全集第19巻P166〜
「自己の引き渡し」他2編
明治45年7月10日
1.自己の引き渡し
イエスに自己を引き渡した私は、何をもしなくても良いのである。いや実に、何をも為し得ないのである。私は自分では死んだ者である。今は、「我」なる者さえ私には無いのである。
しかしながら不思議な事に、私が自己に死ぬ時に、その時に私は直ちに生き返るのである。その時、私ではない者が私の内に起り、私を活かし、私を働かせるのである。
その時私の思想は新しくなり、私の心の目は開き、私の霊魂は活気づいて、私の疲れた体までが、復活する感じがするのである。
2.現時の宗教信者
境遇が悪い時には宗教を信じ、境遇が良くなれば何とか勝手な理屈をつけて、これを捨てる。これが日本今日の、多数の宗教信者がすることである。
彼等は昔のイスラエル人のように、
我が霊魂は渇ける如くに神を慕ふ
活ける神をぞ慕ふ
と言って、霊魂の渇求を癒そうとして宗教を信じるのではない。彼等はただ境遇の苦しさに堪えずに、一時の慰安を宗教に求めるのである。日本今日の求道者または宗教信者ほど頼みがいのない者はない。
彼等は、体裁の良い利己主義者(エゴイスト)である。十字架を負うことなしに福音の恩恵に与ろうと思う者である。主は彼等を、その口から吐き出されるであろう(黙示録3章16節)。
3.マタイ伝とルカ伝
(6月23日東京数寄屋橋会堂において)
聖書を読む者は、先ず始めにマタイ伝を読むのを恒例(つね)とする。そして始めにマタイ伝を読むので、終りまでこれを読み続ける。マタイ伝は彼がキリスト教に入る門であって、また彼のキリスト教である。
彼は終生マタイ伝によって得た最初の印象を去らない。彼の信仰は、自然とマタイ式になる。彼は最もしばしばマタイ伝を読む。彼のキリストは、マタイ伝のキリストである。彼は終には、キリスト教とはマタイ伝であるかのように思うに至る。
これは、決して悪い事ではない。マタイ伝は偉大な書である。有名な聖書学者ルナンは言った。「
マタイ伝は、キリスト教が産した最も重要な書である」と。
そしてこの書に由ってキリスト教を学べば、誤謬に陥る恐れはない。マタイ伝は、よくキリストの精神を伝え、彼の教えを明らかにする。人にキリスト教を紹介するに当って、多分これに優って貴い書は無いであろう。マタイ伝が新約聖書の始めに置かれたのは、決して意味のない事ではない。
しかしながら、言うまでもなく、マタイ伝は聖書の全体ではない。その大切な部分であるが、しかし、その一部分であるに過ぎない。マタイ伝は、ある方面から観たキリスト観である。ゆえにその方面はよく尽しているが、しかし他の方面からする観察に欠けている。
キリストを完全に観ようと思うなら、マタイ伝だけでは足りない。私達は、他の方面からした観察によって、マタイ伝の観察を補わなければならない。
主としてマタイ伝に由って成ったキリスト教の信仰は、偏頗(へんぱ
:かたよりがあって不公平なこと)なものになってしまう。そしてたいていの場合において見られるキリスト教の信仰は、マタイ伝的な偏頗を免れないと思う。
その理由を知ることは難しくない。マタイ伝は、イエスをユダヤ人に紹介するために書かれた書である。そしてその著者は、使徒マタイであって、彼は使徒ヤコブと同じく、ユダヤ的傾向の人であった。
ユダヤ的傾向の著者によってユダヤ人のために書かれたこの書が、ユダヤ的色彩を帯びていることは、敢えて怪しむに足りない。マタイ伝によるイエスは、ユダヤ人の受膏者(メシヤ)である。彼はアブラハムの裔(すえ)であって、またダビデの裔である(1章1節)。
即ちユダヤ人の理想を身に体して世に生れて来た者である。したがって、イエスが唱えた福音は、律法と預言とを離れたものではない。その連続である。その頂点に達したものである。イエスは別に新しい教えを伝えようとして世に来たのではない。旧(ふる)い教えを完成させるために来たのである。
