全集第18巻P211〜
聖書研究の話
(4月10日長崎メソジスト教会において)
明治44年8月10日
私はこのたび、休養かたがた当地にある友人を訪れるために、始めてこの長崎にまいりました。かねていろいろと想像していましたが、来てみると、事々に私の感興を引くものが多くあります。
第一には、周囲の景色と草木とです。先ず到着した翌朝、友人の家から四方の山々を見ると、東京では未だ花ばかりですが、こちらではいずれの山も、各種の草木殊に樟樹(くすのき)が青々と新芽をふいているのは、誠に心地の良いものです。
これによって直ちに考え及ぶのは、この草木が伝える歴史です。かのオランダ人であり、スエーデン人でありドイツ人である
ケンペル (
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB )、
ツンベルグ (
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%84%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF )、
シーボルト (
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88 )等の人々によって採集され、研究され、日本の植物として最初に世界に紹介されたのは、この長崎付近の山野に生長する草木でした。
また市中に出て目につくのは、この地の魚類です。私は早くから、この研究が好きでしたが、我が日本の動物として初めて世界の学界に提出されたのは、実にこれらこの地の魚類でした。
シーボルト氏がこれを収集して欧州に送り、これを当時の碩学(せきがく)であった
テミンク (
http://en.wikipedia.org/wiki/Temminck )や
シレーゲル(
http://en.wikipedia.org/wiki/Hermann_Schlegel )等が研究して、「ファウナ・ジャポニカ」(Fauna Japonica)という日本の動物に関する最初の大著述が出版されたのです。
私共明治の初年に教育を受けた者は、先ずこれ等諸氏が研究した、長崎付近の動植物について学んだのです。今これらの草木や魚類に対面して、あたかも旧い先生、旧い友人に出会った思いがしました。
次にこの土地が私に深い感慨を与えるものは、宗教に関する事で、即ちこの地のキリスト教の歴史です。
ある西洋人が、長崎を日本の金門(ゴールデンゲート)と呼びましたが、私も「城の古趾(こし)」に登り、西の方港口を望んで、最初の西洋の文物が、みなあの二つの岬の間から日本に入ってきたことを思い、これが我国の金門(ゴールデンゲート)であったと感じました。
今日も雨の中を浦上まで行って、山の上に立っている十字架を望んで、最初にこの国にこの教えを伝えた人と、これを受けた人々とを追懐して、思わず帽子を取って、敬意を表してきました。
このように、この土地については、多くの感が湧いてきますが、私が年来その研究に従事している聖書もまた、この金門を経て、初めてこの国に入ったことを思い、これを今晩の題目として、少しばかりその研究について語りたいと思います。
聖書の研究についてお話しする前に、信者の方は既によく御承知の事ですが、先ず聖書が何物であるかについて述べましょう。
聖書はキリスト信者が経典として、無上の価値を置くものであって、それがどのようなものであるかは、一読しなければ分かりませんが、しかし未だ読まない人にでも
どのような価値があるものかは、これを知ることができると思います。
先ず第一に、この世において何が最も貴いかと言えば、
それは書物であるということは、誰もが承認するところであると思います。
あるいは当地で製造される、かの壮大な汽船であるとか、軍艦であるとか、あるいは陸上において便利を私達に供している汽車、およびこれ等を動かす蒸気力、電気力などの事を見て、この世において最も大切なものは、書物ではなくて他にあると思う人がいるかも知れません。
しかし、若し人間が人間である以上は、その最も貴いとするところは、書物でなければなりません。カーライルが彼の「英雄崇拝論」で、英国にとって最も大切なものは、シェークスピアの戯曲(ドラマ)であると言っています。
英国は、インド帝国を失っても、シェークスピア全集を失ってはならない、なぜなら、インド全国を失っても英国は滅びることはないが、シェークスピアなしには、今日の英国は存立することはできないと言っています。
