全集第19巻P76〜
「広さと深さ」他1編
明治45年4月10日
1.広さと深さ
人は広くなければならない。同時にまた深くなければならない。広くて深くあって、彼は完全の人であるのである。
そして広くあるとは、同情において広くあることである。そして深くあるとは、確信において深くあることである。同情において広く、確信において深くあって彼は完全に近いキリスト者(クリスチャン)であるのである。
同情において広いので、彼は善を何人においても、また何主義においても、また何宗教においても認める。たとえ佞奸(ねいかん)の悪人であっても、彼に在る善は、善としてこれを認める。たとえその人が我が身の転覆を計る敵であっても、彼に在る善は善として喜んでこれを認める。
そしてまた、主義においてもそうである。宗教においてもそうである。如何なる主義、如何なる宗教においても、善は善として正直に、かつ公平にこれを認める。彼は特に自分の主義を愛するのではない。善を愛するのである。
自分の宗教に忠なのではない。善に忠なのである。ゆえに彼は、善の存在する範囲においては、人類だけ、それだけ広くある。宇宙だけ、それだけ広くある。
しかし私達は、私達の広さによって、私達の深さを没せられてはならない。私達は深く固く、私達の確信を維持しなければならない。私達は私達の確信を、人のために譲ってはならない。私達は私達の確信の堅い城砦(とりで)に拠って、広く人類を愛さなくてはならない。
確信の無い者は、底の無い水と同然である。これは広いばかりであって、堅い所の無い者である。ゆえに風と共に漂(ただよ)い、世と共に流れざるを得ない。自己に何も拠る所の無い者は、世の潮流にもてあそばれる浮草である。
そして私達の救主であるイエスは、そのような人であった。彼は広くて同時にまた深くあった。
彼はパリサイの人でも、その主義のためにその人をお捨てにならなかった。彼はユダヤ人の宰(つかさ)でパリサイのニコデモを愛された。
また彼を詰(なじ)ろうとする学者であっても、その人が少しでも真理を解するならば、「
汝は神の国より遠からず」(マルコ伝12章32節以下)と言われて、彼に在っても真理は真理としてこれをお認めになった。
彼の勧めの言葉を受け入れることができない薄志弱行の青年であっても、その志は深くこれを愛された(マルコ伝10章21節)。
パリサイの人を攻撃して止まなかったイエスは、喜んでその一人の客となられた(ルカ伝11章37節)。
イエスは人を、人として憎まれず、その罪を憎まれた。主義をその主義として嫌われず、その中に在る不義を嫌われた。
パリサイの人でも、サドカイの人でも、はたまたヘロデ党の人でも、イエスの前に立てば、その善は必ず認められざるを得なかった。イエスは特に
善の承認者であった。彼は、彼を敵に売ったイスカリオテのユダにおいてさえ、その善は必ず、喜んでこれをお認めになったに相違ない。
しかし、イエスが同情だけの人ではなかったことは、私がここに言うまでも無い。イエスは広い同情の人であったと同時に、また深い確信の人であった。「
エホバの家のための熱心、其身を蝕(くら)ふ」(ヨハネ伝2章17節)とは、実に彼のことを言ったのである。
神のためであれば、彼を縛るに足りる情実は無かった。ピラトが公庁において、「
汝はユダヤ人の王なるや」と問うと、彼は憚らずに答えて言われた。「
汝の言ふ所の如し」と(ヨハネ伝18章33節以下)。
実にイエスほど自信の強い人は世に無かった。イエスは自己の確信を守るために、その身を亡ぼされたのである。
私達が広く在るべきことについて、使徒パウロは教えて言う。「
兄弟よ、凡(およ)そ真(まこと)なる事、凡そ敬(うやま)ふべき事、凡そ義(ただ)しき事、凡そ潔(いさぎよ)き事、凡そ愛すべき事、凡そ善き聞えある事、すべて如何なる徳、如何なる誉(ほまれ)にても汝等之を念(おも)ふべし」(ピリピ書4章8節以下)と。
