全集第21巻P95〜
ヤイロの娘
大正3年9月10日
イエスは会堂の宰(つかさ)
ヤイロの信仰を愛(め)でられて、その娘を死より甦らせられた(マルコ伝5章22節以下)。この事を聞く世の父母で、その娘を失った者は、ヤイロの幸福を羨んで止まない。「私にもまた、ヤイロ夫婦に降った恩恵があるように」とは、彼等各自の心に起る、禁じ難い願いである。
そして事は、羨望に止まらないのである。羨望に伴って、
懐疑が起こらざるを得ないのである。神はヤイロの娘を生き返らせたのに、なぜ
私の娘を生き返らせて下さらないのか。彼は既に奇跡を行う能力(ちから)を失われたのか。
あるいはまた、私の信仰が薄いので、私にこの恩恵が降らないのか。あるいはまた、私に何か隠れた罪悪が存するので、私の願いは聴かれないのであるか。
さらに進んで、あるいは神なる者は実は無いのであって、奇跡なる者は無く、従ってヤイロの話などは、人を欺くための虚談(きょだん)ではあるまいかと。
そのような疑問は、子を失うという不幸に遭った信者の心を、続々として襲わざるを得ないのである。
実にもし、イエスが特にヤイロのために、彼の死んだ娘を生き返らせられたのであれば、彼の愛は偏愛(へんあい)であると言わざるを得ない。世にはヤイロの信仰に劣らない信仰を有(も)った人で、その子を失った者は、少なくないに相違ない。
また、イエス御自身の立場に立って考えて、信仰の有無によってこの恩恵を人に施し、またこれを施されないのであれば、雨を善人の上にも降らし、悪人の上にも降らされる、天にいます父なる神の子の行為(しわざ)として、受け入れ難い事である。
もし死者が、その愛する者の祈祷によって甦らされるものであるならば、世に死ということは、無いはずである。また、人の祈祷を待つまでもなく、神の無限の憐憫によって、死者は悉く直ちに甦らされるべきである。
ゆえにヤイロの娘の場合は、決して
特に彼に降った恩恵を示すためのものではないに相違ない。これは特にヤイロのために施された奇跡でないに相違ない。
神が為されたことであれば、これは
すべて信じる者のために行われた奇跡であるに相違ない。即ち、
神はヤイロの娘によって、すべて信じる者の娘は、そのようにして甦らされるであろうという事を示そうと思われたに相違ない。
即ち、ヤイロの娘の復活は、
すべて信じる者の終末の復活の質(かた)であるに相違ない。
イエスは言われた、「
我は復活なり生命なり。我を信ずる者は、死ぬるとも生くべし」(ヨハネ伝11章25節)と。これは、
すべての信者に当てはまるべき言葉である。ヤイロとその娘とだけに限られるべきものではない。
イエスはまた言われた、「
汝等すべて我名に託(よ)りて祈求(ねが)ふ所の事は、我れすべて之を行はん……若し汝等何事にても我名に託(よ)りて祈求はば、我れ之を行はん」(同上14章13、14節)と。
これは祈祷の法則とも称すべきものであって、一般にわたる信仰上の真理である。ゆえに真にイエスを信じる者は、
すべてヤイロの地位に在る者であって、ヤイロが受けた恩恵に与かる資格を与えられた者である。
イエスはヤイロの娘を、死から甦らせられて、これをその歎いていた父母に返された。そのように、末日(おわりのひ)において、彼はすべて彼を信じる者の祈求(ねがい)に応じて、彼等がかつて失った娘を復活させて、これを再び彼等の手に返し、彼等の心を喜ばせられるのである。
すべての真のクリスチャンは、喜ぶべき末日(おわりのひ)において、ヤイロが実験したような、耐え難いほどの歓喜を実験するのである。
「
女(むすめ)は死(しぬ)るに非ず。ただ寝(い)ねたる耳(のみ)」と。すべての信ずる者の娘はこの通りであるのである。
「
イエス女(むすめ)の手を執りて之に言ひけるは、タリタクミ、之を訳(と)けば女よ起きよとの義なり」と。信者はすべて自ら、いつか一度、イエスのこの喜ばしい声を聴き、彼の能力(ちから)あるこの聖事(みわざ)を拝見するのである。