実にそうです。今日世界の五分の一ないし四分の一を占めるに至った英民族を教育して今日あらしめたものは、実にシェークスピアの戯曲であることは、誰も疑わないとことです。
人間に貴いものがあるとすれば、それはその思想です。その思想を結晶して、わずか二つの表紙の間に納めた書物こそは、実に人が有(も)ち得る最も貴いものと言わざるを得ません。
さて、書物が最も貴いものであるとして、それではこの世界にある多くの書物の中で、どの書物が最も貴いものであるか、この問題について、世界の世論は疑いもなく一つの本に一致しているのです。
昨年でしたか、一昨年でしたか、東京の時事新報社が、広く世界の名士に書を寄せて、各々が読んだ書物の中で、最も価値があったと思い、有益だと信じるものを三十種挙げてくれとのことで、私の所にもそれが来ました。
その調査の結果を統計に作ったものを見ると、日本の読書家が最も大切だと認めるものは、第一に論語でした。これは如何にもそうであろうと思います。その第二、第三が何であったか忘れましたが、第四番目か第五番目にダーウィンの進化論がありました。
そして第七番目が
新約聖書でした。これは注目すべき事です。キリスト教国でない我国において、しかもキリスト教が我が上流社会において、甚だ歓迎されていないことを思い、殊に時事新報という新聞が、最も物質主義の新聞として知られている事を思うと、
この新聞がその読者のために行った調査において、
聖書が書物の第七位に置かれたという事は、著しい事と言わなければなりません。
以上は時事新報読者の世論であるとして、さてこれを日本社会全体に問うたならばどうでしょうか。あるいはもう少し上の方に聖書を置くかも知れません。
それならば、
世界の与論はどうでしょうか。同じ事を英国の社会に問うたならばどうでしょうか。あるいはフランスやドイツの社会に問うたならばどうでしょうか。
先ごろ英国のルートレッジ出版会社は、今や世に多くの本があって、読者は往々にしてその選択に迷うので、何とかして人類として最善の知識を得るべく、読者が標準となすべき書籍百部を選びたいという計画を立てて、その書物の選択を、英国第一流の学者に請うことになりました。
そしてこの選に当った人は、サー・ジョン・ラボック氏(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%AF )でした。
氏は銀行員であって、博物学者であり、最も常識に富んだ人と言われ、また国会議員としても盛名ある人です。そして注目すべきは、この人が宗教に対しては、むしろ冷淡な人であることです。
さて、このラボック氏がルートレッジ会社の為に選んだ百冊の本の第一番に何を置いたかと言うと、博物学者の事ですから、ダーウィンの種の原種論でもあげるかと思ったのですが、この宗教に冷淡な博物学者である銀行家は、論もなく聖書(バイブル)と記さざるを得ませんでした。
その他百冊の中には、論語もあり、孟子もあり、ダーウィンの原種論もダンテの神曲もシェークスピアの戯曲の二三もあったと記憶しています。
しかし、ラボック氏に限りません。西洋諸国において、思考(かんがえ)のある人に尋ねれば、誰もが
第一に聖書を置くのは、動かすことのできない事実です。しかしながら、第二以下になると、人々によって千差万別です。これを見ても、欧米において聖書がどのような価値を置かれているかを知ることができます。
現今世界において出版される書籍の数は実に多く、数年前の統計によって見ると、一年間に約二万の新刊書があるとのことです。
グラッドストン氏は最も多く本を読んだ人として知られていますが、氏の死後、氏が目を通して
しるしを付けた本を調べたら、約二万部あったとの事です。
そうしてみると、グラッドストン氏の大頭脳と大精力を以てしても、一生涯に、世界においてわずかに一カ年に出版する本にようやく目を通すことができるだけです。
グラッドストン氏でさえそうですから、私共においては、たとえ生涯に他の仕事を何もせず、ひたすら読書だけに耽(ふけ)ったところで、一生の間に読破できる冊数は、世界に存する書籍の多さに比べれば、誠に微少なものと言わざるを得ません。
それですから私共は、少数の良い書籍を選択して、これを読むことで満足しなければなりません。
それでは我が本(マイブック)として何を選ぶべきか、もしくは生涯「一書の人」としてただ一冊の本を選んで読むとしたら、どの本を取るべきでしょうか。
