全集第19巻P140〜
士師エフタの話
少女の犠牲 (この篇をよく解したいと思う者は、先ず士師記第11章を精読する必要が有る)
明治45年6月10日
我れ更らに何を言はんや。若しギデオン、バラク又サムソン、エフタ、ダビデ
又サムエル及び預言者等の事を言はんには、時足らざる也。
(ヘブル書11章32節)
エフタの話は、旧約聖書士師記第11章に載せられています。彼はギレアデ人で、勇猛な勇者でした。私生児であるという理由で、本妻の子等に追われ、家郷を去って他国に流浪し、トブという所に行って、その土地の無頼漢どもを集めて、アラビア地方で時々行われている、旅客の掠奪に従事しました。
時に彼の本国はアンモン人の侵略に遭い、十八年の間、その暴虐に苦しみました。そこでギレアデの長老たちはトブの地に行き、エフタに、その生国に帰って、民を率いてアンモン人に当り、国を侵略者の手から救い出すように乞いました。
するとエフタは長老達に答えて言いました。「
汝等は我を悪(にく)みて我父の家より我を逐出(おいいだ)したるに非ずや。然るに今汝等困難(なや)める時に至りて、何ぞ我に来るや」(11章7節)と。
私生児もまた人です。一たび世に生れて来た以上は、神に召されて生れて来た者です。ところが私生児だという理由で、これを嫌悪し、これを虐待し、これを追い出して、ギレアデ人は人の前に自己の清浄を衒(てら)ったのです。
ところが神は、知者の知を辱しめ、賢者の賢を辱しめるために、ここに私生児エフタを選んで、彼に異常な能(ちから)をお与えになったのです。
今や国難に際し、救済の衝(しょう)に当る者がなくなって、民の長老達は頭を垂れ、彼等がかつて侮辱し、追放した不幸児の援助を借りざるを得なくなりました。エフタの得意は、実に大きかったことでしょう。
すると長老達はエフタに答えて言いました。「
其事ありしが故に我等今礼を厚うして汝に来りしなり。乞ふ、汝今我等と共に往きてアンモン人と闘へ、然らば我等汝を戴きてギレアデ人の首領(かしら)となすべし」(8節)と。
この懺悔(ざんげ)と懇願とに対し、勇者はこれを斥けることができませんでした。長老等に、エホバの前に誓約を立てさせ、終に彼等の首領となり、大将となり、ギレアデ人を率いて、敵人アンモンを撃退することを承諾しました。
エフタはギレアデ人の首領となって、アンモン人に対して直ちに戦闘を開始しませんでした。彼は先ず、平和的手段で争闘の根を絶とうとしました。彼は使者をアンモン人の王に派遣して、その要求の非をただし、彼に譲るべきものを譲らせようとしました。
本章第12節から第28節までは、当時の外交談判を記すものです。ギレアデ人の立場から見て、正当な要求だったのでしょう。外交などというものは、その時、その場合に臨んでだけ興味があるものです。しかし、時と所を異にすれば、何の興味もないものです。
日露外交談判と言えば、その当時においてこそ世界の耳目を引きましたが、しかし今から四千年の後に至ってこれを見れば、ちょうど私共が今、エフタ対アンモン王の外交談判を読むような感がして、誠につまらない事でしょう。
しかしエフタが戦う前に、先ず平和的手段を取ったこと、その事は文明的であって、称賛すべき事です。私生児の浮浪人も、これに責任の地位を与えれば、紳士となります。
神を知ったエフタは、その素性如何に関わらず、生れつきの紳士でした。これに軍国の指揮を委ねれば、直ちに陣頭に立って、勇敢に敵の胆(きも)を挫くであろうという思いに反して、エフタには優しい女らしい所がありました。私共がエフタを愛する理由は、主としてここにあります。
エフタは平和の方法を試みました。しかしながら、ギレアデ人の力を侮(あなど)ったアンモン人の王は、不作法にもこれを斥けました。
「
茲(ここ)に至りてエホバの霊エフタに臨みたり」(29節)とあります。戦闘の力は、平和の手段が尽きる時に降ります。エフタは今は闘わざるを得ませんでした。
しかし、彼は戦場に臨むに先だって、神に誓(ちかい)を立てざるを得ませんでした。彼が担った責任は、余りに重大でした。彼は自己の力に頼ることができず、そうかと言って、未だ全く神の援助を信じることができませんでした。
誓願(せいがん)は人の至情から出るものですが、しかし、全く神に頼む人は、誓願を立てる必要を感じません。天父(ちち)の聖旨(みこころ)を完全に了解(さと)っておられたイエスは、かつて一回も誓願をお立てになりませんでした。
彼は、その弟子たちに教えて言われました。「
我れ汝等に告げん、更に誓ふこと勿れ。天を指して誓ふことなかれ。是れ神の座位(みくらい)なれば也。地を指して誓ふこと勿れ。是れ神の足台なれば也。
