全集第19巻P203〜
「愛の法則他」他1編
大正元年9月10日
1.愛の法則 他
(1) 愛の法則
天然の法則があり、社会の法則があり、倫理の法則があり、そしてまた愛の法則がある。そして神は、愛の法則によって人を救われる。天然または社会または倫理の法則によってではない。
天然の法則によれば、優者は勝ち劣者は敗れ、強者は残り弱者は亡ぶ。しかし、愛の法則はこれに反する。愛は弱者を助け、強者を拉(ひし)ぐ。
其臂(ひじ)の力を現はし、心の驕(おご)れる者を散(ちら)し、権柄(ちから)
ある者を位より下し、卑賎者(いやしきもの)を挙げ、飢(うえ)たる者を美
食(よきもの)に飽(あか)せ、富める者を空しく返(かえ)らせ給ふ
(ルカ伝1章51節以下)
とある通りである。
社会の法則によれば、世論と称して多数の意見は行われ、少数者は常に失意の地位に居ざるを得ない。しかし、愛の法則はこれに反する。愛は少数者を顧み、多数を斥ける。
愛の法則は言う、「
イスラエルの子の数は海の砂の如くなれども、救はるゝ者はただ僅少(わずか)ならん」(ロマ書9章27節、イザヤ書10章22節)と。
倫理の法則によれば、徳行は賞せられ、罪悪は罰せられる。罪を天に得れば、訴える所はない。しかし愛の法則はこれに反する。愛は罪を赦す途を設ける。愛は公義よりも悔改めを愛する。
ゆえに言う、「
矜恤(あわれみ)は裁きに勝つなり」(ヤコブ書2章13節)と。また、「
人の義とせらるゝは信仰に由る。律法(おきて)(道義)の行(おこない)によらず」(ロマ書3章28節)と。
このようにして、天然の法則によれば亡ぶべき者も、また社会の法則によれば無能な者も、また倫理の法則によれば呪われるべき者も、愛の法則によって救われるのである。
愛はすべての法則に反し、その要求を排して言う、「
我れ矜恤(めぐ)まんと欲(おも)ふ者を矜恤(めぐ)み、我れ憐憫(あわれ)まんと欲ふ者を憐憫む」(ロマ書9章15節)と。世の劣敗者は決して失望すべきではない。
(2) 神と天然
天然は自治体である。神の配下に在るとはいえ、非常特別の場合を除いては、神を離れて独り自ら働く者である。
天然は、その日を善者にも悪者にも照らし、その雨を義者にも不義者にも降らし、雷霆(らいてい)を以て同時に劇場と教会堂とを壊し、氷壊を巨船の前に横たえて同時に牧師と博徒(ばくと)とを水底に葬る。
(タイタニック号沈没は、1912年4月14日 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF_(%E5%AE%A2%E8%88%B9) )
天然は人を選ばない。同一の黴菌(ばいきん)は、信者を冒(おか)し、不信者を冒す。善人で不運な人があり、悪人で幸運の人がある。天然の前には善悪正邪の別はない。そして死は、万人に対するその最後の宣告である。
天然は、神を離れて自動する。そして神は天然を離れて人を恵まれる。人の肉体は、これを天然に委ね、彼の霊魂は、自らこれを宰(つかさ)どられる。
不運の人に聖(きよ)い心をお与えになり、幸運の人をその欲するがままに任せられる。貧者に心の満足をお与えになり、富者は欠乏をますます強く感じる。
死は恩恵として信者に臨み、刑罰として不信者を襲う。天然は、神より独立して、わずかに浅い物界を掌るに過ぎない。深遠極まりない霊界と、これに伴う生命の泉とは、今なお神の直轄の下にある。
それだから何を恐れようか。神は雷霆を以て轟かれない。細い声でささやかれる。洪水を以て罰されない。彼を憎む者からその聖顔(みかお)を背けられる。肉体を癒されず、霊魂を活かされる。彼を愛する者を死にわたされる。そして
死によって生命に導かれる。
神は天然に干渉されない(非常特別の場合を除いて)。そして天然の外に立って、彼の恩恵を施される。天然の神は、霊魂の神ではない。そして実に、旧約の神は新約の神ではない。
イエス・キリストの御父である真の神は、今や疫病でその敵を撃たれない。天から火を降して、御自分に逆らう者を滅ぼされない。今や神の恩恵は人の霊魂に降り、その刑罰もまたその霊魂に臨む。今や天然は、神が無いかのように働くのである。ゆえにこれを称して信仰の時と言うのである。
(3) 恩恵の内外
身の幸運が悉く私の身に集まり、私の肉体は健全で長命、家は栄えてその中から一人の死者も出ることなく、事業は成功し、名は挙がり、貴尊と光栄とを身に纏っても、私は必ずしも恵まれた者ではない。
私がもし神の聖顔(みかお)を拝することができず、キリストにおいて顕れた彼の心を知ることができなければ、私は憐れむべき幸薄い者である。
これに反して、逆運が踵(きびす)を接して私の身に臨み、疾病は私の肉を撃ち、死は私の家を襲い、私の事業は失敗の連続で、私の名は世に忌み嫌われ、侮辱と嘲笑とが私を囲んでも、私は必ずしも呪われた者ではない。
