姦淫罪に対するイエスの態度
明治43年4月10日
少し注意して福音書を読む者は、姦淫罪に対するイエスの態度について、奇異の感を起さざるを得ない。イエスほど姦淫を嫌った人はいない。この罪に対する彼の詰責は、実に峻厳を極めたものである。
凡(すべ)て婦人(おんな)を見て色情を起す者は、中心(こころのうち)すで
に姦淫したる也、故に若し汝の右の眼汝を此罪に陥(おと)さば、抉出(ぬ
きいだ)して之を棄てよ。そは五体の一を失ふは、全身を地獄に投入(なげ
い)れらるゝよりも勝(まさ)ればなり。
又若し汝の右の手汝を此罪に陥さば、之を断(き)りて棄てよ。そは五体の
一を失ふは、全身を地獄に投入れらるゝよりも勝れば也。
(マタイ伝5章28〜30節)
これは、姦淫罪をその根本において戒めた言葉である。この警戒に接して、私は清浄だ、私は姦淫を犯したことはないと言い得る者は一人もいない。イエスの姦淫の定義から見て、人は誰でもことごとく姦夫淫婦である。
ウリヤの妻バテセバを辱しめたダビデ王だけではない。また、その兄弟ピリポの妻ヘロデヤを娶(めと)って妻とした、分封(わけもち)の君ヘロデだけではない。人という人、賢人という賢人、聖人という聖人は、イエスの前に出ては、すべてことごとく姦淫の人である。
イエスがこの世を称して、「姦淫の世」と言われたのは、理由(いわれ)ない事ではない(マタイ伝12章39節に「奸悪なる世」と訳せられた語句は、「悪くて姦淫を犯す世」という意味である)。
人類の堕落は、最も明らかにその姦淫の傾向において表れるものであって、この点において清浄であれば、人はその中心において清浄であるのである。
そしてイエスはその敵に対して、「汝等の中誰か我を罪に定むる者ありや」と問いかけられて、彼には汚穢の痕跡さえも存しないことを示されたのである。
そしてこれに反して、
聖ペテロと称せられるシモン・ペテロでさえ、始めてイエスが誰であるかを知った時には、彼の足下にひれ伏して、「
主よ、我を離れ給へ。我は罪人なり」(ルカ伝5章8節)と叫ばざるを得なかったのである。
聖パウロの言葉として伝えられるものの中にも、彼が未だイエスを知らなかった時の状態(ありさま)を述べて、「
我等も前には……諸般(さまざま)の慾と楽の奴隷と為(な)れる者なり」(テトス書3章3節)、パウロにもまたこの不浄不潔の自覚が強烈に起った時があったことが分かる。
誠にイエスの言行とその功績とを記した新約聖書を総称して、これを「純清の書」と称することができる。誠に世界万巻の書の中に在って、ただ新約聖書だけは汚穢の痕跡さえ留めていないと言うことができる。
この点においては、古事記も不潔である。コーランも不浄である。イエス・キリストの居られる所だけが、姦淫の痕跡さえ留めていないのである。
ところが、ここに最も不思議なことは、そのように汚穢(おわい)猥褻(わいせつ)の微塵(みじん)をさえ容赦されなかったイエスが、実際の姦淫者に向っては、非常に寛大であったことである。
清浄の化身であった彼が、汚穢に接する場合には、これを峻拒(しゅんきょ)、厳責(げんせき)して止まなかったであろうとは、誰もが思うところであるのに、事実は予想の正反対であって、イエスは姦淫罪に接して、たやすくこれをお赦しになったのである。
この事は、今日の私達に奇異の感を起させるだけでなく、また非常に彼の在世当時の彼の観察者を惑わせたのである。
彼がかつてパリサイの人である富豪シモンの家で客だった時に、彼の背後に立って彼の足に高価な香油を注ぎ、その頭髪でしきりにこれを拭う一人の婦人がいた。そして主人シモンはよく彼女の素性を知っていたので、彼女に対するイエスの態度を怪しみ、独り密かに心の中で言った。
