全集第19巻P37〜
「艱難と刑罰」他2編
明治45年2月10日
1.艱難と刑罰
私が艱難に遭遇するたびごとに、悪魔とこの世の人とは、私に告げて言う、「おまえは神と人とに対して大きな罪を犯したので、この艱難がおまえに臨んだのだ」と。
そして私といえどもまた、自分が艱難の渦中に在る間は、その苦しみに耐えられずに、同じ思念に駆られ、自己を省み、罪を探り、これを除いて、私に臨んだ艱難から脱しようとする。
しかしながら、たいていの場合において、艱難はそのようにして脱することができるものではなく、罪を悔いても、悔いなくても、艱難は私を苦しめるだけ苦しめるのでなければ、私を去らないのである。
ここにおいて、大問題は私に提供されるのである。艱難は、果して神の刑罰であるかと。そして聖書を探ってみると、艱難は刑罰であるかのように書いてある所が無くはない。「
災禍(わざわい)の起るは、エホバの之を降し給ふならずや」(アモス書3章6節)と、預言者アモスは思い切って言っている。
彼はまた言っている、「
主エホバ曰ひ給ふ、我れ雨を止めて……田圃は雨を得ずして枯れたり。然るに汝等は我に帰らず……我れ枯死殻(しいなせ)と朽腐穂(くさりほ)とをもて汝等を撃ちなやませり。
汝等の多くの園と葡萄園(ぶどうばたけ)と無花果樹(いちじくのき)と橄欖樹(かんらんのき)とは、蝗(いなご)これを食へり。然るに汝等は我に帰らず……我れ汝等の中に疫病(えきびょう)を起し、剣をもて汝等の壮年(わかきもの)を殺したり……然るに汝等我に帰らずとエホバ言ひ給ふ」(アモス書4章7節以下)。
これによって観れば、干ばつも凋萎(ちょうい)病も虫害も疫病も戦争も、神が起される事であって、民の罪悪を懲(こ)らすための刑罰であるとのことである。
ユダヤ王ヘゼキヤが病んで死にそうになった時、彼は神に祈って、「
嗚呼(ああ)エホバよ、願くは我が真実と一心をもて汝の前に歩み、汝の目に適(かな)ふことを行ひしを記憶(おぼ)へ給へ」と言って甚(いた)く泣いたので、神は王の病を癒し、その齢(よわい)を15年増したと言う(列王記略下20章)。
これによって観れば、病気もまた神が人の罪を怒って降される刑罰であって、これは悔改めることによって取り除かれるものであるということである。
旧約時代全体にわたり、神の選民がすべての災禍(わざわい)に関して抱いた観念は、ヨブの友人の一人であるテマン人エリパズによって言われた。
悪しき人は、その生(い)ける日の間常に悶え苦しむ、
強暴の人の年は数へられて定めおかる、
其耳には常に怖(おそ)ろしき音聞こえ、
平安の時にも滅(ほろぼ)す者之に臨む、
…………………………………………………………
患難(なやみ)と苦痛(くるしみ)とは彼を懼(おそ)れしむ、
是故に彼は富まず、其貨物(たから)は永く保たず、
その所有物(もちもの)は地に蔓延(ひろが)らず、
又自己(おのれ)は黒暗(くらやみ)を出るに至らず、
火焔(ほのお)その枝葉(えだは)(子孫)を枯さん、
而(しか)して其身は神の口の気吹(いぶき)によりて亡び往ん、
(ヨブ記15章20節以下)
と。
そしてこれは、旧約時代のイスラエル人が抱いた観念であっただけでなく、人類全体が懐く観念である。即ち幸福は神の恩恵の兆(しるし)であって、災禍(わざわい)は神の怒りの候(しるし)である。
ゆえに幸福は善人に臨み、災禍は悪人に来るので、人の善悪は彼に臨む禍(わざわい)と福(さいわい)とによって見分けることができると。
そしてこれは、旧約時代のイスラエル人に止まらない。また真の神を知らない異教の民に止まらない。自らキリスト信者であると称する者もまた、たいていは同じ観念を懐いている。彼等もまた異邦人と等しく、人の善悪を糾明するのに、彼に臨んだ禍福を以てする。
