全集第21巻P268〜
(「ステパノの演説」No.2)
略 注
◎ これは、有名なステパノの大演説である。これによって、キリスト教は公然とユダヤ教から離れたのである。これは殊に、パウロの自由福音の先駆である。異邦伝道の暁(あかつき)の鐘(かね)の響きである。
モーセを弁護して、モーセの律法を打破した鉄槌(てっつい)である。無教会主義の最初の叫びである。人類の信仰史上、新紀元を画する最も重要な言葉である。
◎ 大演説である。しかしながら、大雄弁ではない。ステパノは、アポロのような、巧みな言葉の使用者ではなかった。能弁術の標準を基に評すれば、この演説に多くの非難すべき点がある。その中に多くの無駄な言葉がある。
また思想の連結が甚だ漠然としている。モーセに就いて説き終って、ダビデに移る辺り(45節)は、甚だ曖昧である。
簡潔は、能弁の秘訣であるのに、ステパノは知れ渡ったユダヤ歴史の事実を縷述(るじゅつ)して、彼の聴衆に、少なからぬ倦怠の念を起したであろう。
後の聖書の注解者等が、この演説の解釈に苦しんだ理由の一つは、確かにその修辞上の欠点を認めなかったからであると思う。たとえ
聖ステパノの言葉であっても、欠点は確かに欠点である。
彼の特技は、能弁術以外、別にあったのである。彼はここに、
善い演説をしなかった。しかし、
力強い演説をした。彼の言葉は粗雑であった。彼の思想は貧弱であった。しかしその精神は熱烈であった。彼の信仰は燃えていた。
◎ この演説が試みられた時と場合とは、6章8節以下末節に至るまでにおいて明らかである。ステパノの新信仰に対して、旧信仰の激烈な反対が起こったのである。
その当時にエルサレムには多くのユダヤ教の教会があった。リベルチン教会と称して、ユダヤ人で一時異邦に奴隷であった者が再び自由を得て、旧都に帰還した者が相集まって組織した教会があった。エジプトのアレキサンドリヤ出生のユダヤ人で、エルサレム在住者が組織した教会があった。
その他、みなこの類である。彼等は常に相互に教義を闘わし、教勢を争ったが、ここに彼等共通の敵が現れたのを見て、一致団結してこれに当ったのである。
彼等がステパノの罪状として挙げたものは、主として次の二カ条であった。
第一、エルサレムの神殿に対する冒涜
第二、モーセと彼の律法に対する冒涜
彼等は以上の二カ条をひっさげて、冒涜罪を犯したとして、彼を当時の高等法院である衆議所即ちサンヘドリンに訴えたのである。
◎ ここにステパノは、独り民及び祭司の長、長老ならびに学者等の前に立った。彼は、彼の主イエスが裁かれたように、裁かれたのである。二者の罪状も同じである。審判人(さばきびと)も同じである(マタイ伝26章を見よ)。
弟子はその師に優ることは出来ない。ステパノはイエスのように裁かれて、彼が実にイエスの弟子であることを知ったのである。
これは実にパウロのいわゆる「
キリストの死の状(さま)に循(したが)ひて、彼の苦難(くなん)に与かる」(ピリピ書3章10節)ことであって、ステパノにとって、この上のない名誉である。
◎ ここに審判は開かれた。ステパノの顔は天使の顔のようであった。彼はもちろん、彼が放免されないことを知った。彼の前には仇敵が控えていたのである。
しかし、彼はイエスの弟子であった。ゆえに敵人の前に引き出されても、彼は彼等を憎まずに、反って彼等を愛した。愛はその時、彼を離れなかった。彼の言葉は慇懃(いんぎん)であった。彼の態度は平静であった。今や屠所(としょ)に引かれていく羊のようになった彼は、慎んで、荒い言葉を放たなかった。
◎ 「兄弟及び父等よ」と彼は口を開いて言った。彼の生命を狙った敵も、彼にとっては敵ではない。兄弟である。父である。開口一番、彼の唇から洩れたこの一言に、万斛(ばんこく)の情味が籠っている。
演説は言葉ではない。真情である。親愛に満ちたこの冒頭の一言によって、ステパノは既に聴衆の思いを奪ったのである(2節)。
◎ 敵人の告訴に対して、ステパノは自己を弁護せずに、これに代えてイスラエルの歴史を述べたのである。これは最も奇妙な弁護法である。しかし彼にとっては、最も有力な弁護法であった。
彼は聖殿と律法とを冒涜する者として訴えられたのである。そして聖殿と律法とはイスラエルの歴史の真髄である。