私がもし聖霊の降臨に与り、窮してますます神の子の自由に入ることができるなら、私は実に恵まれた、祝福された者である。
「
我等は見ゆる所に憑(よ)らず、信仰に憑りて歩む」(コリント後書5章7節)のである。私達は、目に神の恩恵を見たいとは思わない。また彼の怒りを認めたいとは思わない。
神は私達を内に恵まれる。また私達を罰するに当っては、私達の内を去って、そこに耐え難い空虚を感じさせられる。
(4) 誤解の幸福
誤解されることは、善いことである。人に誤解されることなしには、神を正解することはできない。誤解の暗中に在ってだけ、よく天上の光を仰ぐことができるのである。
誤解は私を内の人にし、また神の人にさせる。誤解は私を深くし、また高くする。願う、社会と教会よ、願う、私に関する君達の誤解を続けよ。そしていつまでも君達の知らない所で神と親しみ、君達の行かない所にキリストの福音を伝えさせよ。
君達の同情、歓迎ほど、私が恐れるものはない。私はいつまでも君達の目に、「国賊」、「危険人物」、「異端論者」、「教会の狼」として存したいと思う。
2.忌避か通過か
EK と APO の区別
ek と apo とは、ギリシャ語における二つの前置詞である。二者共に英語の from または日本語の「から」あるいは「より」とか訳すべき詞(ことば)であって、その大体の意味においては同じであるが、しかしその間にまた相違点がある。
apo は単に「から」という意味であって、 ek は「その中から」と訳すべきものである。そしてこの相違を認める結果として、聖書の解釈上大きな相違が生じて来るのである。
イエスの最後の祈祷の一節として、次の言葉が伝えられている。
今、我心憂へ悼(いた)めり。我れ何を言はんや。父よ此時より我を救ひ
給へと言はんか。否な、是れがために我は此時に至れるなり。
(ヨハネ伝12章27節)
もしこの一節を日本訳の通りに解すれば、イエスはこの場合において、死を免れることを祈ったのである。「父よ此時より我を救ひ給へ」と。この時に自分に臨もうとする苦難から救って下さいと祈ったのである。
しかし、イエスは果してそう祈ったのであろうか。イエスは果して死を恐れたのであろうか。イエスは果して、十字架を避けようとしたのであろうか。
「
父よ、若し聖意(みこころ)に適(かな)はば此杯を我より離(はな)ち給へ」(マタイ伝26章39節)と祈ったとあるから、あるいはそうであったかも知れない。
しかしながら、ヨハネ伝のこの一節に現れた死に対するイエスの態度は、「より」という一語の意味によって決せられるのである。ここにおいて、「より」は ek(エック)であるか、 apo(アポ)であるか、研究者はその事を弁(わきま)える必要があるのである。
そしてここでは、 apo ではなくて、 ek が用いられているのである。ゆえにイエスは、この時単に苦難から救って下さい、即ち苦痛から免れさせて下さいと祈ったのではない。
この時の
中から私を救って下さいと祈ったのである。即ち十字架の苦痛に私を導かれても、私がその苦痛に負けることなく、私が父の命に服して、その後に見事にこれに勝つことができるようにしてくださいと祈ったのである。
十字架を除いて下さいと祈ったのではない。十字架に当り、その苦痛に入り、これを通過して、死と墓との彼方において、私を活かして下さいと祈ったのである。
ek は「中から」である。苦痛の「中から」である。苦痛を通過してからである。「此時より救ひ給へ」とあるのは、「この時に臨んだ苦痛を通過して、その後にその中から私を救って下さい」という意味である。
そしてそのように解すれば、イエスのこの祈祷が最も勇ましくなるのである。イエスはこの場合において、彼に臨んだ苦痛から免れることを、女々しく願ったのではない。彼はこれに当る覚悟を決めた。彼はただ十字架が恥辱として終らないように祈ったのである。
死に遇って、死に呑まれることなく、死によって終に死に勝つことを祈ったのである。そしてこれは、イエスにとって適当な祈りである。
実にヘブル書記者が言った通りである。「
是れ死をもて死の権威を有てる者即ち悪魔を滅ぼし、死を畏れて終生繋(つな)がるゝ者を放たんためなり」(ヘブル書2章14、15節)と。
イエスがもしこの場合において死を免れることができたならば、肉と血をそなえ、一度は必ず死すべき私達は、如何にしてイエスによって慰められ、かつ救われることができようか。
しかし、イエスはもちろんこの場合に死を免れたいと思われたのではない。彼は「父よ此時より我を救ひ給へ」と祈ったのではない。「此時を通過して後に、
その中より我を救ひ給へ」と祈ったのである。
そしてイエスのこの祈祷に対する父の応えは、復活であったのである。イエスは死んで葬られ、第三日に復活して完全に死から救われたのである。