即ち真と善と美とは、如何なる人によって唱えられ、如何なる主義によって代表され、如何なる宗教によって伝えられても、これを敬い、これを尊ぶべしということである。
それと同時にまた彼パウロは、キリスト者たる者は、福音の真理の上に堅く立って、動いてはならないことを教えて言った。「
我等にもせよ天よりの使者にもせよ、若し我等が曾て汝等に伝へし所に逆らふ福音を汝等に伝ふる者あらば、其人は詛はるべし」(ガラテヤ書1章8節)と。
即ちキリストの福音は絶対的真理であるから、これは生命を賭して守るべき者であるとのことである。
このように、イエスもパウロも広くて深い人、深くて広い人であった。広さを欠いては、深い者は狭くなる。また深さを欠いては、広い者は浅くなる。同情だけの人は、浅い人である。確信だけの人は、狭い人である。それだから私達は同情と確信とを併せて有(も)たなければならないのである。
これは容易な事ではない。しかし、イエスを信じて彼のように成ることができる。キリスト者(クリスチャン)は広くて深い、真正の紳士である。
世の立場から見ると、彼はある時は浅く見え、またある時は狭く見える。しかし、彼は浅くあるのではない。また狭くあるのでもない。彼は神の性を受けて、広くて深い
立体的小宇宙と成ることができた者である。
2.祝すべき死
この世の人の立場から見て、死は単に凶事である。不幸中の最大不幸、凶事中の最大凶事である。この世の人の立場から見て、死に吉(よ)いことは一つも無い。死は恐怖の王である。
しかもこの死が、万事の終極(おわり)であると言うのである。「
一たび死(しぬ)る事と死(しに)て後に審判(さばき)を受くる事とは人に定まれる事なり」(ヘブル書9章27節)とある。
ゆえに人は、「
死を怖れて生涯繋(つな)がるゝ」(ヘブル書2章15節)のである。死を万事の終局と見るこの世が、真黒な棺衣(かんい)で覆われている観があるのは、決して無理からぬ事である。
しかし、キリスト者の立場から見て、死は単に凶事ではない。これに多くの吉事が伴っている。そして実に、深く死が何であるかを究めれば、それが人生最大の吉事であることを覚るのである。キリスト者とこの世の人とは、死に関する両者の観念によって、判然と区別されるのである。
キリスト者にとっても、死はもちろん苦痛の極である。彼にしてももちろん、死を喜ぶことはできない。死を恐れ、これを避けようとするのは、人の天然性である。キリスト者にしても、もちろん自ら選んで死のうとはしない。
しかし、神から死を命じられれば、彼は感謝してこれを受けるのである。彼にとっては、死は苦痛の極であると同時に、また真の自由に入る門であるからである。
死は、苦痛の終りである。罪の巣窟(そうくつ)である肉体が絶えて、その結果である苦痛は、絶対に絶えるのである。
人の苦痛は、単に肉体の苦痛に止まらない。血縁の苦痛がある。社交の苦痛がある。心霊の苦痛がある。しかし、これ等はみな、肉体があるので起こる苦痛である。
この世の
義務なる者は、すべて肉体に関する義務である。兵役の義務、納税の義務、扶養の義務、労役の義務、これ等はみな、肉体によってこの土につながれることから生じる義務である。そして肉体が消えて後に、これに伴う義務は消滅する。
私は義務を厭いはしないが、しかし、これに多くの苦痛が伴うのは、否定できない事実である。そして私の能力(ちから)は、私の責任に耐えられずに、私はしばしば歎くのである。
私はしばしば、ヨブと共に叫んで言うのである。
如何なれば艱難(なやみ)に居る者に光を賜ひ、
心苦しむ者に生命(いのち)を賜ふや、
斯(か)かる者は死を望むなれども来らず、
之を索(もと)むること蔵(かく)れたる宝を掘るよりも甚だし、
若し墳墓を尋ねて獲ば、
彼は大に喜ぶなり、然り、躍り歓ぶなり、 (ヨブ記3章20節以下)
と。
人生は快楽であると言う者は、未だ人生を知らない者である。人生を真面目に送ろうと思う者であれば、その大きな悲痛を感じない者はない。そして死は人生の終りであって、同時にまた苦痛の終息であるのを知って、それが決して凶事ではないことを知るのである。