神は偏(かたよ)る者ではない。彼は決してヤイロの祈祷にだけその耳を傾けられて、その他の者を顧みられないはずはない。彼はヤイロの祈祷を聴かれたように、
すべて彼を信じる者の祈祷を聴かれるに相違ない。
ゆえに
ヤイロの場合は、すべての信者の場合を代表する者に過ぎないに相違ない。すべて真心を以てイエスを信じた者で、その愛子(いとしご)を失った者は、神が御命じになる時に、ヤイロが恵まれたように恵まれるに相違ない。
よって知る、ヤイロの娘に行われた奇跡は、決して彼女と彼女の父母だけのために行われた奇跡ではないことを。そしてこの奇跡に止まらない。
すべての奇跡がそうである。
ラザロが甦らされたのは、特に彼と彼の姉妹であるマルタとマリアのためにではない。すべて信じて死んだ者のためである。
すべて信じる者は、その愛する兄を失い、弟を失い、姉を失い、妹を失っても、末日(おわりのひ)に至れば、ラザロが復活(いか)されたように復活(いか)されて、再びその愛する者の手に渡されるであろうという事を示すために、ベタニヤの村におけるこの大奇跡は行われたのである(ヨハネ伝11章)。
またナインの邑(まち)において、イエスが寡婦の独子(ひとりご)を死から甦らせられた目的もまた、ここに在ったのである(ルカ伝7章11節以下)。「
主、やもめを見て憐み、泣く勿れと曰ひて云々」とある。
イエスはすべての寡婦を憐れまれる。ナインの寡婦に限らない。すべての寡婦を憐れまれる。そして彼を信じる
すべての寡婦は、末日(おわりのひ)において、ナインの寡婦のように、イエスに取り扱われるのである。
「
イエス曰ひけるは、起きよ、我れ汝に命ず、起きよと。死たる者起きて且つ言(ものい)ひ始む。イエス之を其母に予(わた)し給へり」と。
今や戦雲は欧州全土を覆い、その一端を東洋においてまで見るに及んで、多くの寡婦はその独子(ひとりご)を戦場に失って、悲歎の涙に暮れるであろう。
そして政治家は国威の宣揚を唱え、新聞記者はその声に和して、寡婦の涙などは顧みないが、しかしイエスは、今なお「やもめを見て憐み、泣く勿れ」と言われつつあるのである。
そして草がなぎ倒されるように壮者が戦場に斃(たお)されることがあっても、政府と国家とは、これを何とも出来ないのである。寡婦は戦場にその独子(ひとりご)を失って、ただ泣くばかりである。
しかし、「主、やもめを見て憐み、泣く勿れと」言われるとある。そして来るべき末日(おわりのひ)に主イエスは戦場に斃れたすべての寡婦の独子を復活させて、これを彼等の手に渡されるのである。
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そうです。神に奇跡を行う能力(ちから)が絶えたからではない。また私達の信仰が足らないからではない。また私達に隠れた罪があるからではない。もし人の完全が神の恩恵を招くための必要条件であるならば、これに与かり得る者は、世に一人もいないはずである。
私達に今、復活の奇跡が行われないのは、今は復活の時ではないからである。また、この朽ちるべき肉体の復活が、永久の救済(すくい)ではないからである。神は
より大きな復活を、私達のために備えて下さるのである。
彼が末日(おわりのひ)に行われる復活は、ヤイロの娘やラザロの復活と異なり、
再び死ぬことのない復活である。「
復(ま)た死あらず、哀(かなし)み哭(なげ)き痛み有ることなし」と言う復活である。
そして神は、キリストによって、末日(おわりのひ)に、この大きな復活を私達と私達の愛する者との上に行われるのである。ヤイロの娘の復活などは、この復活に比べて見れば、表号に過ぎないのである。
私達の死んだ娘が再び私達に渡される時には、私達は再びこれを失わないのである。またと死別の無い会合、これに優って喜ばしいことは、この世に無いのである。
今や泣く者は哭(なげ)くべからず
其愛する者は失せしとも
再(ま)た会ふ日の歓喜(よろこび)の光に
其曇(くも)りし眼は晴れん
(「ドイツ小歌」の一節から訳す)
完