全集第20巻P209〜
経済上の独立 他
大正3年1月10日
1.経済上の独立
経済上の独立は、最上の独立ではない。その上に思想上の独立がある。信仰上の独立がある。私達は、経済上の独立に達したからと言って、敢えて安心すべきではない。もちろん誇るべきではない。
しかし、
経済上の独立は、すべての独立の始めであって、その基礎である。先ず経済的に独立しなければ、思想的にも信仰的にも本当の意味においての独立に達することは出来ない。
経済は肉に関する事であるが、しかし、霊に及ぼすその感化は、甚だ強大である。人が肉である間は、彼は経済的に自由でなくては、その他の事において自由であることは出来ない。
ゆえにすべて自由を愛する者は、先ず第一に自分の経済的独立を計った。哲学者としては、スピノーザとショウペンハウエル、文学者としてはエマソンとカーライル、美術家としてはレンブラント、彼等は自由を愛したので、経済的に独立であった。
哲学者カントでさえ、プロシャ政府から俸給を仰いだ結果、幾回か彼の自由唱道を妨げられた事は、人のよく知るところである。
独立の無い所に自由は無い。そしてすべての独立は、経済的独立から始まるのである。
自由キリスト教の元祖は使徒パウロである。そして彼が如何に経済的独立を重んじたかは、聖書が明らかに示している。
「
彼れ(パウロ)その業を同じくするに由りて、之(アクラとプリスキラ)と共に止まりて工(わざ)を作(な)しぬ。彼等の職業は、天幕を製(つく)る事なり」(使徒行伝18章3節)とある。
パウロはまた、エペソの信者に対し告別の辞として述べて言った。「
我が此手は(自分の手を挙げて言ったのであろう)……我が此手は、我れ及び我と共に在りし者の需用(もとめ)に供えし事は、汝等が知る所なり」(同上20章34節)と。
即ち彼は彼の手の業によって、彼ならびに彼と共に在った者の衣食の料を
かせぎつつ、彼の伝道に従事したとのことである。「
何物をも人に負ふ勿れ」(ロマ書13章8節)とは、彼の主義であった。
彼は、テサロニケの信者に書き送って言った。「
我等汝等の中に在りて……他人のパンを価(あたい)なしに食することなく、人を累(わずら)はさざらんために労苦して昼夜工(わざ)を作(な)せり」(テサロニケ後書3章8節)と。
これらによって、彼の伝道法の一斑(いっぱん)を窺うことが出来る。パウロは信仰において優れていたばかりではない。また常識においても優れていた。
彼は代価を支払わずに他人のパンを食って自由の福音を伝えることは、実際的に不可能な事であることを知った。ゆえに多くの不便を忍びつつ、終生経済的独立を守ったのである。
そしてパウロだけに止まらない。今の伝道師にしても経済的に独立していなければ、自由の主であるイエス・キリストの福音に忠実であることは出来ない。天主教会のパンを食う者は、自ずから我意を曲げても天主教会の命に従おうとする。
聖公会のパンを食う者は、自ずから聖公会の教義に拠って立とうとする。メソジスト教会のパンを食う者は、メソジスト主義に傾き、バプテスト教会のパンを食う者は、バプテスト主義を弁護する。
これは人情がそうさせるところであって、実に止むを得ない次第である。
殊に黄金に最高の価値を置く米国人の補給を受ければ、私達は彼等の束縛を受けまいと思っても、それは出来ないのである。
もちろんもらうのであって、盗むのではない。もらうのは決して罪ではない。私達は、米国または英国、フランスまたはロシアの宣教師から補給を受けても、それは決して神に対して罪を犯すのではない。
彼等は喜んで与えようとするのであるから(たいていの場合においては)、私達もまた喜んでこれを受けても、道徳的に何の差し支えも無いのである。ゆえに問題は、罪であるかないかということではない。利害の問題である。福音宣伝のためを計っての、利害の問題である。
「
凡(すべ)ての物我に可(よ)からざるなし。然れど凡ての物益あるに非ず。凡ての物我に可(よ)からざるなし。然れど凡ての物徳を建つるに非ず」(コリント前書10章23節)とパウロは言った。
経済上の依頼は、私の自由の思想と信仰とに害がある。また他に信仰を勧めるのに害がある。ゆえに私はこれを避けるべきであると言うのである。
単に経済上の独立であると言ってこれを実行しない者は、この問題がどれほど深い影響を及ぼすかを知らない者である。いわゆる宗派の害なるものは、詮(せん)じつめれば、経済的依頼の害に帰着するのである。
もし伝道師が各自の教会から補給を仰がなくなれば、その時に宗派の害の大部分は、全く取り除かれるのである。
教師が異なった教義を唱えるのではない。教会の金が彼等にこれを唱えさせるのである。これは明白な事実である。人がもし私のこの言葉を疑うなら、大胆に経済的独立を実行して、その真偽を実験すべきである。