肉体は一種の牢獄である。その中に宿るのは、一種の禁固である。霊は軽い者であって、自由な者であるのに対して、肉は重い者であって、不自由な者である。この軽快な者が、この重苦しい者の中に宿る、ここに大きな束縛があるのである。
パウロのいわゆる、「
我れ願ふ所の善は之を行はず、反(かえ)りて願はざる所の悪は之を行へり」という苦悶の言葉は、自由の霊が束縛の肉に宿るゆえに発する言葉である。この霊肉の不釣り合いな結合があるので、人はすべて「困苦(なや)める人」であるのである。
そしてこの困苦(こんく)を感じる時に、誰でも、「
此死の体(からだ)より我を救はん者は誰ぞや」(ロマ書7章15節以下)との叫びの声が出るのである。
そして死によって、霊は肉の束縛から脱することができ、その禁固を解かれるのである。
肉に宿る間は、人に完全な自由は無い。如何なる憲法の保障を以てしても、彼に完全な自由を供することはできない。束縛は、肉があってのゆえの束縛である。肉を離れるまでは、霊に完全な自由はないのである。
ゆえに言う。「生は桎梏(しっこく)であって、死は解脱(げだつ)である」と。死は最大の解放者である。肉の奴隷は、彼によって始めて自由の天地に出るのである。ゆえに本当の自由を愛する者は、ワシントン、マッチニ、リンカーン等を迎える心を以て、死を歓迎するのである。
このようにして、死は死ではない。新生である。
死を以て新生命は始まるのである。肉に在っては、障害のない霊的生命なるものはない。
「
肉は霊に逆らひ、霊は肉に逆らふ。この二つのもの互に相敵(もと)る」(ガラテヤ書5章17節)と言う。霊が完全に霊的になろうと思うなら、その敵である肉の消滅を期せざるを得ない。
そして死は、霊の障害を除いて、ここにその自由の発達を遂げさせるのである。肉を離れて霊は自ずから成長し、その活動を盛んにする。霊は肉に宿っていれば、一人の霊である。しかし、肉を離れれば、多くの霊と共になることができる。
「
我れ若し地より挙げられなば万民を引きて我に就(きた)らせん」(ヨハネ伝12章32節)とイエスが言われたのは、この事である。イエスでさえ肉を離れて地から挙げられるまでは、万民を引いて自己に化することができなかったのである。
彼はまた言われた。「
我が往くは汝等の益なり。若し往かずば、慰藉者(なぐさむるもの)汝等に来らじ。若し往かば彼を汝等に遣(おく)らん」(ヨハネ伝16章7節)と。
この場合において、慰藉者とは、イエス御自身である。彼が往かなければ、即ち死ななければ、自ら慰藉者となって、弟子の霊に臨むことはできないとのことである。
ゆえに彼はまた言われた。「
誠に実に汝等に告げん。一粒の麦若し地に落ちて死なずば唯一つにて存(のこ)らん。然れども若し死なば、多くの実を結ぶべし」(ヨハネ伝12章24節)と。
肉の死は、霊の繁殖のために必要である。霊的事業なる者は、これに従事する者の死を以て始まる者である。ペンテコステの聖霊の降臨は、イエスの在世中には無かった。
イエスは孔子や釈迦のように、七十の長寿を保って、その事業を遂げられたのではない。彼は三十歳の盛りにその生命を捨て、その霊を以て世に臨み、これを自己に化されたのである。
そしてイエスに限らない。すべて永久に深く世を化した人は、死を以て化したのである。
殉教者の死によって起こらない教会は、すべて偽りの教会である。教師の雄弁は、キリストの教会を興すに足りない。
信仰を以て死んだ者が続々と教会の中に起り、その霊を以てその信徒の霊に宿り、彼等の事業を助けるに至るまでは、尊敬すべき、信頼すべきキリストの教会は起こらない。
牧師の人物によって立つ教会、策士の策略によって栄える教会、儀式の荘厳を誇る教会、これ等は皆、砂の上に立つ教会である。
真の教会は、信者の殉教の死によって立つ教会である。そのような教会こそ、陰府の門といえども、これに勝つことのできない教会である。