此人若し預言者ならば、触りし者は誰なる乎、又如何なる婦なるかを知
らん。
と。なぜならこの婦人こそ、その邑(むら)に住む有名な醜業婦であったからである。
ところが、この疑問がシモンの心の中に起ったことを知ったイエスは、少しも婦人を責められずに、かえってそのような疑問を起したシモンを責められた。
醜業婦が彼の身に触ったことは、イエスがお咎めになったことではない。自分の義を頼んで、悔改めの必要を感じなかったパリサイ人のシモンこそ、彼の警告を蒙った者である。
婦人に対しては、彼はただ慈愛の一言を語っただけである。「
汝の信仰汝を救へり。安然にして往け」(ルカ伝7章37節以下を見よ)と。伝説の伝えるところによれば、この婦人こそ、有名なマグダラのマリアであって、この後終りまで忠実にイエスに従った者であるとのことである。
イエスに近づいた第二の淫婦は、サマリヤの婦(おんな)である。イエスが疲れてヤコブの井戸の傍らに座っておられた時に、彼に近づいて会話をした一人の婦人がいた。
彼から、「
汝往きて汝の夫を呼び来れ」という痛い命令を受けたが、彼女がこれを拒んだので、イエスは、「
汝に夫なしと言へるは理(ことわり)なり。そは汝に曩(さき)に五人の夫ありて、今ある者は汝の夫に非ず。汝の言ひしは真(まこと)なり」と言って彼女の真相を看破された。
ところが厚かましい彼女は、痛いこの一撃を意に介さないかのように見せかけて、さらに談話を続けようとしたので、イエスは特に彼女を追及しようとはされず、彼女の質問に応じて、諄々(じゅんじゅん)として奥深い真理を、彼女に説かれた。
ここに清浄の化身と相対して、淫猥の塊が座したのである。ところが清浄な者は怒って不浄な者を斥けることなく、その不浄を指摘して、これを否認されたが、しかし罪人をその罪ゆえに憎まず、反ってこれを愛されて、これをさえ神の子供にしようとして努められた。
ここにイエスの清浄は、対照によっていっそう明らかに現れたのである。純清は不浄を憎まず、反ってこれを赦す。口を極めて不潔を憤るのは、不純の証である。サマリヤの婦(おんな)を相手にヤコブの井戸の傍らに座られた時に、イエスは特に神の聖子として、私達の前に現れられたのである。
イエスはある時、以上の二つよりもさらに醜悪な姦淫の実例に接せられた。彼の教敵は、ある時一人の現行犯の淫婦を彼の許に引いて来て、彼にその処分を乞うた。彼等は言った。
師よ、此婦は姦淫を為し居る時其儘(そのまま)執(とら)へられし者なり。
モーセは其の律法の中に、此(かく)の如き者は石にて之を撃殺すべしと命
じたり。汝は如何に言ふや。
と。
清浄無垢のイエスは、この汚れた婦人を如何に処分するであろうかと周囲の人は瞳をこらして窺(うかが)ったであろう。ところがその中に立って、イエスは婦人に対して何をも語らず、何をもされなかった。ただ身をかがめて、指で地にものを書き、事の自然の成り行きを待っておられた。
ところが彼等がなおもしきりに彼に問うて迫ったので、イエスは起って静かに言われた。「
汝等の中罪なき者、即ち曾て姦淫の罪を犯せし事なき者は、先づ石にて彼女を撃つべし」と。
そう言って、彼は再び身をかがめて、地にものを書かれた。そしてこの意味深い威厳のある一言によって、万事は決せられたのである。淫婦をイエスに訴えた者の中に、自身姦淫の罪の汚染から全く離脱した者は一人もいなかった。
ゆえに一人去り、二人去って、終にはイエスと婦人だけが残った。ここにおいてイエスは、婦人に向って言われた。「
婦よ、汝を訴へし者は何処(いずこ)へ往きしや。汝の罪を定むる者はなき乎」と。
そして、「主よ一人もなし」との彼女の答に対して、彼は彼女に言われた。「
我も亦汝の罪を定めず。往きて再び罪を犯す勿れ」と。実に著しい活画である。「
