全集第21巻P38〜
救済(すくい)の能力(ちから)
大正3年8月10日
人間には可能(でき)る事がある。人間には可能(でき)ない事がある。人間に可能る事は、人間が自ら進んで為すべきである。為さないのは怠慢であって、罪である。しかしながら、人間に可能ない事は、神に為していただくべきである。可能ない事を為そうとするのは僭越(せんえつ)であって、これまた罪である。
人間に可能(でき)ない事の一つは、彼が自己を救う事である。これは可能(でき)そうに見えるが、実は全く彼の能力(ちから)以外の事である。
神と離絶(りぜつ)した人間は、自分で自分を救う能力(ちから)を失った。彼に理想は残っている。しかし、理想を行う能力(ちから)は失せた。
彼は自分で自分を救うべきであると信じている。そして道徳と称し、宗教と称して、種々の方法を講じて、自分で自分を救おうとしている。しかし可能(でき)ないのである。
人間に多くの迷想(まよい)があるが、しかし、彼が自分で自分を救うことが可能(でき)ると思うほどの大きな迷想(まよい)はないのである。
人間は天然に打ち勝つことが可能(でき)る。哲理を発見することが可能(でき)る。制度を定め、文物を進める事は可能(でき)る。しかし、自分で自分を救うことは可能(でき)ない。世に人間ほど憐れむべき者はないのである。
このようなわけで、天啓の必要があるのである。人間の救済(すくい)に関し、神が設けられた手段方法の啓示の必要があるのである。
神はキリストによって、人間が為すことの可能(でき)ない救済(すくい)の道を備えられたのである。即ちイエス・キリストが人間の救済であるのである。人間の側から見れば、信仰を以て彼に依り頼む以外に、救われる道はないのである。
「
汝等は、神に由りてキリスト・イエスに在り。イエスは神に立(たて)られて汝等の智また義また聖また贖となり給へり」(コリント前書1章30節)とあるのは、この事である。
イエス・キリストに在って、神は完全に人間を救われたのである。また人間は、彼に在ってのみ完全に救われるのである。これは大きな奥義である。
これは、道義的なユダヤ人には躓(つまず)きの石、哲理的なギリシャ人には愚かな思想(かんがえ)である。しかし、これによって救済(すくい)を実験した者には、まことに神の大能また神の知恵(哲学)である(同23節)。
救われるとは何であるか。言うまでもなく罪から救われる事である。「
罪は汝等に主たらざるに至るべし」(ロマ書6章14節)というパウロの言葉の実現を、我が身において実見する事である。
自分でたやすく自分を制御できるようになる事である。理想が単に理想として残らずに、その実現を見るに至ることである(たとえ幾分であっても)。欲から完全に離れ得ることである。人の名誉を求めずに、神の嘉納を以て無上の満足を感じることである。
真正の意味において、神の子となることである。生きがいのある生涯に入ることである。一言でこれを言えば、
生命を得ることである。
そしてイエスの十字架だけが、この最上の恩賜(たまもの)を私達に与えるのである。実に不思議である。しかし事実である。人間が実験し得る事の中で、最も確実な事実である。
ここにおいて、知者と学者とは言うのである。人間は何故に自己の学究と修養と努力とによって、その理想に達し得ないのか、なにゆえにイエスの十字架と称するような、自己の努力に何も関係のない事によって、理想の実現を見るのであるかと。
何故か、説明は付かないのである。しかし事実は蔽い隠せない。過去千九百年間の人類の実験が、「
天(あめ)の下の人の中に、我等の依頼(よりたの)みて救はるべき他の名を賜はざる也」という使徒ペテロの言葉を立証して来たのである。
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この世の道徳に在っては、人間は自分で自分を救えないと言うのは、大きな異端である。これに反して、キリスト教に在っては、人間は自分で自分を救えると言うのは、大きな異端である。両者の間に氷炭相容れない相違がある。
道徳は自分の力を恃(たの)み、キリスト教は神の力に頼る。
そしてキリスト教がこの世の信用を得たいと思って自分の力を恃むに至れば、大きな堕落を免れないのである。
キリスト教は最高道徳だと称する者は、キリスト教の根底の意義を誤る者である。キリスト教は、純福音である。人間の救済に関しては、神の絶対的大能に併せて、人間の絶対的無能を唱える者である。
確かに人間は山を動かすことが出来る。陸を変じて海とする事が出来る。しかしながら、彼は自分で自分の霊魂を救うことは出来ない。全能の神だけが、彼の霊魂を救うことが出来る。そして神は、キリストによって、この奇跡を行われるのである。
完