありて去り、体質悉く焚(や)け毀(くず)れ、地と
其中にある物皆な焚け尽きん。 (ペテロ後書3章10節)
と言っている。即ち、天使の長の声とあるのを、天に大きな響きがあるであろうと言っている。あるいは流星の破裂であるか、あるいは星と星との衝突であるか。いずれも大きな天然的現象であることだけは明らかである。
私はここに、この問題について、これ以上を述べることは出来ない。旧約聖書のゼカリヤ書における天使の観念などには、ペルシャ思想の感化によって成った形跡があるとのことであるから、その事もまた深い研究に価するであろうと思う。
しかしながら、私のこの短い、かつ不完全な研究によって見ても、聖書にいわゆる天使なる者は、単に古人の迷信として排斥すべきものではないことが分かる。
すべて神の御旨を伝え、また為す者は、天使である。
その意味において、天の万軍はもちろん天使である。また人はすべて天使である。特に善人は神の使者であって、また僕である。
そして天使と人だけに限らない。地のすべての力もまた、天使である。風も天使である。水も天使である。空気も天使である。電気も天使である。ヘブル書記者の言葉に従えば、これらはすべて天の使者であって、
救を嗣がんとする者に事(つか)へんために遣はさるゝ霊 (1章6節)
である。そしてこのように解して聖書の意味が明瞭になるだけではない。私達がこれから受ける慰藉が甚だしく増大されるのである。
私達は実に、天使に取り囲まれているのである。
ガブリエルとかミカエルとか言うような天使族の長と、それが率いる天の万軍とによってだけではない。かつてこの世に在って大事を為し、今は肉を脱して霊となった偉人や英雄によって、私達は取り囲まれているのである。
かつては私達の妻と呼び、あるいは父と呼び、あるいは友人と呼んだ者も、今は天使となって私達を守り、私達を助けつつあるのである。
そして事はこれに止まらない。天地万有もまた神の使者となって、私達を助けるとの事である。
神は実に愛の神であって、人と万物とはその愛の使命を私達に伝える天使であるとのことである。宇宙に、何かこれに優る福音があろうかである。誠に私達は、人と天使の環視の中に私達の馳せ場を走りつつあるのである。
是故に我等斯く多くの見証人(ものみびと)に雲の如く囲まれたれば、すべ
ての重荷とまとへる罪を除き耐へ忍びて我等の前に置かれたる馳場を趨
(はし)
るべきである(ヘブル書12章1節)。
進化論の泰斗(たいと)ヴァイスマン氏は言っている。「
この宇宙は微妙な時計に似ている。刻々運転して至善至美を産す」と。
また使徒パウロは言っている。「
凡(すべて)の事は神の旨に依りて招かれたる神を愛する者の為に悉く働らきて益をなす」と(ロマ書8章28節)。
こうして神を愛する者にとっては、すべての事が善であるのである。即ちすべての者が神から遣わされた天使であって、彼等に益を為すのである。偉人、父母、友人、妻子、兄弟に限らない。
風も雨も、地震も火山も、そして実にすべての天然的現象、すべての社会的事象も、
そして実に死そのものも、神から遣わされた天使であって、私達に大きな益を与えるものである。
2.前進の声
エホバはモーセによってイスラエルの子孫(ひとびと)に「汝等前に進め」と御命じになった。そしてモーセがエジプトを去ってカナンに向ったように、パウロがユダヤ教を去って福音を唱えたように、ルターが天主教を去って新教を創(はじ)めたように、
ウェスレーが聖公会を去ってメソジスト教会を建てたように、ジョージ・フォックスがすべての教会を去って教友相互の愛を説いたように、私もまた今のいわゆる半死半生の新教諸教会を去って、さらに新鮮な自由の境土に向おう。
前に進むのみ。餓死を恐れず、単独を恐れず、失敗を恐れず、破滅を恐れず、前に進むのみである。(出エジプト記14章15節)
完