未だ此人の如く言ひし人あらず」(ヨハネ伝7章46節)。
この人の一言によって、淫婦はその罪を赦され、彼女を訴えた者は、その罪を定められたのである。私の知る範囲内において、ソクラテスも孔子も釈迦も、そのようには語らなかった。
事実は以上の通りである。姦淫を激烈に、そして深刻に憎んだイエスは、驚くべき寛容を以て、姦淫を行う者を赦された。一見して姦淫罪に対するイエスの態度に、大きな矛盾があるように見える。
イエスは姦淫の事に関しては、その所信を実行されなかったように見える。その理由はどの辺にあるのか。これは誰もが知りたいと思うところであると思う。
その理由の第一は、
イエスの罪の救済力に存するのであると思う。イエスは自在に姦淫罪を赦して、彼はどのような罪をも赦し得る権能を聖父から授けられた者であることを示されたのであると思う。罪の中で最も醜悪なこの罪を自在に赦し得る者は、すべての罪を赦し得る者であるに相違ない。
マグダラのマリアや、サマリヤの婦や、姦淫をしている時に捕らえられた婦が、あのように容易くイエスに赦されたと聞いて、すべての罪人は、自分が犯した罪の赦免について失望しないのである。
私がどれほど大きな罪人であっても、未だ幸いにしてそこまで身を汚したことはない。しかも主は寛容に彼等をさえ赦されたと聞いて、私は自分の救いについて失望しなくなるのである。
「
夫(そ)れ人の子地にて罪を赦すの権あることを汝等に知らせんとて」と言われて、イエスは衆人凝視の中で中風を病む者を癒された。彼は同じ事を彼の心の中で唱えられて、姦淫の婦を赦されたのであると思う。
「
人の行ふすべての罪は身の外にあり。然れど姦淫を行ふ者は、己が身を犯すなり」とパウロが言ったその姦淫の罪をさえ、イエスは容易(たやす)く赦されたと聞いて、ここに彼が赦し得ない罪などは、この世の中に一つも無いことを、明らかに示されたのであると思う。
しかしながら、その他にもまだ理由があると思う。そしてその主なものは、
姦淫罪の性質においてあると思う。人が犯すすべての罪の中で、姦淫は最も犯しやすい罪である。それが重大な罪であるにもかかわらず、姦淫ほど犯し易く、また犯す機会の多い罪はないのである。
これは一人で犯す罪ではなくて、二人で犯す罪である。また犯すのに苦痛はなくて、反って快楽が伴う罪である。また隠し易くて、また弁解の理由を付するのが容易な罪である。
ゆえに人類の罪の中で、最も多く行われるのはこの罪であって、文明の今日といえども、最も絶つのが難しいのはこの罪である。ゆえに神は深い憐憫を以て、この罪に陥りやすい人類を御覧になっておられるのである。
ノアの洪水があった後に、
人、地の面に増えはじまりて、女子之に生るゝ時、神の子等人の女子(む
すめ)の美(うる)はしきを見て其好む所の者を取りて妻となせり。エホバ
曰ひけるは、我霊永く人と争はじ。そは彼も亦肉なればなりと。
(創世記6章1〜3節)
これは神に取って、その子に関する失望の声であったと同時に、また憐憫の声であった。「彼も亦肉なればなり」と。憐れにも、彼もまた下等動物の性を受けており、霊なる神の霊的訓戒を直ちにその霊に受けることができないからだとのことであった。
そして神のこの憐憫を悟った詩人は、彼に自分の罪の赦しを乞うに当って言った。
エホバの己を畏るゝ者を憐み給ふことは
父が其子を憐むが如し。
エホバは我等の造られし状(さま)を知り、
我等の塵(ちり)なることを念(おも)ひ給ふ。 (詩篇103篇13、14節)
と。
姦淫は性欲乱用の罪であって、肉に属する罪である。人が塵であるゆえに陥る罪であって、霊である天使には無い罪である。ゆえに神の側から見て、憎むべきと同時に、また憐れむべき罪である。神がこれに対して寛容な態度を取られるのは、そのためであると思う。
