(「ルーテル伝講話」No.6)
5.ルーテルの平和時代
ルーテルは寺院に入って後に心の平和を得た。しかし、寺院がこれを彼に供したのではない。彼は信仰によって、これを得たのである。彼は寺院に入らなくても、これを得ることができたのである。
彼は、平和を得た後に悟った、彼はこれを得るために世を棄て、寺院に入る必要はなかったことを。彼は、平信徒として、また法律学者として、これを得ることができたのである。
寺院と寺院が課する修養とによることなく、単に神の約束を信じることによって、彼が待望んだ心の平康(やすき)を得て、彼は今寺院に止まる必要はなかった。ゆえに彼がもし浮薄な青年であったならば、彼はその時直ちに寺院と縁を断って、再び大学の課業に戻ったであろう。
しかし、ルーテルがルーテルである所は、またここに現れた。彼は正直であった。彼は一たび心に誓ったことを、自分の便宜のために変えなかった。彼は僧侶として一生を送ることに決した。
ゆえに一年の見習いの後に、公然と僧職を授けられて、一人前の僧侶となった。そして彼は、僧侶となったことを悔いなかった。
彼は、彼の僧職授与式に臨んだ彼の父に告げて言った、
父様、ナゼ大人(あなた)は私に反対し給ひし乎(か)、ナゼ大人(あなた)は
怒り給ひし乎。ナゼ大人(あなた)は今日と雖(いえど)も尚(な)ほ私の僧侶
となるを見て不快に感じ給ふ乎。是は実に平康(やす)くして、楽しき聖
(きよ)き生涯であります、
と。
そして、彼に対する父の怒りはまだ解けなかったにもかかわらず、彼は全力を傾けて彼が選んだ新生涯に入った。
彼は僧侶の職を授けられて、今はミサを司る特権を与えられた。即ち彼が献げる祈祷によって、パンは化して実(まこと)にキリストの肉となり、ブドウ酒は化して誠にキリストの血となるとのことであった。
彼はまた人の罪を赦す特権を授けられた。新教の牧師のそれとは違い、旧教の僧侶の職務は、遥かに荘重である。ただし、肉を具えた罪の人が、身はたとえ僧職に就いたとしても、そのような重任に当り得るか、それは大問題である。
しかしながら、そのような疑問は、その時ルーテルの心に起ったとしても、彼はこれに強くは悩まされなかった。彼は新たに心の平和を得て、歓喜に満たされて、他を顧みる暇(いとま)がなかった。
しかしながら、彼の熱心と天才とを具(そな)えて、彼は永く普通の僧侶として止まるべきではなかった。彼は自ら選んで寺院の静粛に入った。しかし、運命は彼が長くこの静粛を楽しむことを許さなかった。
そしてこの時に当って、また彼を助けて
より広い活動の地位に彼を引き出した者は、彼の指導者で善い友人であるスタウピッツであった。
これより6年前、サクセン撰侯は、彼の領内に在るヴィッテンベルヒ(
http://en.wikipedia.org/wiki/Wittenberg )において、新たに一つの大学(
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Wittenberg )を起した。
そしてその設立の相談に与り、その経営の任に当った者の一人は、このアウグスチン寺院の取締役で、ルーテルの無二の益友であるスタウピッツであった。彼は撰侯にルーテルを推薦し、エルフルトから彼を呼び寄せて、大学教授の任に当らせた。
神は人を召すのに人を以てされる。パウロをタルソの沈黙から呼び出して世界の伝道者にした者はバルナバである。またカルビンをバーゼル(
http://en.wikipedia.org/wiki/Basel )の隠遁から呼び出して、彼をゼネバ(
http://en.wikipedia.org/wiki/Geneva )に来させ、宗教改革の任に当らせた者は、ウィリアム・ファレル(