エルサレムを指して誓ふこと勿れ。是れ大王の京城(みやこ)なれば也。汝の首(かしら)を指して誓ふこと勿れ。そは一糸(ひとすじ)の髪だに白く又黒くすること能(あた)はざれば也。汝等ただ然り、然り、否な、否なと言へ。此より過(すぐ)るは悪より出るなり」(マタイ伝5章34節以下)と。
これは、神を深く信じていたので、誓願の必要を認めないだけでなく、反ってそれが罪悪であることを認める聖者(きよきもの)の言葉です。しかし、神の子ではないエフタには、この深く完全な信仰がありませんでした。
彼は多くの人の子の例にならい、戦闘に臨むに当って、神の前に誓を立てました。この場合にあったエフタに対して、私はその行為をほめることはできないと同時に、また深く彼に同情を表さざるを得ません。
エフタがエホバに立てた誓はこれでした。即ち、「
汝若し誠にアンモン人を我が手に附(わた)し給はば、我がアンモン人の所より安らかに帰らん時に、我家の戸より出で来りて我を迎ふる者は、必ずエホバの所有(もの)となるべし。而(しか)して我れ之を燔祭(はんさい)として献げん」(30、31節)と。
誠に前後を顧みない無謀な誓でした。しかしエフタは、時の必要に迫られ、自己の弱さを感じる余り、この言葉を発したのであると思います。私共は、エフタの軽率を責める前に、先ず自己を彼の地位に置いて見なければなりません。
彼に取り、今や彼の私事を慮(おもんばか)る時ではありませんでした。国のため、神のため、しかも自分は一個の浪士、娼妓の子だとして賎しめられた者、その彼が、どうしてこの大任に耐えることができるでしょうか。
彼がもし一歩を誤れば、国家は滅亡の淵に沈まざるを得ません。この事を思って、彼は如何なる犠牲を払っても、この戦争に勝たなければならないと思ったのであろうと思います。私はこの時における、彼エフタの心情を推し量って、同情の涙に耐えません。
上からの力は、彼の身に加えられました。誓願はエホバの前に立てられました。今やエフタの勇気は平日に百倍し、彼は猛然としてアンモン人の陣を襲いました。
エフタ即ちアンモン人の所に進み行きて之と戦ひしに、エホバ、彼等を
其手に附(わた)し給ひしかば、アロエルよりミンニテにまで至り、彼等の
二十の邑(まち)を打破りてアベルケラミムに至り、甚だ多くの人を殺せり。
斯(か)くてアンモン人は、イスラエル人に征服せられたり。
(32、33節)
とあります。殺伐な記事を好まない聖書記者は、この場合においても、これ以上を書き記しませんでした。戦争の記事は、これで足ります。斬ったとか、突いたとか、喚(わめ)いたとか、叫んだとかいう血なまぐさい事は、これを読む必要はありません。
士師記のように戦争について多くを記す書においてさえ、聖書は戦争そのものについては、なるべく沈黙を守って、必要以上を語りません。これが聖書の聖書たるゆえんであると思います。
戦争は、大勝利で終わりました。強敵は征服されました。民の自由は回復されました。そして勇者は、凱旋の栄光を担ってその家に帰りました。
越王勾践(こうせん)呉を破て帰る、
義士家に還(かえり)て尽く錦衣(きんい)
この世の栄誉の中に、凱旋の栄誉に優るものはありません。エフタは今やアンモン人の王を破って、錦衣をまとってミヅパにあるその家に帰ってきました。
ところが見れば、何と先ず第一に彼の家を出て彼を迎えた者は、彼の一人の娘でした。彼女は嬉しさのあまり、手に鼓(つづみ)を取り、舞い踊りながら、彼女の凱旋の父を迎えました。そして彼女はエフタの独子(ひとりご)で独娘(ひとりむすめ)であったのです。
ああ運命! これを見たエフタの心は、たちまちのうちに歓喜の天から悲哀の地に落ちました。彼は、彼の衣を裂きました。「
我が女(むすめ)よ」と彼は叫びました。「
汝は実(まこと)に我を仆(たお)せり。汝は我が殃災(わざわい)の源(もと)となれり」と彼は続いて言いました。
ああしかし、どうしようもない。誓願(ちかい)の言葉は既に発せられたのである。今はこれを撤回することはできない。彼は、彼の一人の娘を、燔祭としてエホバの前に献げざるを得ない。
ああ高価な勝利、敵を破り、国を救ってその代価として一人の娘を献げざるを得ないと。この時のエフタの心は、乱れて糸のようであったでしょう。
しかし、さすがにイスラエルの国士の娘でした。彼女はその父に、この誓願があったことを聞いて、少しも驚きませんでした。彼女は言いました。
お父さん、驚きなさるな。貴父(あなた)がエホバに向ひて其誓を立てられ
しならば、其通り私に為(な)さい。神様は貴父を援(たす)けて貴父の敵な
るアンモン人に勝たしめ給ひました。 (36節)
と。健気(けなげ)なる彼女は、彼女の父が敵に勝ったことと、彼女の国が救われたこととを聞いて、彼女の身に臨んだ大きな災いを感じませんでした。