また人の側から見て、姦淫は犯し易い罪なので、同時にまた
悔い易い罪である。
罪にも種々の種類がある。使徒ヨハネが言ったように、「
死に至る罪あり。然れど亦罪に至らざる罪あり」(ヨハネ第一書5章16、17節)。そして姦淫は重大な罪であるにもかかわらず、癒し難い罪ではない。
即ち必ずしも「死に至る」罪ではない。人が陥る罪の中には、姦淫よりも遥かに危険な罪は、他に幾つもある。即ち、傲慢とか、讒害(ざんがい)とか、妬忌(とき)とか、詭譎(きけつ)などはこれである。
これらはみな、肉の罪であるよりは、むしろ霊の罪である。意志が邪悪であることから起る罪であって、肉が弱いために生じる罪ではない。したがって神の側に在っても、また人の側に在っても、赦すにも除くにも甚だ難しい罪である。
傲慢は姦淫と異なり、肉を有(も)たない天使もまた陥り易い罪である。閨門(けいもん)の事に関しては、少しも咎めるべき所の無い人の中に、神を畏れず、人を敬わず、傲慢、無礼、不情、不慈、岩石の塊のような人があることは、人のよく知るところである。
ここにおいて私達は、イエスが何故に姦淫を犯した者よりも、学者、パリサイの徒を嫌われたのか、その理由を少し窺い知ることができるのである。
パリサイの人シモンの場合においても、また現行犯の淫婦を石で撃とうとしたパリサイ人の場合においても、イエスは淫婦の味方に立って、パリサイの人に抗された。
イエスには姦淫を犯した婦(おんな)よりもはるかに憎むべき者がいた。学者とパリサイの人、神学者と自称宗教家、己が目にある梁木を知らずに、他人の目にある塵を除こうとする者、
私は他の人のように、強奪、不義、姦淫をしないと言って、神の前に自分を義とする者、……イエスがその聖(きよ)い心の根底から憎まれた者は、この人達である。彼は淫婦よりもこれ等の人を嫌われた。
彼は満腔の怒りを込めて、幾回となく彼等を呪って言われた。「
噫(ああ)、汝等禍ひなるかな、偽善なる学者とパリサイの人よ。」と。
そして彼等に対して憚らずに言われた。「
我れ誠に汝等に告げん。税吏(みつぎとり)及び娼妓(あそびめ)は、汝等よりも先きに神の国に入るべし。」(マタイ伝21章31節)と。
イエスの眼から見て、「死に至る罪」は、学者とパリサイの人の犯す罪であって、税吏と娼妓の犯す罪ではない。自分を義とする罪は、身を汚す罪よりも遥かに大である。
福音書に記されている、イエスが庇(かば)われた姦淫罪の犯人が、主として婦人であったことは、私達が注目すべき事である。彼が姦淫の男子を庇われた実例は、一つも載せられていない。
これはもしかすると、彼の在世当時にあっては、今の東洋諸国におけるように、女子は男子よりも特に罪業深い者として見做され、男子が犯した罪の原因は、女子にあると信じられたからであるかも知れない。
現に使徒パウロの言葉として伝えられる者の中にも、アダムとイブの罪を比べて、「
アダムは、惑はされざりしなり。婦は、惑はされて罪に陥いれり」(テモテ前書2章14節)とあるのを見て、当時の思想の一斑を窺うことができる。
そしてこの時に当って、イエスが特に淫婦を赦されたのは、彼が姦淫の罪をその根本において除かれることの実証を挙げるためであったかも知れない。
しかしながら、イエスは婦人だからということで、特にそのか弱さを憐れんで、その姦淫の罪を赦されたのではない。
彼が述べられた放蕩息子のたとえ話において、彼放蕩児が、その財産をことごとく集めて、遠国へ旅行し、そこでその持物を娼妓のために費やしたが、悔いて父の許に帰って来ると、