しかしながら、ユダヤ人ギリシャ人、信者不信者の別なく、人は全体に禍福についてそのような観念を抱くにかかわらず、キリストだけは、これとは正反対の観念を抱いておられたのである。
光の主であって正義の体得者であるイエス・キリストは、世のいわゆる災禍(わざわい)を、神の怒りの兆(しるし)とはお認めにならなかったのである。身の禍福にかかわるキリストの観念は、この世の人のそれとは、全く違っていたのである。
当時(そのころ)集りたる者の中に、ピラトがガリラヤ人の血を其供物(そ
なえもの)に混(まぜ)し事をイエスに告ぐる者ありたり。イエス答へて彼
等に曰ひけるは、汝等此ガリラヤ人は、是の如く迫害(せめ)られしが故に
すべてのガリラヤ人よりも勝りて罪ある者と思ふや。
我れ汝等に告げん。然らず、汝等も若し悔改めずば、皆同じく亡(ほろぼ)
さるべし。又シロアムの塔倒れて圧死(おしころ)されし十八人は、エルサ
レムに住めるすべての人々よりもまさりて罪ある者と思ふや。
我れ汝等に告げん。然(しか)らず。汝等も若し悔改めずば皆同じく亡ぼさ
るべし。(ルカ伝13章1節以下)。
イエスはここに言われたのである。人に臨む災害は、その人が特別に罪人である兆候(しるし)ではない。もし人の罪を言うならば、すべての人は罪人である。悔改めなければ、彼等は終に悉く滅ぼされるべき者である。
幸福な人も不幸な人も、富んでいる人も貧しい人も、健康な人も病んでいる人も、神の前では差別はない。彼等がもし悔改めなければ、彼等はみな悉く滅ぼされるべき者であると。
実(まこと)に義(ただ)しいイエスの眼前(めのまえ)では、「義人なし一人もあるなし」であった。彼は人に臨む禍福によって、その義、不義をお定めにならなかった。
しかしイエスは、ここに止まられなかった。
彼の愛の眼中には、災禍(わざわい)なるものはなかった。天の父の心を御自分の心とされた彼は、災禍(わざわい)をも福祉(さいわい)として見られた。
イエス道を行く時、生来(うまれつき)なる瞽(めしい)を見しが、其弟子彼
に問ふて曰ひけるは、ラビ此人の瞽(めしい)に生れしは誰の罪なるか。己
れに由るか、又両親に由るか。イエス答へけるは、此人の罪に非ず、又
其両親の罪にも非ず。彼に由りて神の行為(わざ)の顕はれんためなり。
(ヨハネ伝9章1節以下)
ここに災禍(わざわい)は全く恩恵の立場から解釈されたのである。盲目と言えばどの国でも、特別の天罰として認められるにもかかわらず、イエスはここに、きっぱりと、盲目は天罰ではない、恩恵があらわれるための機会であると言われたのである。
実にこれほど大胆な言葉は無い。これは、神の子を待たずには言うことのできない事である。イエスのこの言葉によって、災禍(わざわい)に対する人類の思考は一変したのである。いや実に、一変すべきである。
災禍(わざわい)は災禍ではない。天罰ではない。神の怒りの表現ではない。その反対である。災禍は、神の行為(みわざ)があらわれるための機会である。ゆえにもし人がこれをその目的で用いれば、恩恵である。
イエスの立場から見て、またイエスに救われた者の立場から見て、身の艱難(なやみ)は、すべて神が私達に降される恩恵であると。これはイエスが特別に人に伝えられた大福音であって、キリスト信者なる者は、すべてこの福音にしたがって人生を解釈すべきである。
キリスト以前、既に旧約時代において、人生のこの解釈があったのである。ヨブ記はそのように艱難を解釈した書である。
ヨブは何故に悩まされたかという問題に対して、彼の三人の友人は、当時の教会と神学とを代表して、彼は、人に知られていないある大罪悪を犯したので、彼に異例の大艱難が臨んだのであると言った。
