全集第20巻P68〜
平々凡々の記
信仰の実益 (夏期の読み物として多少の価値があろう)
大正2年8月10日
キリスト信者の生涯は、犠牲の生涯であると言う。実にその通りである。十字架は彼の付随物(つきもの)である。彼は多くの艱難を経て神の国に至るべき者である。
しかしながら、彼の生涯は、ただ単に辛い、希望と歓喜との伴わない窮乏のみの生涯ではない。いや、その正反対が事実である。キリスト信者に、人の知らない多くの歓喜がある。
彼は生命の中心において、活ける真の神を宿す者である。ゆえに彼は、喜ぶまいと思っても、喜ばざるを得ないのである。
世の人は、この事を知らない。そしてまた悪魔は、人がキリスト信者とならないようにするため、この事を蔽い隠して、ただ信者の生涯の辛い方面だけを挙げて、これを唱道して止まないのである。
なるほどキリストを信じて豪壮な邸宅に住むことは出来ないであろう。山海の珍味をほしいままにすることは出来ないであろう。帝王の殊恩(しゅおん)に与かり、国民の衆望を博することは出来ないであろう。
しかし、そのために信者の生涯に幸福がないと言うことは出来ない。キリストが言われたように、「
我に汝等の知らざる食物あり」であって、信者を養う真の食物は、畑や丘が産することの出来る物ではない。
そしてその聖(きよ)い真の食物は、神が供えて下さった聖(きよ)い子羊であると聞いて、世の人は何の事であるか、もちろん解らない。しかしこれに、全世界の富を以てしても贖うことの出来ない生命の能力(ちから)が存することは、一たびこれを食った者には忘れたくても忘れられないところである。
神との平和が成り、これ(子羊)によって自分の義は全うされ、今はただ小児のような信頼の生涯を続ければ足りるという確信が起って、この世が供する何物もこれに代り得ないとの観念が起って来るのである。
キリストを信じて、私達に人の称する煩悶なるものは消えて、その跡を絶つに至るのである。私達は、今は我慢して静粛満足を装うのではない。私達は実に誠に存在の根底から、幸福の人とされたのである。
そしてこの歓喜と満足とを供せられて、私達の霊魂ばかりではなく、私達の肉体までが奮起活動の境に入るのである。私達の心身を通じて大調和が臨むので、私達は朽ちるこの肉に在って、既に一種の復活を感じるのである。
私達が摂取する食物は良く消化し、私達の睡眠は安く、飢餓と失敗との恐怖は絶えて、私達は醒めて楽園に遊んでいるように感じるのである。単に肉体の医師の立場から見ても、これに勝って健全な衛生状態はないのである。
信仰は元々霊魂の事であって、肉体の事ではないが、しかし、信仰の肉体に及ぼす感化は、決して居住食物の類ではない。信仰は、生命をその根底において養う者である。
ゆえに信仰なくして真正の健康はない。そしてまた、信仰があれば糧(かて)と衣(ころも)と住(すまい)との欠乏は補われてなお余りあるのである。
諺(ことわざ)に言う、生命は食にあると。実にその通りである。しかしながら、食(しょく)だけが食ではない。食は肉と穀類と野菜に限らない。空気も食であれば、日光も食である。そして平和な心は、最善最良の食である。
そしてキリストが私達に与えて下さる「人のすべて思ふ所に過ぐる平安」は、実に百薬の長である。そして常にこの霊薬を服すれば、私達の肉体は健やかにならざるを得ない。「我が血は真の飲物、我が肉は真の食物」であるとキリストは言われたが、実にその通りである。
そしてまた、霊の食物に止まらない。神は私達の信仰に対して、肉の食物で報いて下さるのである。「信仰の生涯の終る所は餓死である」と言うのは、大きな誤謬である。私は未だかつて、信仰ゆえに餓死した者があると聞いたことはない。この点において私の実験は、昔の聖詩人のそれと異ならない。
「
