全集第20巻P336〜
天国の律法
マタイ伝5章17節以下の研究
大正3年5月10日
2月22日、柏木聖書講堂における講演の要点
「
律法はモーセに由りて伝はり、恩寵(めぐみ)と真理(まこと)はイエス・キリストに由りて来れり」(ヨハネ伝1章17節)とある、だからキリストの福音に律法(おきて)は無いと言うならば、それは誤謬である。
キリストの福音にも律法がある。モーセのそれよりも遥かに深く、かつ聖(きよ)い律法がある。イエスはここに
天国の律法を宣べられつつあるのである。
使徒ヤコブは、これを称して「
自由なる全き律法(おきて)」と言った。束縛するための律法ではなくて、釈放するための律法(おきて)である。また強いられて行う律法ではなくて、愛に励まされて行う律法である(ヤコブ書1章25節)。
イエスが宣(の)べられた天国の律法は、モーセの律法を壊して、その上に建てられた者ではない。イエスは破壊者ではない。彼は旧いものを壊して、その上に新しいものをお築きにはならない。
彼は旧いものに、その精神を発揮させ、新しいものとして、これを世に供される。蕾(つぼみ)を壊して新たに花を造られず、蕾を花として開かせられる。律法(おきて)と預言者とを廃さず、これを成就されるというのはこの事である。
現代の哲学の言葉で言うならば、イエスはモーセの律法を廃棄されずに、これを進化させられる。モーセの律法の精神を発揮させて、これをその真正の意味において行うことを出来るようにされる。
今試みにこれをモーセの律法のある条項について例証してみよう。十戒第6条に、「
汝殺す勿れ」と言われている。実にその通りである。しかしながら、殺すということは、肉体の生命を奪うことに止まらない。
理由なしにその兄弟を怒ることも、また殺すことである。憤怒(ふんど)、仇恨(きゅうこん
:あだ。うらみ)、誹譏(ひき
:そしること)、讒謗(ざんぼう
:そしること)、これらはみな、殺人の罪である。
殺人は、外の行為ではない。内の心状である。
人を憎む者は、彼を殺す者であると、イエスはそのように十戒の第6条を解釈されたのである。
それでは十戒第7条はどうか。「
汝姦淫する勿れ」とある。しかしながら、姦淫するとは単に肉体を汚すことではない。邪念を以て婦(おんな)(他人の妻)を見る者は、心中既に姦淫の罪を犯したのである。
饕餮(とうてつ
:金銭をむさぼること、飲食をむさぼること)、酔酒(すいしゅ)、放肆(ほうし
:放逸:わがまま。きまま)、汚穢(おわい)、これらはみな、姦淫の罪である。姦淫もまた殺人と同じく、外の行為ではない。内の心状である。
情性の汚れた者は、すべて姦淫を犯す者であると、イエスはそのように十戒第7条を解釈されたのである。
同一の筆法によってまた、十戒第9条をも解釈すべきである。偽りの証を立てるとは、法廷に出て、法官と同胞とを欺くことばかりではない。誓約を立てること、その事が神と他人と自己とを欺くことである。
明日どうなっているかさえ知らない人が、どうして誓約実行を確証出来ようか。彼に為し得る事は、ただ「
主もし許し給はば我此事を或ひは彼事を行(な)さんと言ふ」ことだけである。十戒の第9条を完全に守ろうと思うなら、誓約は絶対的にこれを廃止せざるを得ない。
さらに十戒以外の律法(おきて)に就いて言うならば、復讐は絶対に禁じるべきである。人がもし私の右の頬を打つなら、また左の頬をも向けて、彼にこれを打たせるべきである。絶対無抵抗主義、天国においては、軍備、警察はもちろん、民法または刑法もまた在るべきではない。
悪に抗しないだけに止まらず、さらに進んで悪人を愛すべきである。敵と味方との区別を立ててはいけない。味方を扱うのと同じように敵を扱うべきである。
神はその陽(ひ)を善い者にも悪い者にも照らし、その雨を義人にも罪人にも降らせられるように、一視同仁の立場に立って、自己を愛する者を愛するように、自己を憎む者、また悩ませ迫害する者をも愛するべきである。