今や教義を闘わす必要はない。教義を闘わす前に、先ず経済的独立を断行すべきである。天主教会のパンを食う天主教会の教師から、天主教会の教義について聴く必要はない。
聖公会のパンを食う者の聖公会の弁護は、一顧の価値もないものと見て、差し支えはないと思う。その他の教会の教義もまた悉く同じである。たとえ自由攻究を標榜するユニテリヤン教会の主張であっても、そのパンを食う者からこれを聴くのは全く無益である。
ゆえに私は言う、先ず経済的に独立せよ。そしてその後で真理と自由とについて語れと。甚だ野卑な言葉のように聞こえるけれども、
胃の腑の独立は、頭脳と霊魂との独立に先立つべきである。胃の腑が独立すれば、頭脳と霊魂とは自ずから独立するであろう。避けるべく、忌むべきは、胃の腑の束縛である。
すべて独立の人は、一致する。経済的に独立して、ここに始めて信徒の真の一致和合を見ることが出来るのである。しかしながら、その事を行わなければ、百年千年協議を続けても、真の一致は決して来ない。求めるべく、慕うべきは、経済上の独立である。
2.私達の事ではない
カトリック教と言い、プロテスタント教と言い、監督教会と言い、メソジスト教会と言い、組合教会と言い、ユニテリヤン教会と言う。これ等は皆、外国人の事であって、
私達の事ではない。
私達は、彼等の論争を輸入して、私達の論争とすべきではない。私達は日本人であり、キリストの弟子である。ゆえにすべての外国の教派を脱却して、一体となるべきである。
3.孤独と少数
聖書の研究である。ゆえに不信者に受けられない無教会主義である。ゆえに宣教師と教会とに受け入れられない。右にも受け入れられない。左にも受け入れられない。しかし、楽しみはその中に在りである。
主イエスは言われた、「
二人三人我が名に由りて集れる処には、我も亦其中に在り」(マタイ伝18章20節)と。彼はまた言われた、「
小さき群よ懼るゝ勿れ。汝等の父は喜びて国を汝等に与へ給ふ」(ルカ伝12章32節)と。
「二人三人」と言われ、「小さき群」と言われて、社会とは言われない。天下を三分すると称する何教会と言われない。預言者イザヤは、未来の希望を少数の残党(レムナント)の上に置いた。
キリストの聖旨(みこころ)は、この世においては決して多数によって現れない。この世においては、多数は必ず世俗の思いである。ゆえに多数を誇るのは、自ら世俗的であることを証明するに等しくなる。
徳は
孤ならずとは言うが、徳は
多数なりとは言わない。「二人三人」あれば足りる。カーライルは常に言った。「読者よ、我と汝と」と。 Thou (ザウ) である。 Du (ドゥー) である。天下の同志よではない。満堂の諸君よではない。大教会ではない。「小さき群」である。主イエスはその中に居られるのである。
それだから、何を懼れようか。孤独は実に結構である。少数は実に楽しい。天下はこれを、三大教派の三分に任せよう。しかし静かな冬の夕べに聖書を読み終って後に、一人一人名を指して、私の教友のために祈ろう。
4.米国人の信仰は……
米国人の信仰は制度的である。政治的である。その意味において、米国は今や世界第一の天主教国である。
5.自 覚
自覚は自己の発見である。そして普通の場合において自己の発見と言えば、自己の価値がないことの発見である。「
善なる者は我れ即ち我肉(肉欲的自我)に在らざるを知る」(ロマ書7章18節)とは、パウロの自己の発見の結果であった。
人は誰でも自己を発見して、その空乏に驚かざるを得ない。才はない。能力(ちから)はない。善なる者は私にないとは、彼が自己について言いたくないと思っても言わずにはいられないところである。
そのようにして彼は、神に頼らざるを得なくなるのである。そうして彼は真に謙遜になるのである。
自己発見の必然的結果は、信仰と謙遜とである。
しかしながら、自覚はここに止まるべきではない。自覚は自分が無一物であることの発見に止まるべきではない。そしてたいていの場合においては、自覚がこれ以上に達しないので、謙遜は反って自棄となり、自信欠乏に終るのである。
自己の無知無能を認めて、それ以上に達しなければ、人は他人の奴隷となるまいと思っても、それは出来ない。そして彼がこの状態に在る時に、彼は教会の僧侶に乗じられるのである。
君は何事をも知らない。ゆえに神に遣わされた私に聴きなさいと言われて、自己空乏の発見者は、これに答える言葉がないのである。それで彼は止むを得ず、新たに光明を得ようとして、僧侶に聴き、その言うがままを信じ、そして謙遜(実は卑屈)のゆえに神の救いに与かったと言って、独り自ら喜ぶのである。