キリストの教会は、元来彼の十字架上の死を以て起った者である。ゆえに死の苦痛を以てするのでなければ、持続することのできない者である。
教会は、この世の政府とは異なり、肉を有(も)った者が組織する団体ではない。いわゆる聖徒の交際(まじわり)とは、聖(きよ)められた霊の交際である。ゆえに、
教会の本部は、霊の国である天国に在る。肉の国であるこの世には無い。
教会とは、元々眼に見えない者である。霊なるキリストがこれをつかさどり、彼に在って生きる霊が、その正会員なのである。私にしても、その教会の存在を否定しない。私の無教会論なる者は、その教会に対して唱えられるものではない。
「
シオンの山、又活ける神の城なるエルサレム、又千万の衆、即ち天使のあつまり、天に録(しる)されたる長子等の教会、又すべての人を裁く神、及び完成(まっとう)せられたる義人の霊魂(たましい)」(ヘブル書12章22、23節)と。
キリストの教会とは、そのような者である。そして私達は、死んで肉を離れて、この教会に入ることができるのである。そして天に在るこの教会に入ることを許されて、今なお地上で肉に宿っている兄弟姉妹を助けることができるのである。
このようなわけで、死は損失ではない。利益である。自分のために利益である。他人のために利益である。実に「我が往くは、汝等のために益あり」である。
死は犠牲である。同時にまた贖罪である。誰でも己れ一人のために生き、また己れ一人のために死ぬ者はない。人は死んで幾分か世の罪を贖い、その犠牲となって、神の祭壇の上に献げられるのである。これは実に感謝すべき事である。
死の苦痛は、決して無益な苦痛ではない。これによって、自分の罪が洗われるだけでなく、また世の罪が、幾分でも除かれるのである。そして言うまでもなく、死の贖罪力は、死者の品性如何によって、増減するのである。
義者の死は、多くの罪を贖い、悪者の死は、自己の罪の他、贖うところはわずかである。人は聖(きよ)くあれば聖くあるほど、その死によってこの世の罪を贖うことができるのである。
あるいは家の罪を、あるいは社会の罪を、あるいは国の罪を、あるいは世界の罪を、人は彼の品位如何によって担い、かつ贖うことができるのである。
死は実に大事業である。人がこの世において為すことができる最大事業である。キリストがその死によって全世界を救って下さったと言うのは、決して形容的な言葉ではない。事実中の大事実である。キリストは実(まこと)にその死によって、世の罪を負い、これを除かれたのである。
そして彼の弟子である私達もまた、
私達相応に、私達の死によって、世の罪を負って、これを除くことができるのである。これは実に感謝すべきことである。私達は生きて何事を為すことができなくても、信仰を以て主に在って死ぬことにより、幾分でも世を永久に益することができるのである。
即ちパウロが言ったように、「
我が肉体(の苦痛)を以てキリストの体(からだ)即ち教会のために、其の(キリストの)患難(なやみ)の欠けたる所を補ふ」(コロサイ書1章24節)ことができるのである。
人類の救済は、キリスト一人の苦痛だけで成就できる事ではない。彼の弟子である私達が、彼と共に死の苦痛を嘗(な)めて成就できることである。
死は天の恩恵の神が、善事遂行のために私達各自にお与え下さる最も好い機会である。私達は感謝してこれを受け、善くこれを利用して、自他の救いを完成すべきである。
そのような祝福が死に伴うので、私達イエスの弟子は、死を悪事と見做さないのである。死はキリスト者にとっては、栄光に入る途、また栄光を顕す好機会である。それゆえ私達は、死に遭遇して泣くことは泣くが、しかし、希望の無いこの世の人のように、歎き悲しまないのである。
私達は、死の価値を知る。それが自己を潔(きよ)める機会、世の罪を贖う能力(ちから)、永生に入る準備であることを知る。祝すべきかな死! 感謝すべきかな死!
完