そして彼等は、親切心から、ヨブにその罪悪を表白させて、彼から災害を除こうとした。ところがヨブは、彼に臨んだ災禍(わざわい)に適当する自己の罪を思いだすことができなかったのである。
彼は、神の前に自分は罪人であることを認めた。しかし、神の怒りの標的(まと)となるほどの罪を犯したとは、認めることができなかった。
彼の友人は、彼に臨んだ災禍において、彼ヨブが罪人であるという確証を握ったと思った。ゆえに彼に迫って、罪の表白と悔改めを促して、それによって彼を救おうとした。
彼等の友誼は貴ぶべきであったが、しかし彼等は神の心を知らなかった。彼等の艱難哲学は、甚だ浅薄であった。彼等はこの事に関しては、時代の子であった。教会信者であった。
艱難は、ヨブを罰するために彼に臨んだのではない。神が御自身を彼に示すために臨んだのである。そして艱難がヨブの身に加われば加わるほど、神は
より深く御自身を彼に顕されたのである。
ヨブ記は、艱難を通してする神の自顕の記録である。これは人類に与えられた最も美麗(びれい)な、かつ最も深遠な艱難哲学の教科書である。
そしてヨブが終に神に向って、「
我れ(今日まで)汝の事を耳にて聞ゐたりしが、今は目をもて汝を見たてまつる。是をもて我れ自から恨み、塵(ちり)と灰の中にて悔ゆ」と言って、神が彼に艱難を送られた目的が、完全に達せられたのである。
人生の目的は、神を知ることにある。「
唯一(ただひとり)の真神(まことのかみ)なる汝と其遣(つかわ)しゝイエス・キリストを識(し)ること、是れ永生(かぎりなきいのち)なり」(ヨハネ伝17章3節)とイエスは言われた。
そして艱難がもしこの目的を達するために必要であるならば、艱難は決して災禍ではない。恩恵である。そしてヨブの場合において艱難は、この祝すべき目的を達したのである。
そして私達の場合においてもまた、艱難によらずには、この目的は達せられないのである。イエス御自身が、「
苦難(くるしみ)を以て完(また)くせられ」たのである(ヘブル書2章10節)。私達もまた、イエスの苦難(くるしみ)を受けずには、彼のように成ることはできないのである。
イエスによって、神の人に対する態度は一変した。したがって、人の神に対する態度が一変した。
「
彼れ木の上に懸りて我等の罪を自から己が身に負ひ給へり」(ペテロ前書2章24節)と。ここにすべての呪詛(のろい)、すべての刑罰は取り除かれたのである。
イエスが「木の上に懸」ってから、災禍(わざわい)は災禍でなくなり、天罰は天罰でなくなったのである。そして神は既に恩恵の態度で世に対しておられるが、未だイエスを知らない者は、今なお旧時の恐怖の態度で神に対し、世のすべての艱難において、神の怒りと呪詛とを認めるのである。
しかし、イエスを知る者は、この世の人のように人生を解しない。イエスを知る者にとっては、天罰とか災禍とかいうものは、一つもないのである。すべてがみな、恩恵であるのである。飢饉も豊稔も、成功も失敗も、健康も疾病も、生も死もすべてが悉く恩恵であるのである。
パウロが言っているように、「
すべての事は、神の旨(みむね)に依りて招かれたる、神を愛する者のために、悉く働らきて益をなすを我等は知れり」(ロマ書8章28節)である。
私は、愛の神に刑罰なるものは無いと言った。しかし、もし刑罰なるものがあるとすれば、それは事業の失敗ではない。生活の困難ではない。肉体の疾病(やまい)ではない。家庭の不和ではない。そして実に、死そのものでもない。これらはみな、艱難、不幸、天刑の中に数えられるべきものではない。