以上を以て天国の律法は尽きたと言うのではない。しかしながら、以上によって天国の律法の一部を窺うことが出来るのである。それがモーセの律法(おきて)と異なる点、それがこれに優る点は、以上の引例によって推知することが出来る。
十戒のすべて、その他、旧約のすべての律法は、以上の判例によって解釈されるべきである。
よって知る、イエスがここに宣べられたものは、天国の律法のすべてではなうことを。同時にまた、天国の律法は個々別々の律法(おきて)から成るものではないことを。
律法は一つである。一つの律法を種々様々な場合に適用しようとして、幾多の法規法条があるのである。この事を最も明らかに言い表したのが、使徒ヤコブである。
人、律法(おきて)を悉く守るとも、若し其一つに躓(つまず)かば、是れ全
部(すべて)を犯すなり。それ姦淫する勿れと言ひ給へる者亦殺す勿れと言
ひ給ひたれば、汝等姦淫せずとも、若し殺すことをせば、律法を犯す者
となる也(即ち姦淫の罪をも併せ犯す者となる也)
(ヤコブ書2章10、11節)
とある。天国の律法は、これを一括して考えなければならない。これは、
特に殺人を戒め、または
特に姦淫を戒めた律法(おきて)ではない。これは罪をその本源において糺(ただ)すための律法である。ゆえにこの罪かの咎を個々別々に裁くための律法(おきて)ではない。
この事を心に留めれば、いわゆる「山上の垂訓」を、人の過誤(あやまち)を裁くための法文として用いることが、如何に不当であるかが分かる。
イエスはここに、世のいわゆる民法または刑法を定められたのではない。たとえまたある人がイエスのこの律法を基(もと)に他の人を裁こうとしても、それはとうてい不可能である。
なぜなら、人は誰もこの律法(おきて)によって他の人を裁く資格がないからである。姦淫のゆえに人を裁こうと思う者は、自身未だかつて一回も邪念を懐いて婦人を見たことのない者でなくてはならない。
かつまた、律法は一つであって、殺人もまた姦淫の罪に問われるべき者であり、そして故なしに人を怒る者は、殺人の罪を犯した者であるとの事であるから、かつて一回でも憤怒の罪を犯した者は、殺人の罪に問われるべき者であるので、そのような人は、他の人が姦淫の罪を犯したからと言って、これを裁く資格を有(も)たないのである。
もしある人が、イエスが宣(の)べられたこの天国の律法を基として他の人を裁こうと思うならば、その人は右の頬を打たれた場合には、左の頬を向けて、これを打たせ、下着を要求された場合には、上着をも提供し、誰かが彼に求めるなら、自分の所有のすべてを与えて惜しまない者でなければならない。
もしキリスト信者がこの明白な事実を認めたならば、彼が今日まで臆面(おくめん)もなく犯してきた、イエスの「山上の垂訓」を基に他人を裁いて得意になるという恐るべき憎むべき罪から免れることが出来たであろう。
怒ることが殺人であることを忘れ、吝(おし)むことが貪婪(どんらん)であることに気が付かずに、自分が幸いにも犯さない罪を他人が犯すのを見れば、旗鼓(きこ
(旗を振り太鼓を鳴らして))堂々としてこれを責めるようなことは、これを偽善の行為と称せずに何と称すべきか。
イエスが唱えられた天国の律法を基に、いわゆる教会法(ecclesiastical laws)なるものを制定し、これを基に、この世の政府が社会の罪人を裁くように、信者を裁くのは、イエスの聖法(せいほう)の大きな乱用と言わざるを得ない。
「
我来りしは世を審判(さば)かんために非ず、世を救はんため也」(ヨハネ伝12章47節)と、彼は御自身に就いて言われた。それにもかかわらず、彼が宣(の)べられた律法によって人を裁くようなことは、殺人以上、姦淫以上の罪と称せざるを得ない。
それでは何のための天国の律法であるか。
他人を裁くための律法ではない。自己を裁くための律法である。人は誰も、これを基に自己を探り、自己を糾明(ただ)し、自己が何であるかを確かめるべきである。
そうするならば、人は誰でも言い逃れられずに、パウロのように、「