世界の世論が書籍中の第一位に置く、この聖書を選ぶのは、自然の順序と言わざるを得ません。
聖書を知るという事は、単に信仰を養うという事の他に、
世界の知識に接するという上からも、私達はぜひこれを研究しなければならないのです。
こう言うと、それは外国ではそうであろうが、日本ではそうはいかないと言う人がいるかも知れませんが、しかしながら事実は、今日の日本において、聖書が論語よりも、孟子よりも多数発行され、読まれている事を示します。
横浜の聖書出版会社では、大きな印刷機を並べて、大小各種の聖書を印刷していますが、刷(す)っても刷ってもなお足りません。年中この同じ本を印刷しています。
私は他に、年々ただ一種の本だけを印刷している印刷所がある事を知りません。どこに年中論語だけを、または経文だけを印刷している大印刷所があるでしょうか。この一事によってだけでも、聖書が我国において多く広まりつつあり、読まれつつあることを知ることができます。
そう言うと、ある人は、それは人が聖書を買って読むのではなくて、宣教師が無料でくれてやるから、そのように多数印刷されるのである、施本(せほん)に用いられるからであると言います。
しかしながら、事実はそうではありません。現に私は、宣教師から聖書をもらいません。私の同志の人もそうです。また私は人に聖書をやりません。それは、人は金を出して買った本は読みますが、ただでもらった本は、決して読まないことを知っているからです。
私も、私が非常に親しくしている友人で、またこの本を愛する人も、彼の大切な機会、例えば結婚の祝いなどで、時にこれを贈ることはしますが、みだりに他人に、これを施与したことはありません。
またもう一つの話は、先日東京で聖書改訳事業が企てられた時に、私もこれに携わっていましたが、これを聞いて、その出版の権利を得たいと言って、東京はもとより、大阪神戸あたりの本屋までが、先を争って申し込んできて、数千円の出資の約束は直ちに成ったのです。
殊に奇妙な事には、彼等はその出版権を子々孫々に伝えるようにしたいと言って来たことです。
商人である彼等が改訳聖書の出版に着目するのは、聖書が日本においてもよく売れる本であり、また永久に廃(すた)らない本であることを、よく知っているからであって、これもまた、現今の日本でも聖書が多く読まれている大きな証拠です。
即ち聖書は、今日我国で日々第一の本となりつつあるのです。前に申上げた時事新報の投票では、第七位にあった聖書が、今後五十年経たぬ間に、必ず日本人の読む書籍の第一位に置かれるようになると想像するのは、甚だしく当を失した言葉ではないと思います。
ところが、世にはこの聖書を嘲る者が常にあるのです。七八年前、中江兆民先生が、生前の遺稿として「一年有半」ならびに「続一年有半」を著して、無神無霊魂論を唱えた時には、天下の人は、草木が風になびくように、これに赴(おもむ)くという風で、発行部数は約七万に上りました。
当時、そのように多く売れた本はなかったそうです。何でも二年間ぐらいは、版を重ねて売れたそうですが、ところがこの本はその後すっかり影を隠してしまって、今日ではもはやどこの本屋に尋ねても、これを求めることはできず、却って場末の古本屋あたりで、安く手に入れることができるという風です。
また先ごろ不幸な死を遂げた幸徳秋水氏の「基督抹殺論」というものが、同氏の死後にその記念として出版され、私もかつて同氏と萬朝報社で机を並べていた縁故によって、その一部を贈られました。
これも甚だしく聖書を謗り、嘲り、これをその根底から覆そうと試みたものです。私はこの本を一見した時に考えました。この本もまた一二年しないうちに滅び、そして聖書は相変わらずますます盛んに行われるであろうと。
このように聖書を倒そうと試みたものは、古来多くありました。しかしその終りはみな同様であって、聖書は常に活きているのです。この事によっても、聖書の価値が何であるかは、ほぼ明らかであると思います。
既に申したように、
人類が持つもので、最も貴いものが書籍であって、そして書籍の中で最も貴いものが聖書であるとすれば、聖書は世界中のすべてに優って貴いものと言わなければなりません。
このように古往今来(こおうこんらい)世界の世論が貴い価値を置く聖書ですから、聖書は私共思想を有する人間として先ず探るべき本です。