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Farel )である。
ゆえに言う、「ファレルはゼネバを改革に引き付け、またカルビンをゼネバに引き付けた」と。
そのように、ルーテルをエルフルトの寺院から引き出し、彼を欧州改造の原動力にした者は、実にこのスタウピッツであった。紹介者の任もまた何と大きいことか。彼スタウピッツは始めにルーテルを懐疑の暗黒から助け出し、今また寺院の埋没から彼を引き出した。
彼がいなければ、ルーテル
(宗教改革者としての…旅人)は無かったのである。彼は一生を旧教の僧侶として終ったであろう。しかし、スタウピッツは改革の産婆であった。彼によってルーテルは光明(ひかり)に出て、また世に出たのである。
1508年、ルーテルは25歳の時にエルフルトの寺院を去って、ヴィッテンベルヒに来て、その大学の教授となった。彼はフィロソフィーを教えることになっていた。
そしてフィロソフィーと言えば、今はこれを哲学と訳しているが、その当時のフィロソフィーは、哲学に止まらなかった。その当時、欧州には唯二つの学問があっただけである。その一つはテオロギーであって、他の一つはフィロソフィーであった。
テオロギーは神に関する知識であって、フィロソフィーは人に関する知識であった。前者をもし神学と訳すべきであるならば、後者は
人間学と訳すべき者であった。
そしてアウグスチン派の僧侶であるルーテルは、神学ではなくて、人間学を教えることになっていた。彼はアリストテレスの論理と物理を教えることになっていた。
神学に就いて、彼は知らないではなかった。しかし神学は彼の好むところではなかった。彼は生命を賭して心の平和を求めたが、しかし、自ら世のいわゆる宗教家になりたいとは思わなかった。
彼の父ハンス・ルーテルは、実務家であって、僧侶と神学者とは大嫌いであった。そしてマルチンもまたハンスに似て、信仰は求めたが、神学は斥けた。彼は神の福音を愛した。しかし神学者の神学は、心からこれを嫌った。
ゆえに彼は、神学よりも人間学を愛した。ギリシャ、ラテンの古典を愛した。殊にヴァージルを愛した。田園生活の美と快とを歌ったそのBucolics とGeorgics とは、彼の特愛の書であった。
聖書とヴァージル、キリストと花、この二者に対しては、彼は終生興味を失わなかった。ルーテルがルーテルであるゆえんを知りたいと思う者は、人間学の教授としての彼を知らなければならない。
しかしながら、大学の教授となっても、彼は寺院との関係を絶たなかった。彼は依然として元の僧侶であった。
そしてヴィッテンベルヒに来てから三年、またまたスタウピッツの周旋
(しゅうせん:とりもつ、世話)により、ある寺用を済ますために、彼はある他の一人の僧侶と共にローマに派遣された。
これは、彼の生活にとって、新紀元を画すべき出来事であった。彼等二人は徒歩でドイツからイタリアまで行った。各自わずかに10フローリンの旅費を懐にし、聖都を目指して出発した。
スイスに入り、アルプス山を越え、ポー河の平原を横切り、フローレンスを過ぎて終にローマの聖都に達した。彼等は北欧の蛮界を去って、南欧の楽土にその耳目を楽しませた。
そしてルーテルの眼に止まったものは、アルプス、アペニン両山の風景であった。またポー平原の農事であった。彼はその美しいブドウとオリーブとイチジクと柑橘(かんきつ)との果園を見て、心からこれを嘆美した。
しかし、フローレンスに入って、その有名な絵画と彫刻とを見ても、彼はこれには別に眼を留めなかった。彼は至る所で寺院の待遇を受けて、深くその内情を探った。風景と果園と信仰、彼が注意を払ったものは、これであった。美術はこれを問わず、政治には眼を留めなかった。