「
我れ律法(おきて)と預言者を廃(すつ)るために来れりと意(おも)ふ勿れ。我が来りしは、之を廃るために非ず、成就(じょうじゅ)せんためなり」(5章17節)とある。
いわゆる山上の垂訓なるものは、新しい教訓ではない。旧い教訓の新注解である。マタイ伝によるイエスは、新宗教の創設者ではない。旧宗教の改革者である。
彼はどこまでもユダヤ人である。ヨセフの子として認められたイエスである。教会の基礎を、純粋のユダヤ人であるシモン・ペテロの上に置いた者である(16章18節)。
マタイ伝のイエスは、律法の完成者である。ゆえにその福音は、律法のさらに完全なものである。使徒ヤコブのいわゆる「
自由なる全(まった)き律法」(ヤコブ書1章25節)である。
キリストの福音は、律法ではない。律法以上であって、恩恵である信仰であるというパウロの立場は、マタイとヤコブとが共に首肯しなかったところであるに相違ない。
マタイが解したところに従えば、福音は律法のさらに高い、さらに深い、さらに聖(きよ)い者である。しかしなお律法である。肉の律法であるに止まらずに、また霊の律法である。
行為を支配するに止まらずに、また意志をつかさどる律法である。モーセの律法の霊化した者、それがキリストの福音であるとは、山上の垂訓の要旨である。
古(いにしえ)の人に告げて姦淫する勿れとあるは、汝等が聞きし所なり。
然れど我れ汝等に告げん。凡(およ)そ色情を起さんために婦(おんな)を見
る者は、心中既に姦淫したる也。 (5章27、28節)
このようにしてイエスによって、律法はいっそう精細に、いっそう厳密に、いっそう鋭敏になったのである。使徒ヤコブの言葉で言えば、「
人、律法を悉く守るとも、若し其一に躓(つまず)かば、是れ其全部(すべて)を犯すなり」(ヤコブ書2章10節)ということになるのである。
若し律法は殺す者だというパウロの言葉が真理であるとすれば、マタイ伝によって伝えられたイエスの教訓は、古いモーセの律法に優って、「
両刃(もろば)の剣(つるぎ)よりも利(と)く、霊と魂また関節(ふしぶし)と骨髄まで刺し剖(わか)ち、心の意(おもい)と志とを鑒察(みわく)るもの」(ヘブル書4章12節)であるのである。
このようなわけで、主にマタイ伝で養われた信仰がどのような者であるかを知るのは、難しくないのである。マタイ伝は、
より高いモーセの律法を伝える者であるので、これによって養われた信仰は、律法を厳しく守る者となることを免れないのである。
「
汝等の義にして学者とパリサイの人の義に勝(すぐ)れずば、汝等は必ず天国に入ること能(あた)はず」(5章20節)とあるので、信者はパリサイの人以上の義人になろうと思って、聖(きよ)くて完全な律法の実行に努めるのである。
これは誠に称賛すべきこと、奨励すべきことであるのは言うまでもない。信者は正義の実行において、パリサイの徒の背後に落ちてはならない。
しかしながら、律法は如何に高くても律法である。そして律法は、パウロが言ったように、「
肉の故に弱」(ロマ書8章3節)いのである。律法は、弱い人が守ろうと思っても、守りとおせる者ではない。そして実に、律法は聖(きよ)くあればあるほどこれを守るのが難しいものである。
そしてモーセの律法でさえ守るのが難しい者が、これに優る律法を完全に守れるはずはないのである。
私達は、救われるためには、律法以外のある物を要するのである。
もしイエスが、
より高い律法を宣布するに止まったならば、私達の救いは、前よりもさらにいっそう困難になったのである。そしてイエスの福音をマタイ伝だけによって解すれば、私達はこの困難に陥るのである。即ち私達は、パリサイ人以上のパリサイの人と成り易いのである。