ダンテやイプセンやニーチェの書を研究するために、それらが書かれたイタリア語やスカンジナビヤ語やドイツ語など困難な言語を学ぶ人も少なくないのですから、私共はこの聖書の研究のためには、一生の精力を費やしてもなお足らないことを覚えます。
殊にキリスト信者として立つ者にとっては、その研究が必要なことは、全く当然の事と言うべきです。
それではこの大切な聖書の研究は容易なものであるかと言えば、決してそうではありません。それが書かれたのは、二十世紀の日本人である私達のためではありません。
近くても千八百年前に、アジアの西端パレスチナ、もしくはその付近において、私達とは性質、思想、境遇を異にしている、当時のユダヤ民族、ギリシャ民族、もしくはローマ人のために、その国語で書かれたものです。
我国の古事記は千三百年前に書かれたものであるということであり、万葉集もこれに比して古いものではありませんが、この両者が今日の私達にとって難解な書であることを思えば、私達との関係がさらに遠い人によって書かれたこの聖書を解して、その真意を汲むことが容易でないことは、ほぼ推察できます。
これを学ぶには、先ずこれを書いた人と、これを与えられた読者の周囲とその内部の状態を明らかにし、その思想と言語とを究めて、それが果して何を伝えるものであるかを静かに考え、冷やかに判断しなければなりません。
即ち一言で言えば、
私達は先ず、学者の態度を以て、これに臨まなければなりません。
信者の間には、聖書は神の御言葉であるから、誰にでも直ちに分かるものであると考える人々もいます。その熱心は信じるべきですが、しかしこれは誤った考えであると言わなければなりません。
もともと宗教は、人の情に訴える力が強いものであり、宗教家という者は、至って執拗(しつよう)な者なので、聖書を読むのに、この学者の態度を取ることが困難であって、とかくある既定の思想によってこれに臨み、知らず知らずのうちに、ある一定の結論に持って行こうとするのです。
例えば聖書は神の言葉であるという意義を高調して、遂にその一字一句が誤謬の無いものであると唱えるのも、その一つです。
それで甲がある説を唱えると、乙もまた自分の見方で聖書を解し、丙はまた自分の教会の主張に忠実になろうとして、異なる解釈をするというような状態で、その結果一つの聖書が種々の意義を以て読まれるようになるのです。
それで私共聖書の真意を学ぼうとする者は、宗派の教義や既定の思想を去って、学者の態度を以て、先ず聖書それ自身は何を教えるか、パウロやヨハネやペテロはその中で何を説いたかを研究すべきであり、それが果して真理であるかどうか、私達はこれを信じるべきかどうかは、その後に考えなければなりません。
そのように研究すると、聖書はこれまでの読み方で読んだものに比して、全く新しい本となって私共の前に現れ、私共は多くの新しい真理をここから学ぶだけでなく、今までのように多くの説の間に存する差異が、甚だ少なくなって来るのです。
例えば近頃しばしば講壇の上から唱えられるところを聞くと、あるいは文明の宗教は、この世を離れて霊魂とか天国とかだけを説くべきものではなく、キリスト教は実にこの現世を救い、世道人心を正しくし、大いに社会の改良を行うためにこの世に送られたものであるというような事を承るのです。
この説は、はなはだもっともと、耳を傾けるべき説であって、あるいは真理であるかも知りませんが、しかしながら聖書は、この事について何を教えるかは、また別の問題です。あるいはその正反対が、使徒等の語るところであるかも知れません。
私が研究したところでは、聖書はすべての価値を現世に置かずに天国に置くものである。この世を改良する事を説かずに、反対にキリストが再び来られるまで、この世は聖化されるものではない。彼を信じる者は、この罪の世にあって、その時に至るまでキリストの証人として立つ者であると告げています。
この意味で聖書を読むと、その多くの点が明白になってきます。ところがこれを現世的、倫理的に解しようとして聖書を読むと、その内に不用なもの、むしろ障害となるものが多くあるのです。
五つのパンで五千人を養った事や、または復活、昇天、再臨、そんな事はみな無用であって、これをその当時の思想として、何とか説明し去らなければなりません。
今日新神学なるものが世に現れたのも、この聖書の内の奇跡的分子を除いて、倫理的分子だけを残して、それによってキリスト教を現世に通用するものにしようというのが、その動機の一つです。
ところが聖書そのものについて果してそうであるかどうかを研究すると、それが何を教えるものであるかが分かるのです。