このようにして、イエスの死は死ではなかった。死の通過であった。ゆえにこれを称して死(thanatos)とは言わない。脱出(exodus)と言う。
ルカ伝9章に記された変貌の山におけるモーセとエリヤとの対話において、彼等「
栄光の中に現はれてイエスのエルサレムに於て既(もは)や世を逝(さ)らんとする事を語る」とあるが、その中の「世を逝(さ)らんとする」とあるのは、確かに誤訳である。
モーセとエリヤとは、ここにエルサレムにおけるイエスの死について語り合ったのではない。彼の脱出(ek-odus)について語ったのである。即ちイエスの死に合せて、復活について語ったのである。
あたかも昔、イスラエルの子孫(ひとびと)が、モーセの指導の下に、エジプトを出て紅海を通過したのと同然である。イエスの場合において、出エジプト(exodus)は真正の意味において行われたのである。変貌の山において、モーセとエリヤとはイエスと相対して、彼の出エジプトについて語ったのである。
ゆえにルカ伝9章30、31節は、次のように訳すべきものであると思う。「
モーセとエリヤ栄光の中に現はれ、エルサレムに於てイエスに臨まんとする脱出に就て語れり」。
即ち死をこの世からの脱出と見ての言葉である。この場合においても、 ek であって、 apo ではない。死の忌避ではない。その通過である。
死に関する ek の意義は、さらに明白にヘブル書5章7節において現れている。「
彼れ肉体に在りし時、哀(かなし)み哭(なげ)き涕(なみだ)を流して死より己を救ひ得る者に祈れり云々」。
神を指して「死より己を救ひ得る者」と称したのは、「死を免れさせる者」という意義ではない。ここにおいても、「より」は ek であって、 apo ではない。神は人を「死の
中より救い得る者」である。死を彼に降して、後にその「中より」彼を救い出す者である。
即ち
復活の恩恵を以て、信仰の死に報いて下さる者である。神をもし単に死から救って下さる者、即ち死を免れさせて下さる者であるとすれば、彼の独子であるイエスさえ、この恩恵に与ることができなかったのである。
聖書に、「
エノクは居らずなりき」(創世記5章24節)とあり、「
火の車と火の馬現はれ、エリヤ大風に乗りて天に昇れり」(列王記略2章11節)とあるが、しかしその他に人が死に遇わずにこの世を去ったという例は無いのである。
「
一たび死ぬる事は人に定まれる事なり」(ヘブル書9章27節)とある。死は免れるべき事ではない。しかし、死の中から救われる事は、出来得ることである。そして神はこのようにしてイエスを救われた。そしてまたイエスに頼む私達を救って下さるのである。
ek(エック)と apo(アポ)、「より」と「中より」、詞(ことば)は短いが、その間に天地の別がある。死とこれに伴うすべての苦痛を免れようとするのが、この世の宗教の目的である。
死は単にこれを凶事と認め、苦痛はすべて神の刑罰であると思い、これを免れることを祈祷の第一の目的とする者は、すべて異教の信者である。
彼等は哀哭流涕(あいこくりゅうてい)して言う、「願う、死より救え」と。しかしキリスト者は、そうです、真正のキリスト者はそうは祈らないのである。彼等は、彼等の主に倣い、
父よ死を下し給ふも可なり。唯願ふ、其中より救出し給へ。我をして死
に勝たしめ給へ。死を通過して不死の生命に達せしめ給へ。
と祈るのである。また死に限らない。すべての艱難に対してもそうである。真のキリスト者は、艱難から救われようとしない。艱難の
中から救われようとする。火を避けようとはしない。火の中に投げ入れられて、その中に在って潔められようとする。
死とすべての艱難(なやみ)に対しては、私達は ek(エック)を以て祈るべきである。apo(アポ)を以て祈るべきではない。
神癒と称して肉体の疾病(やまい)の治癒を以て神の特別の恩恵と見做す者は、キリスト教のこの精神を解しない者であると思う。最大の恩恵は、死から救われることではない。
死に遇って、その中から救われることである。
ラザロは死から救われて、再び死んだ。しかしながら、キリストによって死の中から救い出される者は、再び死ぬことのない生命に入るのである。このような者について、黙示録記者は言った。「
此輩(ともがら)の上に第二の死は権を執ること能(あた)はず」(20章6節)と。
実にek(エック)である。実にek(エック)である!
(博士ウィリアム・ミリガン著「主の復活」による。)
William Milligan:
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Milligan
「主の復活」:
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=The+Resurrection+of+our+Lord+
完