何と危いことか、自覚は! 自己の発見、自分が弱い事を覚り、無知と無能とを悟った時に、彼は教会の僧侶と言う霊界の禿鷹(はげたか)に掴(つか)み去られるのである。警戒しないで良かろうか。
しかしながら、自覚は自己空乏の発見に止まらない。人は自己を発見して、そこに神の自顕に与かるのである。
自己空乏の発見は、神霊充実のために必要なのである。天然は空虚を嫌うと言う。そして神もまた天然と等しく空虚の存在を許されないのである。
神が人に謙虚になるように迫られるのは、人が神によって充たされるためである。汚水を排除するように迫られるのは、汚水に代えて清水で充たすためである。排水された池は、永久に乾燥の状態に在るべきではない。池は直ちに清水の注入を受けて、澄んだ景況を呈するべきである。
自己発見は、天賦天職の自覚に終るべきである。
私には何も善いものはないと。私はその事を知る事ができて、神に感謝する。
しかし、私には
神から授けられた才能があり、私にはまた私でなければ出来ない一つの事業が、私に委ねられていることを信じる。神は空無として私をお造りにはならない。私は個人として彼に造られたのである。
自覚以前の私は、私を我がものと解して誤ったのである。我がものとしての私は空無である。無意義である。罪である。しかし、神のものとしての私は、決して価値のない者ではない。いや実に、神のものとしての私には、永久の価値がある。
神のものとしての私は、人の奴隷となってはならない者である。神の僕である私は、僧侶の誘導に与かる必要はない。私は、我が主である神に頼って、人に対しては絶対的に独立であると、自覚は終にこの確信に達すべきである。
このようにして、神に頼る自覚は、謙遜であって同時にまた独立である。自ら己を低くすると同時に、また神によって高く挙げられる。私は万事を知るとは言わない。
いや実に私達の知識は不完全であって、私の知識は宇宙の小隅に限られる。しかし、私が知り得ただけの知識は、神が私に示されたものであって、私が
確知するところである。
私はまた、万事を為し得るとは言わない。しかし、私に有るだけの能力(ちから)は、神が私に分け与えて下さったものであり、私が
確有するところである。
私は神に対しては、弱い能力(ちから)のない嬰児であるが、しかし物と人に対しては、一人の成人(おとな)である。私は
ある事を神に示され、ある事を為すべく
ある力を与えられた者である。
私は、真理と事業に対して、絶対的に嬰児(あかご)ではない。私は信じて疑わない。
私は教会の赤子ではないことを。
このようにして私は、僧侶の誘導と恐喝とを排斥することが出来る。
彼等がもし使徒ペテロの言葉として、「
今生まれし嬰児(おさなご)の乳を慕ふ如く汝等心を養ふ真の乳を慕ふべし。之に由りて汝等生長(そだち)て救(すくい)に至らん」(ペテロ前書2章2節)と言って私に望むならば、
私はエペソ書記者の言葉によってこれに答えるであろう。「
今より後嬰児(おさなご)ならず。人の詭譎(いつわり)の術(てだて)の誘惑(ゆうわく)の巧にただよわさるゝことなく、各様(さまざま)の教の風に揺動(うごか)されず、愛を以て真理を行ひ、長(そだち)てすべての事首(かしら)なるキリストに倣ふべし」(エペソ書4章14、15節)と。
自覚が確信に終って、私は数限りない信仰箇条または神学説に漂わされることなく、愛と謙遜とを以て真理を行い、徐々に成長してすべての事において、主なるイエス・キリストに倣う者となることが出来るのである。
6.謎の聖書
世に聖書ほど広く知れ渡った書はない。同時にまた聖書ほど人に知られない書はない。世に聖書ほど人にもてはやされる書はない。同時にまた聖書ほどなおざりにされる書はない。
聖書は最も普通な書である。路傍の雑草のように、また川端の小石のように普通である。しかしながら、雑草と小石とを解する者が少ないように、聖書を解する者は少ない。
世人と教会とは、ベルグソン研究、オイケン研究、モーパッサン研究には至って熱心であるが、聖書研究には甚だ冷淡である。彼等は、「教会の書」としてこれを見、「お経」としてこれを崇め、そして自身はその中にある深い真理に触れようとしない。
彼等は聖書聖書と言ってこれを称賛する。しかしながら、これを学んでその教訓に服従しようとはしない。
実に公然の秘密とは、聖書のことを言うのである。誰でもこれを手にすることが出来るが、ただわずかに、ごく小数の者だけが、その教示に与かることが出来る。
聖書は、浅く観られるが、実は奥の知れない書である。凡庸視されるが、知識の本源である。聖書はその主人公であるキリストと等しく、「
匠人(いえつくり)の棄(すて)たる石にして屋(いえ)の隅の首石(おやいし)となれる者」(ルカ伝20章17節)である。
完