そしてローマの聖都が始めて彼の眼に入った時はどうであったであろうか。彼は両手を挙げ、遥かにこれに向って叫んで言った、「我れ汝を祝す、汝、聖なるローマよ」と。彼は、今は地上の天国に達したのである。
使徒ペテロとパウロとが、その殉教の血によって、教会の基礎を定めた所、キリストの代理者が、地上に教権を握る所、もし神聖を地上において見ることができるとすれば、ここを除いては他には有り得ないのである。
ルーテルとその同行者の足は、今やこの聖地を踏んだのである。はるばるツーリンギヤの田舎を去って、ここに「聖ペテロ」の大寺院に接した彼等の感想はどうであったであろうか。
しかし、ああしかし、事実はどうであったか。神聖は実にローマに有ったか。信仰はこの地において燃えていたか。
そうではない。そうではない。法王は信仰家であるよりは、むしろ美術品の鑑定者であった。監督はキリストの僕であるよりは、むしろこの世の政治家であった。その他の僧侶達に至っては、実に言語道断であった。信仰は、ただ名のみであった。
華侈
(かし=華奢:限度を超えたぜいたく)、豪奢
(ごうしゃ:非常なぜいたく)、淫猥、酔狂、これに加えて陥穽、誹謗、讒害、……ああ、これが聖(きよ)いローマであろうとは、僻地のルーテルにはどうしても思えなかった。しかし、これは夢ではない。事実である。ローマとは、真にそのような所である。
諺に言う、「若し地上に地獄ありとすれば、ローマは其上に建てらる」と。また「ローマに近づく丈けキリストに遠ざかる」と。ルーテルは、自らこの事を実見した。教会の本山が、彼のドイツの故郷よりも、遥かに悪い所であることを見た。
彼が命じられた寺用は、やすやすと片付いた。そして翌年の夏に彼は、ヴィッテンベルヒに帰った。
彼にとっては、この旅行は悲しい旅行であった。しかし、甚だ有益な旅行であった。教会の神聖に関する彼の夢は、この時に覚(さ)めた。この時から、教会は彼に取り恐ろしくなくなった。
彼は首尾よく彼の使命を果たして、ヴィッテンベルヒに帰った。そして彼の師父スタウピッツは、さらに彼のために昇進の途を講じた。彼はルーテルに、神学博士の学位を得て、彼に代って神学教授になるように勧めた。
しかしルーテルは、容易にこの勧誘に応じなかった。神学は、彼の好む学科ではなかった。彼はいつまでもギリシャ哲学の講座に拠って、教授の任を果たそうとした。
しかし、スタウピッツはその事を許さなかった。そしてルーテルが彼の勧誘に応じないのを見て取ると、彼は命令によって彼に迫った。そして長者の命令に服従することを規定の一条と定める寺院に在っては、ルーテルはこれを避けたいと思ってもできなかった。
彼は嫌々ながら、彼の恩師の命令に服した。そして神学研究に従事した。彼はその時まで、既に多くの神学書を読んでいた。そしてローマ滞在中、ユダヤ人に就いてヘブライ語を学び、ギリシャ人に就いてギリシャ語を学んだ。
ゆえに今は元のエルフルト寺院に退き、一年間の準備の後に博士号を授かれば、それで事は足りたのである。
後年彼は、この時における彼の心の煩悶に就いて語って言った、
如何なる善事と雖も、吾人自身の計画に由て来る者にあらず。吾人は必
要に迫られて止むを得ず之に取掛るなり。余は余の事業にまで追いやら
れしなり。余にして若し其時、今日あるを知りしならん乎、十頭の荒馬
を以てするも、余を之に引入るゝこと能(あた)はざりしならん
と。
このようにしてルーテルは長者の命令に強いられて、止むを得ずに、嫌々ながら神学研究に入ったのである。今日でこそ新教神学の始祖として仰がれるルーテルは、元々神学は大嫌いであったのである。
誠に自ら進んで神学者と成ろうと思った者の中に、未だかつて大神学者となった者はいない。モーセが民の教導を辞し、エレミヤが預言職を辞したように、ルーテルもまた神学者となることを辞した。
そして十頭の荒馬よりも