例えば、かの山上の垂訓と知られているものは、第一に「心の貧しきものは福(さいわい)なり」と言い、また「義(ただ)しき事の為に責めらるゝものは福なり」と言っています。
これだけならば、世の道徳と甚だ異なる所はなく、したがってこれについて誰も申し分はありません。ただ、これ等の語句の次に、付け句があります。
即ち、「心の貧しきものは福なり。
何となれば神の国は其人のものなればなり」、「義(ただ)しき事の為に責めらるゝものは福なり。
何となれば神の国は即其人のものなればなり」、
この第二句の
神の国は云々、これが聖書の特徴であって、即ちキリスト教が、その道徳の基礎の置き所をこの世以外に移しているという事を示すものです。
また黙示録によると、「われ必らず速(すみや)かに至らむ」と言い、「アーメン、主イエスよ、来り給へ」とあるキリスト再臨の思想など、これまた聖書が大胆に唱えるところです。
これ等の来世的観念が善いものか悪いものかは別として、とにかく聖書を一貫しているものは、これ等の
他界的観念なのです。
そしてこの事は、実に西洋諸国における不信者である聖書学者もまた、これを唱えており、彼等は、聖書が主として説くところは来世の事であって、この世の改良などは、第二位第三位に置いているということを立証しているのです。
次に
肉体の復活という事があります。これもまた邪魔物であって、往々にして人々が何とかして説明し去ろうと試みるものです。ところが、この不公平で、苦痛があまりにも多い人世に在って、この復活の思想ほど、私共に真正の深い慰安を与えるものはありません。
私共がこれを除こうとするのは、聖書の最も重要な柱石の一つを除こうとすることなのです。新約聖書の三分の二を占めるパウロの書簡は、彼がダマスコ途上で復活したキリストに出会ったという事実を基礎観念としています。これを取り去れば、彼のキリスト論は崩れてしまうのです。
復活が真理であるかまたは誤謬であるかは別問題として、ただ一つ明瞭な事は、この事を前提にしなければ、聖書を解することができないという事です。
これは、今日の私達には、あるいは無用であるかも知れないとしても、聖書記者がこの事に大きな重点を置いた一事は、誰も拒むことはできないところであって、私達は先ず身をその著者の立場に置いて、これを読む必要があります。
そうして著者の真意が分かったならば、それが果して真理であるか、またそれが教えている事が、実に今日の私共が要求しているものであるかどうかという事は、私達の実験に照らして悟るべきです。私共は往々にして無用であると思うもののうちに、非常に貴いものが存する事を発見するものです。
来世観のない宗教が、私共を慰めることができるでしょうか。またその宗教が、力あるものであるでしょうか。
キリスト教の来世観は、聖書記者だけが高調して語る事であるだけでなく、現今の社会思想がまた、この来世観と密接な関係を保つということについて、一つの面白い話があります。
米国ニューヨーク市の株式取引所に長年理事を勤めた老人某が次のように申しました。
取引所は昔も今も変らないが、変ったのは之に出入りする人である。往
年人の心に尚(なお)来世の観念が強かった時分には、人の信用が盛んであ
ったなれども、今や此の観念が薄らぐと共に、信用が減じて取引が不確
(ふたしか)なものとなりつゝある。
この話は、今日欧米の社会思想が来世観の欠乏のために、その根底を危くされつつあることを説明するものです。元来倫理思想の動機は、誤りのない正義の裁判を受けるという自覚から発するものであって、未来の観念を取り除けば、強い道徳の根本は失せるのです。
今日の我国においては、「未だ生を識(し)らず焉(いずくん)ぞ死を識らむや」で、未来の観念は至って軽視されているのですが、未来のない道徳が、果して国民を救うことができるかどうか、この問題に対して歴史が教えるところは明白です。
英米の歴史から清教徒(ピューリタン)を取り去ってしまえば、私共はその最良の部分を取り去るのです。今日の商業道徳が最も高いとして知られている英国を生んだものは、実にかの清教徒でした。そしてかの清教徒なるものは、私達が明日あることを信じるように、来世があることを信じていました。
これがあったからこそ、かのクロムウェルやミルトンが行(おこな)ったような、深刻な社会運動、根本的な革命が起り得るのであって、この来世観なしには、世界をその根本から動かす力は、決して来ないのです。