自己を責めるのにさらに厳格になり、したがって他人を裁くにもさらに峻酷になり、身において欠ける所がないようにしようと思うだけでなく、心において一点の汚穢をも留めるまいと努めて、私達は自他を潔くするために、奮闘努力に日もまた足りなくなるのである。
すると自由の福音は束縛の律法と化して、私達はイエスの弟子と成っても身に快活を感じること少なく、心に寛容の念は乏しく、福音の恩恵をわずかに消極的にだけ感じて、これを積極的に味わい得ないのである。
主にマタイ伝によって養われれば、私達の信仰は萎縮し易くなる。キリスト信者と称せられる人の中に、戦々恐々として薄氷を踏むような感を懐いて、わずかにその微かな信仰を維持する者が多いのは、その原因を
マタイ伝多読の害に帰せざるを得ない。
しかしながら、マタイ伝だけが唯一の福音ではない。神はこれを補うために、他にも福音を備えて下さった。マルコ伝がある。ルカ伝がある。ヨハネ伝がある。ロマ書がある。コリント前後書がある。
これらはみな、マタイ伝またはそれと同種類の書であるヤコブ書とは全く別の方面からイエスとその教えを観た書である。
私達は、聖書全体の立場から、イエスを観なければならない。そうでないと彼を誤解する恐れがある。そしてイエスを誤解して、私達は自己を誤解し、長く誤謬の迷路に彷徨して、無益な苦悶を継続する愚を演じるのである。
そしてマタイ伝の欠(けつ)を補うのに最も力ある者は、ルカ伝であると思う。ルカ伝は、マタイ伝とは全く違った方面からイエスを観察した書である。
マタイ伝がイエスをユダヤ人に紹介しようとしたのに対して、ルカ伝は同じ事をギリシャ人にしようとした。したがってマタイ伝は回顧的であるのに対して、ルカ伝は前進的である。マタイ伝は律法的であるのに対して、ルカ伝は預言的である。マタイ伝は国家的であるのに対して、ルカ伝は世界的人類的である。
ルカ自身が異邦人であったので、彼はマタイとは全く違った目でイエスとその事業とを観たのである。ルカ伝に現れたイエスは、マタイ伝に現れた彼とは、別人の感がする。したがってルカ伝によって養われて私達は、マタイ伝によって養われた場合とは全く別種の信者となるのである。
一、
ルカ伝は詩的である。その第一章にマリアの讃美歌がある。それに次いでザカリヤの頌歌(しょうか)がある。天使は歌を歌って聖子(みこ)の誕生を牧羊者(ひつじかい)に告げ、シメオンは歌を歌って彼を聖殿に迎えた。
その文体において、ルカ伝は遥かにマタイ伝以上である。その通りである。ルナンは言った。「ルカ伝は、人によって書かれた書の中で、最も美しい書である」と。
二、
ルカ伝は女性的である。マタイ伝がヨセフに重きを置いているのに対して、ルカ伝はマリアに重きを置いている。マタイ伝に在っては、聖子降誕(こうたん)の告知を受けた者はヨセフである(1章20節以下)。ルカ伝に在っては、天使は直ちにマリアに臨んで、彼女にこの慶事を伝えた。
男系を重んじたユダヤ人のために書かれたマタイ伝は、ヨセフの系統を掲げ、女性を重んじたギリシャ人のために書かれたルカ伝は、マリアの系統を明らかにしようとしたらしい。
ここにこの事について詳細を語ることはできない。しかし、ルカ伝がマタイ伝に比して、全体に女性的であることは、聖書研究者が等しく認めるところである。
三、
ルカ伝は福音的である。この点において、ルカ伝は著しくマタイ伝と異なる。ルカ伝には、マタイ伝のように律法的な所は甚だ少ない。
ルカ伝の示すイエスは、モーセ律の革新を目的として世に現れた者ではない。彼はモーセがもたらすことができなかったものをもたらして、世に臨んだ者である。
「
我れ万民にかゝはりたる大なる喜びの音(おとずれ)を汝等に告ぐべし。夫(そ)れ今日ダビデの村に於て汝等のために救主生れ給へり。是れ主なるキリストなり」とは、天使が牧羊者(ひつじかい)に告げた言葉である。
ここに神の摂理において、新事業が始まったのである。人類はここに新たに始祖を得たのである。第二のアダムが生れたのである。パウロの言葉で言えば、ここに「