善なる者は我れ、即ち我肉(肉的自我)に在らざるを知る」(ロマ書2章1節、同7章18節)と、神の前に白状せざるを得なくなるのである。
そしてこの苦しい白状によって、彼はキリストに顕れた神の赦しの福音に接して、ここに始めて、天国の市民の第一の資格、即ち心霊(こころ)の謙りを得て、平和の生涯に入ることが出来るのである。
イエスは、彼の救いに与らない者にでも実行し得る律法として、これを宣(の)べられたのではない。一つにはこれによって各自に自己を糾弾させ、各自が自分の罪を見出して神の子の救いに与ることが出来るようにするためであり、
二つには、この救いに与かった者が、聖霊の恩化によって、終に実行し得るようになるために、この完全無欠、純粋無雑の律法(おきて)を宣(の)べられたのである。
天国の律法である。福音の一部分としての律法である。ゆえにこれは、福音の立場から解釈し、また福音の精神を以て適用すべきものである。
「
我れ矜恤(あわれみ)を欲(この)みて祭祀(まつり)を欲まず」(マタイ伝9章13節、同12章7節、ホセア書6章6節)とは、一言で明らかに神の聖意(みこころ)を言い表したものである。
神は人が神に対する時に、この精神を以て対することを望んでおられる。また神御自身が人に対する時にも、この精神を以て対されるのである。神は人が他人に対して矜恤(あわれみ)を施すことを、人が御自身に対して祭祀(まつり)を奉ることよりも好まれるのである。
そしてまた、御自身に在っても、矜恤(あわれみ)を人に施すことを、人が御自身に対して仕えまつる事よりも好まれるのである。即ちイエス・キリストの御父なる真の神に在っては、与えるのが前であって、受けるのが後である。
仕えるのは仕えられるのに優るのである。したがって神の立場から見て、信仰は道徳よりも肝要(かんよう)である。憐憫は正義よりも貴い。ゆえに天国の福音を宣(の)べられるに当っては、イエスは先ず天国の律法を宣べられずに、これに入る者の祝福(さいわい)を宣べられた。
「
福(さいわ)ひなる哉(かな)」とは、彼の開口第一番の言葉であった。そしてこの事を心に留めれば、5章17節以下の天国の律法を、いわゆる「山上の垂訓」の骨子とすることが、甚だ誤っていることを知ることができる。
トルストイ伯のキリスト教の解釈の根本的誤謬は、ここにあると言わざるを得ない。彼はイエスの教訓の重心を、彼が宣べられた律法に置いて、福音の全景を見損なったのである。
それだけではない。彼のこの誤解によって、福音は福音でなくて、重い重荷と化すのである。即ち肉の人間に不可能事を強いて、その罪を鳴らすに止まったのである。
しかしながら、イエスはそのように天国の律法を私達に提供されなかったのである。彼は福音の一方面として、これを宣べられたのである。矜恤(あわれみ)は彼の第一の要求である。そして第一に矜恤を要求される彼は、心の柔和な者であって、人に矜恤を施すことを最大最後の目的とされる者である。
「
我れ矜恤(あわれみ)を欲(この)みて祭祀(まつり)を欲(この)まず」と、彼は重ねて言われた。矜恤(あわれみ)は彼の生命の横糸でありまた縦糸である。
そのような矜恤(あわれみ)の主が定められた律法である。これを律法的に解釈することが間違いであることは、言うまでもなく明らかである。天国の律法は、矜恤(あわれみ)を施すための律法、矜恤に導くための律法、憐れんで適用するための律法である。
その事を弁(わきま)えずに、教会は恐るべき神の律法を地上に布(し)くための機関であるかのように思い、キリスト信者とは、キリストに代わって地上に人を裁く者であると思うのは、聖書の大乱用、福音の大誤解と言わざるを得ない。
「
我れ矜恤(あわれみ)を欲(この)みて祭祀(まつり)を欲(この)まず」、聖書解釈のカギはここに在る。これを用いて聖書の宝庫を開けば、その中から生命の甘泉は流れて止まない。
好い真珠と高価な真珠とはその中に山積し、汲めども枯れず、掘れども尽きず、私達は生きて永遠に至り、富んでその終る所を知らないのである。
完