全集第21巻P11〜
悔改の意義
大正3年7月10日
悔改(くいあらため)とは、ただ前非(ぜんぴ)を悔いることではない。断然と意を決して、旧い生涯を去って、新しい生涯に入ろうと思うことではない。悔悟(かいご)悔悛(かいしゅん)と言っても、新約聖書の悔改(くいあらため)が何であるかを示すに足りない。
悔改はもちろん善い事である。しかしながら、効果が至って少ない事である。そしてキリストは人を救うに当って、悔改と言うような浅薄で微弱な道に由ることはされない。
悔改、新約聖書に在っては、これをメタノイアと言う。
思意の変転という意味である。単なる行為の悔悛ではない。また品性の改善ではない。
思意の一転である。意識の根本的改革である。人生の意義の新解釈である。自我の改造である。
聖書は種々の言葉でメタノイア(悔改)が何であるかを示している。今その二三を挙げれば、マタイ伝16章24節にいわく、「
イエス其弟子に曰(い)ひけるは、若し我に従はんと欲(おも)はば己を棄て其十字架を負ひて我に従へ」と。
ここに「己を棄て」とあるのは、「己れを無き者として」という意味である。単にこの罪かの科(とが)を悔いてではない。
自己の存在そのものを棄ててイエスに従えという意味である。
人は罪を犯したに止まらない。罪の中に生れたのである。彼に在っては、罪は偶然の出来事ではない。彼の固有性である。ゆえに彼は、罪を悔いてこれを除くことは出来ない。彼は自己の罪性を是認して、その改造を神に祈り求めるべきである。
「己を棄つる」と言うのは、この事である。自己は生まれながらにして罪人であることを認めることである。自分で自分を救うことが出来ない憐れむべき者であることを覚ることである。そしてそのような悔改、即ち中心の改造に十字架が伴うのは言うまでもない。
人はキリストが要求される悔改を実行して、この世の属(もの)でなくなるのである。そしてこの世の人は、この世に死んだ者をその内に置くに堪えない。ゆえに挙(こぞ)って彼を苦しめるのである。こうして迫害は必ず真の悔改に伴うのである。
コロサイ書3章9、10節にいわく、「
汝等旧人(ふるきひと)と其行(おこない)を脱ぎて新人(あたらしきひと)を衣(き)るべし。此新人は、愈々新たになり、人を造りし者の像(かたち)に従ひて知識に至るべし」と。
ここに旧人、新人と言っているが、これは単に比較的な変化を言うのではない。旧い自分が悔改めて新しい自分に成ったと言うのではない。それはこの世の道徳家が言う事で、キリスト教はそのような浅薄な悔改では満足しないのである。
旧人は「我」である。新人はキリストである。「我」はアダムの裔(すえ)であって、地から出た者であるから地的であり、キリストは神の子であって、天から降りた者であるから天的である。
そして我は悔改めて、即ち自分の生来の罪性を是認して、己を棄てて、己れに死んで、キリストを自分の内に迎えて、彼を自分に代わって生きさせるのである。
新人とは、我の改まった者ではない。
我以外の聖者である。我はいくら改めても元の罪の我である。ゆえに我は自己に死んで、我以外の聖者、即ち新人キリストを迎え、彼が我が内に宿って、我が主となるようにすべきである。
悔改は、自己の改築ではない。自己の明け渡しである。主人公の交代である。神の子イエス・キリストが、我に代わって我を占領されることである。
コリント後書5章17節にいわく、「
是故に人、キリストに在るときは、新たに造られたる者なり。旧きは去りて新らしく成るなり」と。これは、悔改が何であるかと合せて、その結果を示した言葉である。
悔改は新造(創造)である。私達に在って、霊的造化が新たに行われることである。ここに天から新動力が臨み、新生命が降り、聖霊が処女マリアに降りてキリストがお生まれになったように、私達の内に神の人である新人が生れることである。
そしてその結果として、私達にとって旧いものは尽く去って、万事は新しくなるのである。宇宙は一変するのである。人生は全く新しい意味を有(も)つに至るのである。事物の価値は転倒し、今日まで貴いと思っていたものが卑(いや)しくなり、卑しいと思っていたものが貴くなるのである。
神を拒否する人世の価値は全く失せて、その富も名誉も、誘引力が何もなくなるのである。これは実にメタノイアである。思意の変転である。意識の根本的変更である。
行為はもちろんのこと、思想も、嗜好も、趣味も、意志も全く一変することである。更生の一語が、この内的大変動を言い表すに足りるのである。
このようにして、キリスト教が教える悔改は、前非の悔改ではない。新生涯の決心ではない。
キリストを仰ぎ迎えることである。自分以外の聖者、天来の新人である彼を自我としてお迎えすることである。
そしてこの事だけが実際的に有効な悔悛である。キリストを仰ぎ、彼を我が主として迎えることによってのみ、人は罪をその根底から憎み、斥け、これを平らげるに至るのである。
キリスト無しの悔改は有終の悔改ではない。これは民の傷を浅く癒すことであって、平和がないのに平和平和と言うことである。自省鞭撻、日もまた足らずといえども、キリストを仰がず、彼を我が霊魂の奥殿にお迎えしなければ、本当の、根本的な、徹底的な悔改なるものは無いのである。
********************
個人においてそうである。社会または国家においてそうである。社会は自分で自分を改良することは出来ない。国家は自体で自体を粛清することは出来ない。社会はキリストを受けただけ、それだけ根本的に改良されるのである。国家はキリストを迎えただけ、それだけ実質的に粛清されるのである。
キリスト無しの社会改良と国家粛清とは、実は名だけで実のないものである。社会の罪悪を摘発し、国家の罪人を筆誅(ひっちゅう)すれば、それで改良と粛清とが行われると思う新聞記者等は、未だ改良とか粛清とかが何であるかを知らない者である。国家も個人と等しく、悔改を要するのである。
過去において犯した罪を悔いるだけでなく、さらに進んで己を棄て、自体に何も善いものが存しないことを知覚して、十字架を負ってキリストに従うべきである。
いわゆる国家の神聖を唱えて、国家自体に何か絶対的に聖善な者が存するかのように思うのは、大きな間違いである。罪人の集合体であるに過ぎない国家は、罪悪の総合であるに過ぎない。
国家もまた、個人と等しく、自己を清めるには、人以上の者の降臨を要するのである。真正の所在を自体において求めれば、国家は終(つい)に滅びざるを得ない。
その実例はローマである。アッシリア、バビロニア、ペルシャ等の東洋諸邦である。いわゆる Deification of the Nation (国家の神化)と称して、神でない国家を神聖視するに至って、国家は終に神聖でなくなるのである。
仰ぎ見よ、さらば救われん。ダビデの裔(すえ)なるナザレのイエスを主と崇めよ、さらば実に清められん。個人も、国家も、世界も。
完