我れ昔し若くして今老ひたれども、義者(神に依り頼む者)の棄てられ、其裔の糧(かて)を乞ひあるくを見しことなし」(詩篇37篇25節)とある。神は驚くべき方法によって、彼に依り頼む者の肉体を養って下さる。荒野におけるマナとウズラの奇跡は、今もなお信者の間に絶えない。
信仰は、時には餓死の決心を以てこれを守らざるを得ないが、しかし、信仰のゆえに餓死することは、滅多に無い。たとえまた、万一餓死することがあるとしても、喜んで餓死することが出来る。
世には君王の寵に与ろうと思って、反って餓死した者がいる。富貴を目的に営利事業に従事して、窮乏に終った者は数え上げることができないほどである。
ところが神を信じるゆえに時に窮乏に苦しむ者があるのを見て、信仰の必然的結果は餓死であると言うのは、信仰を避けようとするために設けられる口実に過ぎない。
シェークスピア劇における宰相ウルシーは、彼の老年において歎いて言った。「
我れ若し我が王に事(つか)へし半分の熱心を以て我が神に事へしならば、神は我が老年に於て我を此悲境に置き給はざりしならん」と。
そしてウルシーに限らない。この世の才子佳人で、老年における悲境を慮(おもんばか)り、神に仕える熱心を以てこの世の君に仕えて、ウルシーの痛恨を繰返す者は甚だ多いのである。
餓死の危険は不信の生涯に多くて、信仰の生涯に少ない。この世を平安に送る道としても、信仰の生涯は最も安全な生涯である。
殊に信仰の生涯は、その終りに近づくにしたがって、光輝がますます加わる生涯であることを忘れてはならない。信仰の生涯だけが、真の悔いのない生涯である。
世に生れ出た甲斐があることを感じ、意味ある生涯を送ったことを感謝し、永生の希望を懐いて逝く、これに比べてみれば、最も成功した政治家の生涯も、芸術家の生涯も、学者の生涯も、富豪の生涯も、児戯である。夢である。
年は老い、学は古び、芸は衰え、富は消える。ただエホバに依り頼む心だけが、夜が至ると同時に、いよいよ輝きを増す。
この世の才子は、信仰の生涯の危険を唱えて中途でこれを捨て去る。彼等は、自分の才に欺かれて、航海の途中で巨船を捨て去って小船に乗り移るのである。
世にはまた、信仰の生涯は孤独の生涯であると言って、これを避ける者がいる。実に信仰の生涯は交際の生涯ではない。信仰の生涯は、独り神と共に歩む生涯である。ゆえに静粛の生涯である。多くは無言の生涯である。
信仰は、自ら進んで交際を求めない。世人の交際を求めないだけでなく、信者との交際をも求めない。信仰はただ神だけで満足する。ゆえに真の信仰は、自ずから無教会主義である。
教会に入ることを信仰に入ると言うのは、大きな間違いである。信仰は、集会的にこれを養うことは出来ない。神の恩恵は、多数の勢力によって、これを奪取することは出来ない。
多くの場合においては、人は教会に入って、反って神から遠ざかるのである。教会は信仰修養の場所ではない。信者の交際場裏である今日の教会は、信仰の抹殺所である。
しかしながら、信仰の生涯は孤独の生涯ではない。独り神と共に歩む生涯であるので、同じく神と共に歩む者と、深い霊交に入る生涯である。園の中に日の涼しい頃、独りエホバと共に歩むに当って、信者は同じ聖(きよ)い逍遥(しょうよう)を楽しむ他の聖(きよ)い友に会合せざるを得ない(創世記3章8節)。
そしてここに聖(きよ)くて深い交際が始まるのである。うるわしく涼しいエデンの園において、神に在って結ばれた交友、……交際の種類は多いが、これに優ってうるわしく楽しい交際はないのである。
人は友誼(ゆうぎ)を口にするが、信仰の友誼を知らなければ、未だ友誼が何であるかを知らないのである。「
ヨナタンの心ダビデの心に結びつきてヨナタン己れの生命(いのち)の如くダビデを愛せり」(サムエル前書18章1節)とあるその友誼は、神と共に歩むのでなければ、結ぶことの出来ない友誼である。
我等の心をキリストの愛に
繋ぐ其索(つな)は祝すべきかな。
斯(か)く繋がれし者の交際(まじわり)は、
天のそれにさも似たり。