父は喜んでこれを迎え、ことごとくその罪を赦し、子牛を屠ってその帰還を祝したとあるのを見て、イエスは姦淫罪の赦免を女子だけに限られなかったことが分かる。
殊に新約を去って旧約に至れば、ダビデ王の実例によって、最悪の姦淫罪であっても、悔いて赦されないものはなく、またひとたびはこの罪に陥っても、悔いて再び神に帰れば、
彼は、「
我が心に適ふ王ダビデ」の言われて、その恩恵を続けられたということが、明らかに示されているのである。エホバの神は、姦淫を憎まれると同時に、またこれを赦されるということは、旧・新約聖書を通して、明らかに示された神の聖旨(みこころ)である。
私はこのように述べて、もちろん姦淫を軽視し、またはこれを弁護しようとするのではない。姦淫は、犯し易い罪である。ゆえに危険な罪である。これはサタンが、思慮のない者のために設ける落とし穴である。これに陥る者は多く、落ちて再び上がり得ずに、その中に死ぬ者も少なくない(箴言第7章を見よ)。
しかし危険だからと言って、回復の見込みのない罪ではない。これは必ずしも、死に至る罪ではない。その性質から言って、偽善、傲慢、讒害のような罪ではない。
これは主が憐れまれる罪である。肉の弱さから起る罪である。ゆえに自身に在っては非常に慎むべき罪であるが、他人に在っては寛容を以て赦すべき罪である。姦淫は特に同情すべき罪である。狂気が同情すべき病であるのと同じである。
普通の人が狂気を嫌うように、普通の義人と宗教家とは、姦淫の罪を嫌う。しかし、二者共に不治の病ではない。イエスはよく狂気を癒され、またよく姦淫を赦された。
ところが、自らキリスト信者と称する者の中に、イエスのこの心を知る者が少ない。彼等は姦淫の罪に対して殊に厳格であって、その他の罪に対しては、甚だ寛大である。
彼等は、容易に偽善を許す。争闘と詭譎(ききつ)と讒害と誹謗とは、盛んに彼等の間に行われる。ところが彼等は、これを措(お)いて問わない。
けれども若し彼等の中の弱い兄弟または姉妹のある者が姦淫の罪を犯せば、あるいは犯したという風評が立つならば、彼等は怒って一斉に立ち上がり、石を以てこれに対し、その名を傷つけ、その霊魂を殺さずには済まさない。
しかし、これはイエスが為されるところではない。イエスは、神学者と自称宗教家とに対しては厳であったが、姦淫を犯した者に対しては、甚だ寛大であった。イエスは姦淫を憐れんで、偽善を呪われた。
イエスのこの心をよく弁えていたパウロは言った。「
兄弟よ、若し図らずも過(あやまち)に陥る者あらば、汝等の中霊に充つる者は、柔和なる心を以て、之を規制(ただ)すべし。亦自からをも顧みよ。恐らくは汝も亦誘はるゝことあらん。」(ガラテヤ書6章1節)と。
そして使徒のこの勧めは、殊に人が姦淫の罪を裁こうとする場合において適切である。「亦自からをも顧みよ。恐らくは汝も亦誘はるゝことあらん」と。
詩人ゲーテの名作ファウスト劇において、潔白な少女マーガレットが、近隣の女子某が堕落の淵に沈んだのを聞き、甚(いた)くこれを憤った後、間もなく自身がそれ以上の堕落に陥ったことが書いてある。姦淫の罪は、他人においてこれを責めるよりも、むしろ自身において慎むべき罪である。
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「
汝姦淫する勿れ」とは、シナイ山の頂から火と煙と大きな声に伴われてモーセに降った神の戒めである。
汝の信仰汝を救へり。安然にして往け。
我も亦汝を罪に定めず。往きて再び罪を犯す勿れ。
とは、夕陽がきらめくガリラヤの海の辺(ほとり)に、また清く涼しいシロアムの井戸の端においてイエスによって伝えられた福音である。そして私達は、モーセの律法よりも、イエス・キリストの福音に、より多く耳を傾けるべきである。
完