ゆえに歴史的に二者が何であるかを述べて、最も有効的に自己の立場を弁明することが出来たのである。
自己の弁明を議論に取らずに歴史に取った彼の知恵は、この際上天(うえ)より彼に賜わった知恵であったと言わざるを得ない(マルコ伝13章11節)。
◎ 彼は先ず、アブラハムの歴史を以て始めた。その教えることは何か。アブラハムは、もちろんモーセの律法に何の関わりもない。ゆえにステパノは彼の罪状第二条について、自己を弁明するに当って、アブラハムを引用する必要はなかった。
しかしながら、聖殿冒涜の誣告(ぶこく)に対しては、イスラエルの始祖アブラハムの事跡に、これを弁明するに足りる多くのものがあった。
聖殿はそもそも何物であるか。聖殿が尊いのは、その内に神がおられるからである。しかし、神はその存在を、エルサレムの聖殿に限られていない。神はしばしば聖殿の外で、人と語られた。
アブラハムが未だカランに住む前、なお未だ異邦のメソポタミヤに居た時、神は彼処で彼に現れ、彼の往くべき所を示された。その事から、
神の聖殿は、世界が広いように広い事を知るのである。
神があり、またこれに応える信仰があれば、世界のどこに聖殿でない所があろうか。見よ、神はアブラハムに伴われて、彼が至る所において彼に現れ、彼に語られたことを。
アブラハムの歴史は、神人交通の歴史と称して誤らないのである。神はアブラハムを「
其友」 (歴代誌略下20章7節)と呼ばれた。そしてアブラハムはかつて一回もエルサレムの聖殿に神を拝したことはないのである。
アブラハムの生涯は、聖殿に少しも関係が無かった。神は子孫繁栄の約束をされるにあたって(5節)、彼を聖殿に召されずに、彼を野外に連れ出し、天の星を指して言われた、「
汝の子孫は是の如くなるべし」(創世記15章5節)と。
アブラハムにとっては、彼の足跡が印(しる)す所が、悉く聖殿であった。モレの樫の木(同12章6節)、マクペラの洞穴(同23章9節)、彼にとっては悉く「聖所」であった。
ゆえにもしエルサレムの聖殿以外に神を求め、これに仕えるのが冒涜罪であるならば、第一にこの罪に当たるべき者は、イスラエルの始祖アブラハムである。
そしてステパノは、その師イエスに倣い、エルサレムの聖殿以外、世界至る所に神の聖殿を認めて(ヨハネ伝4章21節)、始祖アブラハムの跡を追いつつあるのである。
祭司、長老、学者等は、先ずアブラハムを罪と定めて、その後にステパノを罰すべきであると。これが、アブラハムの歴史がステパノの弁護となった理由である(2節以下8節まで)。
◎ ステパノは、アブラハムの子イサクならびにイサクの子ヤコブの歴史については述べなかった。しかし、ヤコブの子ヨセフの経歴について、一言語らざるを得なかった。
ヨセフの十一人の兄弟等(「先祖等」とあるのは、彼等である。イスラエルの十二の支派(わかれ)の先祖を指して言ったのである)…ヨセフの十一人の兄弟等は、彼に対して嫉妬に燃え、父に隠して彼をエジプトに売った。
ところが、彼等に棄てられた者を神は拾われた。神は彼と共に在られて、すべての患難(なやみ)から彼を救い出された。それだけではない。神は大いに彼を恵んで下さり、彼にエジプトとパロの家とをつかさどらせ、また終に彼を以てその父ヤコブとその全家とを、飢餓から救って下さった。
ヨセフの場合においてもまた、「
工匠(いえつくり)の棄たる石は家の隅の首石(おやいし)となれり」という古い諺は、事実となって現れたのである。
このようなわけで、ステパノと彼の主であるイエスを裁こうと思っている祭司、長老、学者等は、熟慮、再考すべきである。
彼等もまた、彼等の先祖等に倣い、ここに罪のない人を裁きつつあるのではないか。彼等が異端視する者はまた、ヨセフのように神の前に特殊な恩恵を蒙る者ではないか。彼等はヨセフの経歴に省みて、大いに自己を慎むべきではないか、と。
ステパノはここに、彼の国人が熟知しているヨセフの事跡を反復して、暗々裡に自己を裁く者を裁いたのである(9節以下16節まで)。
◎ 次項(つぎ)はモーセである。前に述べたように、ステパノは二個の罪状で訴えられたのである。その第一は聖殿に対する罪であった。第二は、モーセとその法律に対する罪であった。
そして彼は、アブラハムの経歴を述べて罪状第一に対する自己の弁護を述べた。第二に対してもまた同じである。ステパノは、ここに自己を弁護するに当って、モーセの経歴を述べれば足りたのである。