そのような友人を一人持つのは、千万人のこの世の友を持つのに勝る。境遇の友ではない。趣味の友でもない。政友、党員、教会員と称するような、ただの外面(うわべ)の友ではない。信仰の友である。祈祷の友である。霊魂の最も深い所において相愛し、相敬う友である。
この身が死ねば止んでしまう友誼ではない。この世が失せれば消えてしまう友誼ではない。地に始まって天に終る友誼である。骨肉の関係よりも深い、夫婦の関係よりも聖(きよ)い、霊と霊との関係である。世に貴いものは多いが、クリスチャンフレンドほど貴いものはないのである。
そしてそのような友誼を、我国においてだけでなく、世界万国、至る所で結び得ることを知って、信仰の生涯が最も広い交際の生涯であることを知るのである。
キリストの愛に人種国籍の差別はない。キリストの愛によってのみ、白人は黒人の友と成ることが出来、東西相化して、一体となることが出来る。キリストを離れての世界合同万国和親は、夢みる人の夢である。霊を霊とつなぐ能力(ちから)は、キリスト特有の能力(ちから)である。
このようにして、信仰の生涯は決して孤独寂寥(せきりょう)の生涯ではない。反って不信の生涯こそ、最も淋しい生涯である。
神を離れて本当の交際はない。不信者の交際は、単に「突き合い」である。偶然の接触である。あるいは酒で結ばれ、あるいは地位で結ばれ、あるいは趣味で結ばれ、あるいは惰性で結ばれる暫時的な交際である。
そして人が人である以上は、彼は霊魂の友を要求して止まないので、不信の人は、たとえ身を交際場裏に埋(うず)めて世界を友とするように見えても、実は広い宇宙に独り立って、癒し難い寂寥を歎く最も憐れむべき孤独者である。
孤独を恐れて信仰の生涯を避ける者は、餓死を恐れて豊かな食事を避ける過慮(かりょ)の人と称せざるを得ない。
世にはまた、信仰の生涯を迷信の生涯だと思う人がいる。実に信仰は理屈一方の事ではない。信仰は詩歌的であって、超天然的である。知識で悉く説明できるものは、信仰ではない。
しかしながら、信仰は迷信ではない。信仰と迷信との間には、大きな差別がある。原因に添わない結果を信じることは迷信である。しかし、原因相応の結果を信じることは迷信ではない。
パウロはアグリッパ王に告げて言った。「
神、死者を甦らせ給へりと云ふとも汝等何ぞ信じ難しとする乎」(使徒行伝26章8節)と。
人が死者を甦らせたと言うならば迷信であろう。しかし、天地の造主で生命の主である
神が死者を甦らせられたと信じることは、決して迷信ではない。神に為し得ない事はない。神の業と見れば、奇跡は奇跡でなくなるのである。世に信仰を迷信視する者がいるが、それは神を度外視するからである。
それだけではない。信仰は道徳的であるのに反して、迷信は不道徳でなければ無道徳である。理由のない奇跡を信じるのは迷信である。しかしながら、理由のある奇跡はこれを信じても決して迷信ではない。
単に天然の現象として見れば、いわゆる「処女出生」を信じることは大きな迷信である。しかしながら、人類の救済上その必要があったことを覚るなら、これを信じることは、決して迷信ではない。
理のない奇跡、用のない奇跡、これを信じるのは迷信である。理由があり必要があった奇跡を信じるのは信仰である。迷信と信仰との間には、明白な差別がある。
そして事実上、信仰の人は決して迷信の人ではない。信仰の人は常識の人であって、多くの場合においてはまた博識深慮の人である。
今日まで大哲学者または大科学者で信仰の人であった者は、決して少なくない。ニュートンの信仰は、最も誠実なものであった。カント、ライプニッツもまた敬虔な信仰家であった。
実に真の信仰ほど迷信を排除するものはない。迷信を根本的に排除するものは、科学でもなく、また哲学でもない。真の神とその不思議な聖業(みわざ)を信じる者こそ、実に迷信をその根本において絶つことの出来る者である。
完