「教権の所在」他
明治43年4月10日
1.教権の所在
教権は教会にあるのではない。聖書にあるのではない。もちろん自分自身にあるのではない。活けるキリストにある。教権は「彼」にあり、制度または書籍等の「物」にあるのではない。
2.失敗の恩恵
教会のキリスト教は、成功の中に神の恩恵を認める。これに反して、キリストの福音は、失敗の中に神の愛を示す。最大の恩恵は、キリストを知ることにある。そして失敗の十字架を味わってのみ、よく十字架のキリストを知ることができるのである。
3.無教会主義の利害
私の無教会主義は害があると言う者がいる。また利があると言う者がいる。しかし私は、害があると言う者のためにこれを唱えず、利があると言う者のためにこれを言う。ゆえに害があると言う者は、これに耳を傾ける必要はない。利があると言う者だけがこれを聴くべきである。
人はことごとく一様ではない。彼は自分を模範として他を裁くことはできない。無教会信者を無教会信者としていさせなさい。彼等はまた教会信者が教会信者であることを妨げないであろう。教会は信仰上の細事である。この事に関しては、人は各自が選ぶところに従っていいのである。
4.奮闘の必要
私達は、キリストの福音を土台としてこの世に立つ以上は、戦闘は全くこれを避けようと思っても、それはできない。私達はもちろん、他を苦しめるために闘わない。また自分の恨みをはらすために闘わない。
また我が領土を広めるために闘わない。また戦闘の憤激を好んで、そのために闘わない。しかし、自分の内にある光を世に輝かせようと思えば、私達は世と闘うまいと思っても、それはできない。
私達はもちろん、何よりも静粛を愛する。もし私達の好みを言うなら、私達はもちろん終生聖書と天然とを友として、讃美と詩歌の生涯を送りたいと思う者である。しかしそれは、自身が十字架を負って、私達を罪から救い出された主が、私達に許してくださらない。
私達は、自分の救いを全うしようとする点から見ても、悪魔と激闘せざるを得ない。そしてその悪魔は、単に内なる霊の悪魔ではない。外なる肉の悪魔である。佞人(ねいじん)である。奸物である。酒である。賄賂である。淫猥である。残忍である。
私達は時には彼等の怒った顔を恐れずに、「主は汝を憎み給ふ」と言って、彼等を詰責しなければならない。そう言うには、多くの勇気を要する。しかし、言わざるを得ない。これを言うことができないようでは、私達は主の忠実な僕ではない。
今や罪悪は、どこでも跋扈(ばっこ)する。村でも町でも郡でも市にも国でも、至る所で醜悪な罪悪は横行する。そして、これを不問に付せば、それが改まる時は、永久に来ない。
主はある時、誰かを用いて、これを責められるに決まっている。私達はもちろん、言うべき時機の到来を待つ。
しかし、その時機は、私達が何の苦痛をも感じずに罪悪が除かれる時機でないことを、私達はよく心に留めておかなければならない。
そのような無痛の時機は、永久に待っても決して来ない。
罪悪の切除は、必然的に苦痛の業である。私達は無痛の時機の到来を待つと言って、目前に熟しつつある時機を逸してはならない。
血を流すことなしに罪の赦しはない(ヘブル書9章22節)、苦痛と奮闘となしに罪悪と暗黒とが除かれることはない。私達は身に多くの痛い傷を負うことなしには、神にも同胞にも、永久的善事を為すことはできない。
そして幸福な人とは、この痛傷を沢山負わせられた人である。これに反して、「
臆する者は、火と硫黄の燃ゆる池にて其報を受くべし」(黙示録21章8節)とのことである。
ゆえに私達の祈りは、次のようにあるべきである。即ち、
主よ、我等に汝の命を待望む所の、従順の心を与へ給へ。其れと同時に
危険を敢てする勇敢の心を与へ給へ。我等が平和と静粛とを愛する其心
が、人の面(かお)を恐るゝ怯懦(きょうだ)と成り了(おわ)らざるやう我等
を助け給へ。我等がキリストの戦士として一生を終らんとする其覚悟を
我等に与へ給へ。 アーメン
5.感化の功績 他
(1) 感化の功績
先生に教えを受けたので、こんな目に遭ったと言って、私を恨む人もいる。先生に道を聴いたので、このような境遇に陥ったが、それでもよくこれに耐えることができると言って、私に感謝してくれる人もいる。
私は、いわゆる先生という者が、実際に世に役立つ者であるかどうかを知らない。しかしながら、もし役に立つ者であるとすれば、それは先生がどうかによるよりも、むしろ弟子である者がどうかによるのであると思う。
キリストさえも、「
汝の信仰汝を救へり」と言われて、救済の功を常にその弟子に帰された。まして私においてはなおさらである。
私には欠点が多いので、とうてい人を感化するなどということはできない。しかし、ある人が私を利用し、私に学ばずに、私が伝える神に学ぶならば、あるいは私でも多少は人生を益することができるであろうと思う。
私は人に私の感化力について言われる時には、汗が背をぬらして、身は地下に入りたいと思うのを常とする。
(2) この世とかの世の勝敗の理
この世の勝敗は競争によって決し、天国の優劣は恩恵によって決まる。この世に在っては強い者が勝ち、弱い者は敗れ、賢い者は優り、愚かな者は劣る。
しかし天国に在っては、「
欲(ねが)ふ者にも趨(はし)る者にも由らず、唯(ただ)恵む所の神に由る」(ロマ書9章16節)。
この世の法則は、天国の法則ではない。私達はこの世において敗れても、敢えて悲しむ必要はない。それは、この世において敗れるその理由は、天国において勝つその理由であるからである。
完