このようにして、聖書が深く未来について語る理由を解することができ、またこの事を教えている事が、聖書が聖書であるゆえんであることを知るのです。
なおまた
復活の事について充分に述べる時間がありませんが、これを信者の自覚に訴えてみて、彼が真の力ある慰藉を要求する時に、これに応じるものは、この復活の信仰であることが分かります。
「神は愛なり」と言っても、この復活の信仰なしには、真の希望は生れません。私は復活を科学的に説明することはできませんが、私が大きな苦痛に際会する時に、私を慰め私に希望を供するものは、この復活の信仰です。
このように聖書が教えることは、あるいは来世といい、あるいは復活といい、一見私達の理性に逆らうようですが、これに最も貴重な真理があるのを見ると、聖書記者が語っていることは、実に私達が最も切に要求するものであることを知ることができます。
ゆえに私達は、先ず学者の態度を以て公平に聖書を読み、それが何を教えているのかを解して、そして時に至ってそれが与える慰藉、希望およびその潔(きよ)めの働きが私達のものとされることを待つべきです。
聖書は真理の大宝庫であって、私共は一時にこれを取り出すことはできませんが、次第次第に必要に応じてこれを受けるべきです。
また教会などがいろいろに別れていても、この聖書の思想を知ろうとする一事においては、彼等はみな一致することができると信じているので、この長崎の地においても、各教会の教師方が主唱されて、
聖書クラブというような者を起されて、この聖書の研究がこの地にも起ることを希望するのです。
私は今まで十一年間、「聖書之研究」という雑誌の発行に従事しています。その目的は他ではなく、学者として聖書を研究することにあります。ところがその結果、聖書の真理を学ぶ他に、むしろ意外なものを私は与へられました。
私はどの教会にも属していませんが、この研究のためにどの教会にも友人を有するようになりました。私の教友は、メソジスト教会にも、聖公会にも、また天主教会、その他の教会にもいます。
ニコライ氏が主宰している正教会の教師の一人が言ったことですが、ある時東京にその教会の役者(えきしゃ)の会合が開かれ、各地から集まった人が大きな宿舎に落ち合って、各々その行李(こうり)を解いた時に、
あっちでもこっちでも私が出している「聖書之研究」雑誌が出てきて、その数十人のうちの多数が、その読者であったことを発見して、互に驚いたということです。
またキリスト信者以外の人でも、聖書の研究であるならば、これを共にしようと言う人々がいます。この長崎県下のある真宗の御寺の住職は、私の雑誌の初号以来の愛読者です。
また東京の浄土宗のある有名な僧侶で、私の事業に賛成する人がいますが、かつて若干の金を持って、私の許に来られて、これを私の事業のために使用してくれとのことでした。
仏教の和尚さんから寄付金を受けたキリスト教の教師は、あるいは私一人かも知りません。
この人がある時私にこう申されました。この間自分が静岡に用事があって行く汽車の中で先生の本を読んだが、誠に自分が仏教で言おうとして言うことができないところを言ってくれて、甚だ愉快であった。
しかし、あまり興に入って読み耽ったために、つい自分が降りるべき駅を通り越して、大いに困ったとの事でした。
その他また、小学校長で、その筋から教育上の功労が大だとして賞誉を得た人にも、私と同意見で聖書を研究している人がいます。
そのような次第で、聖書の研究という事となると、その立場を異にした多くの人々と事を共にすることができ、かつまたその内に、良い朋友を見出すことができたのです。
今やキリスト教各派の合同なるものが企てられていますが、この聖書を研究するという事になると、常にキリスト教各派だけでなく、私共は仏教とも、儒教ともいっしょになれるのです。私は考えます。
人を最も深い所でつなぐものは聖書であると。
そのようなわけで、私は諸君が、伝道の方法としてでなく、単に研究を目的としてこの研究に力を尽されることを御勧めします。
実に聖書の研究は、善い実を結びます。これによって私共は、最良の兄弟姉妹を得られます。私自身は、これまで従事した多くの事業の中で、これが最も多く私に満足を与えました。
私は明日この地を去って帰宅しますが、途中主な停車場のある所では、たいてい真実を以て私を歓迎してくれる友人があって、私は東京までの旅行も、あたかも我が家の内を行く思いがします。そしてこれはみな、この研究が私に与えた賜物です。
完