彼女は喜んで、父と国との犠牲になって、神の祭壇の上に捧げられることを求めました。彼女に唯一つの願いがありました。それは、彼女が死の準備をすることでした。
彼女は父に向って言いました。
お父さん、ドウゾ此事を私に允(ゆる)して下さい。ドウゾ二ヶ月の間私に
暇(ひま)を下さい。私は其間に、私の友等(ともだち)と共に山に往きて、
私が処女(おとめ)として身を終ることを歎(なげ)かふと欲(おも)ひます。
(37節)
と。そうして父の許可を得て山に行き、二カ月が満ちて彼女の家に帰って来ると、「
父其誓ひし誓願(ちかい)の如くに之を行へり」(39節)とあります。多分誓の言葉通りに、エフタは彼の娘を献げたのであろうとの事です。
残酷と言えば残酷です。昔はアブラハムがその一子イサクを燔祭として神に捧げようとしたその刹那(せつな)に、神は一頭の羊を下(くだ)して、これをイサクの身代わりにしたとの事です(創世記第22章)。
神は何故に同じ手段で、ここにエフタの娘を救われなかったのでしょうか。人身御供は、聖書が堅く禁じる事です。エフタがもしここにこの事をしたとすれば、それは神の律法(おきて)に背いたのです。
ゆえにある聖書の注解者は言います。エフタはここに文字通りに彼の娘を燔祭として神に供(そな)えたのではない。昔のアブラハムの例に倣(なら)い、羔か犢(こうし)を彼女の身代わりとし、彼女の生命はこれを保存し、彼女を終生聖童として、神の聖殿に仕えさせたのであると。
あるいはそうであったかも知れません。しかし、第39節をそのままに解釈して、これを文字以外に解釈することはできません。多分エフタは、彼の誓願通りに、彼の娘の身を処分したのであろうと思われます。
前にも述べましたように、誓願そのものが、既に間違いであったのです。その成就は、敢えて怪しむに足りません。私共は、エフタの迷信を憐れみましょう。彼の浅慮を責めましょう。しかしながら、彼の誠実を尊び、彼の志を愛せざるを得ません。
しかし、燔祭の事実はどうであったとしても、犠牲の事実は、これを蔽(おお)うことはできません。エフタはここに、凱旋の帰途において、彼の一人の娘を失ったのです。この事によって、彼の高ぶった心は低くされ、誇ろうとした心は遜(へりく)だらされたことでしょう。
エフタはこの時、真の栄誉なるものが、この世に無いことを悟ったことでしょう。この世において曇りのない歓喜(よろこび)、欠ける所のない成功、涙のない名誉なるものは無いのです。エフタは流浪の身から一躍して一国の首領と成った時に、償いたいと思っても償えない損害に遭遇したのです。
彼はこの後六年間、イスラエルとギレアデを裁いたとあります(12章7節)。しかし、六年の栄華は、彼にとって決して悲哀のない栄華ではなかったのです。
彼は終生、凱旋当日の悲劇を忘れなかったに相違ありません。アンモン人の王を睨(にら)んだ勇者の目は、たびたび悲しい犠牲の事を思い出して、熱い涙に浸されたに相違ありません。彼はたびたびギレアデの首領にならずに、トブの地で彼の一人の娘と共に隠れて、幸福な日を終生送りたかったと願ったでしょう。
しかし、幸福は人生最大の獲物ではありません。義務は幸福に優ってさらに貴いのです。義務のゆえに私共は、たびたび幸福を捨てざるを得ません。そして義務のために私共が蒙る損失は、決して損失ではないのです。
エフタは彼の幸福を犠牲にして、彼の国を救いました。そしてエフタの娘は彼女の生命を犠牲にして、彼女の父の心を聖(きよ)めました。犠牲に犠牲、人生は犠牲です。犠牲なしには、人生は無意味です。
幸福は人生の目的ではありません。犠牲こそ人生の華です。もしイスラエルを救うためにはエフタの苦痛が必要であり、そしてエフタ自身を救うためには彼の娘の死が必要であったということであれば(そして私は必要であったと信じます)、神の聖名(みな)は讃美すべきです。
エフタは無益に苦しまず、彼の娘は無益に死にませんでした。神はそのようにして人と国とを救われるのです。
是れより後年々にイスラエルの女子等(むすめこら)は往きて年に四日ギ
レアデ人エフタの女(むすめ)のために哀哭(なげ)くことをなせり。これイ
スラエルの規定(さだめ)となれり。 (40節)
とあります。単に哀哭の表彰と見れば、この規定は無意味です。しかし、これは単に感情だけの哀哭ではありません。貴い主義の籠(こも)る哀哭です。エフタの娘は、国のために、また国のために戦った彼女の父のために、その処女の身を、神の祭壇の上に捧げたのです。
そして年ごとに彼女の死を記憶して、イスラエルの女子等は、貴い犠牲の精神を養ったのです。聖書に載っている多くの美しい話の中でも、エフタとその一人の娘の話は、無量の感慨を私共に与える話(もの)です。
完