より強いある力に強いられて、止むを得ずこの研究に入って、彼はこの学の奥義に達することができたのである。
彼自身がこの学を称して、「神学は音楽の一種なり」と言うに至ったのは、彼が神学者となる前に、広く深く
神学の事実を彼の心の中に探ったからである。ルーテルは神学者ならざる神学者である。人世に害を為さずに益を為す神学者である。
彼は1512年の10月19日、29歳で神学のドクトルと成った。そして直ちにスタウピッツに代って、ウィッテンベルヒ大学の神学教授の職に就いた。
強いて神学を学ばせられた彼は、神学において新機軸を開いた。彼は聖書の講義を始めた。先ず詩篇を講じた。彼は、これを称して「聖書中の聖書である」と言った。次に彼はロマ書を講じた。そしてこれによって、彼の特愛の教義である信仰によって義とされることを述べた。
その次に彼はガラテヤ書を講じた。これは彼が後に「私自身の書簡」と呼んだ者である。彼の講義は、もちろん大学の学生のためであった。ところが、それが斬新で的を得ていたので、多くの老いた市民は、自ら聴講生となって、ルーテルの教場に出席した。
彼の名は、今やドイツ全国に響き渡った。そしてこの青年教授の聖書講義を聴きたいと思って、学生は全国からこの新設の大学に集って来た。
ザクセン撰侯は善い教授を得たことを喜んだ。そして彼を推薦したスタウピッツは、人に向ってルーテルに就いて誇った。これはおそらくルーテルにとって、一生涯で一番幸福な時であったろう。
そして教場の中に在ってかくも人望を博した彼は、終に市中に引き出されて、市民に福音を伝えざるを得なくなった。彼はそれで普通のドイツ人に接した。無学でしかも誠実な当時の彼の国人に接した。
そして彼の信仰は、市民にとってもまた解し易いものであった。彼は神学者である前にクリスチャンであった。彼は実験によって、罪の赦しとは何であるかを知った。ゆえに平易な言葉で、よく信仰の奥義を平民に伝えることができた。
こうして彼の人望は、大学の内から終(つい)にその外にまで広がった。彼は市民の説教者となった。彼はよく当時のドイツ国民の心を解した。ゆえに両者の心は互に相投合して、ここに新運動の機運は開かれた。
1506年、彼が信仰の戦闘(たたかい)に勝って、心に大きな平和を得てから、1517年、彼が免罪符のことについてローマ教会と戦闘を開かざるを得なくなるまでの10年間が、彼にとって最も幸福な時代であったろう。この時、彼は内には歓喜が満ち溢れ、外には争うべき敵がいなかった。
彼の学識は年と共に進み、彼の名声は隆々として揚がった。これは誠に彼にとって、聖書に言う、「
智慧も齢も弥増(いやまさ)り、神と人とに益々愛せられたり」(ルカ伝2章末節)という時代であった。
彼自身が、この当時の自分の状態に就いて言った、「余は熱くして福(さいわ)ひなる神の言(ことば)の鋳造所より新たに鋳出(いりいだ)されたる若きドクトルである」と。
しかし、そのような幸福な時代は、終に終結を告げざるを得なかった。彼は遠い彼方から、彼の静かな庵(いおり)に、大風が近づくのを聞いた。
ヨハン・テッツェルは、法王レオ第十世の命令の下に、無辜のドイツの信者の中に免罪符を売りつつあるではないか。もしこの狼が彼に託された羊の群れに近づいたならどうするか。彼は狼が来るのを見て、羊を棄てて逃げ去るべきではない。
善い牧羊者(ひつじかい)は、羊のために命(いのち)を捨てる。彼もまた彼の霊魂の牧者に倣(なら)い、彼の羊のために命を捨てるべきである。彼は自分のためではなく、自分に託された神の子供たちのために、止むを得ず戦闘の人となった。
私達はここに平和のルーテルに暇(いとま)を告げて、戦闘のルーテルと親しまなければならない。
(以上、明治44年3月10日)
(以下次回に続く)