もし神の刑罰なるものがあるとすれば、それは神を知ることができない事である。未来と天国とが見えない事である。聖書を読んでも、その意味が解らない事である。感謝の心が無い事である。俗人のように万事万物を見る事である。これが真の災難である。最も重い刑罰である。
私が常に祈ることは、どのような艱難に遭遇しても、神を忘れ、キリストから遠ざかり、俗眼で人生を見るようになるという、その災害を蒙らない事である。
そしてこれに反して、ますます明らかに神とキリストとを知ることができ、ますます深く人生を恩恵的に解釈することができ、ますます鮮やかに来世を認めることができるようになって、私の身にヨブに降った七倍の艱難が降って来ても、私は喜びかつ感謝するのである。
恩恵とは身の幸福ではない。霊の光明である。財貨(たから)とは、全世界ではない。目に見えない真(まこと)の神である。唯一の真の神と、神が遣わされたキリストを知ること、これが永生である。最大幸福である。最大の賜物である。
そしてこの至大至高の恩恵に与るためには、貧しくても良い。世と友人に捨てられても良い。疾病にかかるのも良い。そして実に、死んでも良い。私はイエスに在って、死そのものにおいてさえ、神の笑顔を拝し奉るのである。
2.宗派のない宗教 (P44〜)
宗派のない宗教とは、人が死に対する時の宗教である。この時、教派もなければ神学もない。保守派もなければ進歩派もない。近世主義もなければ無教会主義もない。この時神は神であって、キリストはキリストである。
この時には、来世は無いと言い、キリストは救主でないと言う信者は、一人もいない。この時信者はすべて、神と人情とにおいて一つである。この時宗教は、完全無欠である。
何故に私達は常にそのように在り得ないのか。何故に私達は、死に対する時にだけ一致するのか。死はごく稀に人の中に臨むことであるか。私達の中に死なない者がたった一人でもいるのであるか。世に死ほど普通なものは無いではないか。それなら私達は何故に常に死と相対して在ることができないのか。
哲人キケロ(
http://en.wikipedia.org/wiki/Cicero )は言った、「
世に死ほど普通なる者はない。然るに人は、すべて死は無い者と見做して日を送って居る」と。死ほど人に近い者はないのである。彼は常に私達の側に立っているのである。ところが私達は、彼を認めずに、彼を無いかのように、日々振舞いつつあるのである。
願う、私達が日々、神の擁護の下に在るように、死の蔭に在ることを。そして相互を許し、相互を愛し、相互を憐み、相互を助け、私達は来世の継承者であると同時に、また塵の子供であって、死の標的(まと)であることを知り、安らかにこの短い一生を終ることを。
私は死者のために、何を為そうか。死者に宗派はない。国家はない。人種もない。死者は人類的であって、宇宙的である。ゆえに私は、死者のために万人と平和を結ぼう。これは死者を記念するための、最も善い途(みち)である。
3.我等は四人である
我等は四人であった、
而(しか)して今尚ほ四人である、
戸籍帳簿に一人の名は消え、
四角の食台の一方は空しく、
四部合奏の一部は欠けて、
讃美の調子は乱されしと雖(いえど)も
而(し)かも我等は今尚ほ四人である。
我等は今尚ほ四人である、
地の帳簿に一人の名は消えて、
天の記録に一人の名は殖(ふ)えた、
三度の食事に空席は出来たが、
残る三人は
より親しく成った、
彼女は今は我等の衷(うち)に居る、
一人は三人を縛る愛の絆(きずな)となった。
然し我等は何時(いつ)までも斯(か)くあるのではない、
我等は後に又前の如く四人に成るのである、
神のラッパの鳴り響く時、
寝(ねむ)れる者が皆起き上る時、
主が再たび此地に臨(きた)り給ふ時、
新らしきエルサレムが天より降る時、
我等は再たび四人に成るのである。
完