旧(ふるき)は去りて万物皆な新らしく作(な)」(コリント後書5章17節)ったのである。
ルカ伝が伝えるところに従えば、キリスト教はユダヤ教の後を受けて、これを完成するために出た者ではない。キリスト教は、ユダヤ教に代るべき者である。キリスト教が出て、ユダヤ教は不用になったのである。
ルカ伝の精神を最も良く伝える者は、その第15章である。有名な放蕩息子のたとえは、ルカ伝の真髄と称すべきものである。ここに神と人間との関係がよく示してある。同時にまた、神が如何なる者であるかが明らかに示してある。
そしてまた、人はどのようにして神に救われるか、その事もまた明らかに教えられてある。放蕩息子は、その行いによって救われるのではない。単に父の愛を信じることによって救われるのである。
放蕩息子は、罪の身そのままを父の許に持って来て、その信頼心によって救われるのである。そしてまた父に在っては、その子がそのようにすることを望んで止まないのである。父がその子の救われることを望むその情は、子が自ら救われたいと思う情よりも遥かに切なのである。
「
其父、彼を見て憫(あわれ)み、趨(はし)り往き、其頸(くび)を抱きて接吻し云々」(ルカ伝15章20節)とある。これが、迷っている子に対する父の情である。そしてこれが、迷っている人類に対する神の情であると、ルカ伝のイエスは御教えになるのである。
ルカ伝は神の無条件の、全く恩恵的な赦免を伝える。ルカ伝が伝える神は、厳格な立法者ではない。また酷薄な裁判人ではない。慈愛の父である。寛大な君である。親しむべき、近寄り易い人類の友である。
言うまでもなく、ルカ伝が伝えるキリストは、使徒パウロのキリストである。パウロがその書簡で三度「
我が福音」と言ったその福音とは、ルカ伝を指して言ったのであるとは、古代から注解者が唱えてきたところである(ロマ書2章16節、同16章25節、テモテ後書2章8節)。
パウロとルカ伝との関係は、ヤコブとマタイ伝との関係に似ている。もしルカ伝をパウロの福音書と言うことができるならば、マタイ伝をヤコブの福音書と言うことができる。
信仰の称賛者と行為の称賛者、福音の唱道者と律法の宣伝者、二者は全然その質を異にして、各自よくイエスの半面を代表したのである。
ゆえに信者がマタイ伝を読むように、ルカ伝を読むなら、その情性、その信仰が全く一変することは言うまでもない。ルカ伝によって養われれば、私達は端厳(たんげん)一方の信者と成る恐れはない。
ルカ伝は私達を優しくする。自由にする。寛大にする。自己に省みてその汚穢を歎くに止めずに、神を仰いでその愛を楽しませる。ルカ伝は私達を畏縮させない。私達を伸長する。私達を自己充足させて、他を裁くに当って寛大にする。
ルカ伝によって養われれば、今日のキリスト教会のような、冷淡、刻薄でほとんど小地獄の観を呈する制度が起こるはずはない。
もちろんマタイ伝多読の害があるように、ルカ伝多読の害もあろう。聖愛は愛情に変じ易く、寛容は放縦に化し易い。私達にはルカ伝と共にマタイ伝を読む必要がある。しかしながら、最も大きな者は愛であるから、愛を基礎とするルカ伝は、義を根本とするマタイ伝よりも大きな書であると思う。
キリストの福音の真髄は、
より明白にルカ伝において示されたのである。キリスト教と言えば、マタイ伝であるよりは、むしろルカ伝である。もしある非常の場合に処して聖書中唯一の書を選ぶことを余儀なくされるならば、私はもちろんマタイ伝ではなくルカ伝を選ぶ者である。
殊に私達日本人にとって、ルカ伝は最も解し易い書である。それが歴史物語的であるのと、詩歌的であるのと、人情的であるのとは、強く私達の特性に訴えて、私達がこれを鑑賞することを甚だ容易にする。
私は特に
日本人の福音書として、ルカ伝を私の邦人に推薦(すいせん)せざるを得ない者である。
完