彼は言ったのである、「君達は、私がモーセに背き、その律法を犯したと言う。それならモーセ自身に語らせよう。彼モーセは、私の弁護者になるであろう。それだけではなく、彼は私を免訴して、反って君達を告訴するであろう」と。
◎ そもそもモーセに背いた者は誰であるか。彼が未だパロの女(むすめ)に養われてエジプトにいた時に、彼は骨肉の兄弟であるイスラエルの民を救おうと思って起(た)った。
ところが民は反って彼を退け、彼がエジプトの地を逃れざるを得ないようにした。そのようにしてモーセに対する反逆は、ステパノから始まったのではない。今や彼を裁きつつある者の祖先たちから始まったのである。
いや実に、イスラエルの歴史は、モーセに対する反逆から始まったのである。何と奇妙なことか。イスラエルの祭司と学者等が、モーセに対する反逆を理由として、他人を裁こうとするとは。反逆人は反逆の罪を裁くことが出来るのか(17節以下29節まで)。
◎ イスラエルの民は、モーセを追い出した。しかし神は彼を守って、彼の流竄(るざん)の地であるミデアンの地において、彼に平和な家庭を備えられた。そして選民救出の時期が到来すると、神は曠野(あれの)の棘(しば)の中に、彼に現れて、彼をエジプトに遣(つか)わされた。
モーセの場合においても、アブラハムの場合におけるように、神は聖殿ではなくて、シナイの曠野(あれの)において彼に現れられた。神は「
人が其友に言(ものい)ふが如くに、モーセと面(かお)を合せて言(ものい)ひ給へり」(出エジプト記33章11節)。
神がモーセに向って、「汝の足の履(くつ)を脱げ。汝が今立つ処の地は聖地なり」と言われたその地は、エルサレムの聖所ではなくて、シナイ半島の荒野の一点であった。聖殿以外にまた聖地があるのである。
モーセ自身が聖殿以外において、神を拝した。モーセに倣って地上至る所に神の自顕に与ろうと思うことを、どうして聖殿冒涜だと言うことが出来るであろうか(30節以下34節まで)。
◎ イスラエルの民が拒んだ
このモーセ、神は
このモーセを用いて、イスラエルを救われたのである。
このモーセが彼等をエジプトから救い出し、四十年の間、荒野に彼等を教え導いたのである。
イスラエルの民は、彼等の恩人、彼等の教導者であるモーセに対して、決して忠実ではなかった。いや、その正反対が事実であった。彼等は幾回か彼に背いた。幾回か彼の心を痛ませた。
時には彼に、「
嗚呼(ああ)此民の罪は大なり。彼等は自己(おのれ)のために金の神を作れり。然れども若し聖旨(みこころ)にかなはば、彼等の罪を赦し給へ。然かせずば、願くは汝の生命(いのち)の書より我名を削り給へ」(出エジプト記32章31、32節)という悲歎の声を揚げさせた。
イスラエルの歴史こそ、モーセに対する反逆の歴史であるのである。モーセに背き、その律法を破った者は、イエスとその弟子達ではなくて、不忠不虔だとして彼等を迫害し、彼等を殺したイスラエルの民、彼等自身である。
何と奇異なことか、反逆人の子孫によって反逆の理由で裁かれるとは(35節より43節まで)。
◎ 再び聖殿について言おうか。聖殿は、元始(はじめ)から在ったのではない。神がモーセに命じて作らせられたものは、聖殿と称するような、荘厳な大建築ではなかった。ただ単に、「証明(あかし)の幕屋」であった。エホバが民の間におられて、彼等に教えて下さる所であった。
そしてモーセが眠ってヨシュアが彼に代わって民の教導者となると、彼はこの幕屋を携えて約束の地に入り、そこに再びこれを張って、その師モーセの準(かた)に従って、単純な荒野の礼拝を続けて、ダビデの時にまで至ったのである。
そして神恩が豊かにダビデの身に加わったので、彼は報恩の記念として、ヤコブの神が永久におられる永久的神殿を作り、それによって一時的の幕屋に代えようとした。
ところが彼は躊躇して、この事を決行せずに眠った。そしてソロモンに至って、その父ダビデのこの下心が、大規模に実行されたのである。そして神は、これを喜ばれたかと言うと、決してそうではなかった。
彼は言われた、
天は我が座位(くらい)なり。地は、我が足台なり。汝等我がために、如何
なる家を建んとする乎。又我が息(やす)む所は何処(いずこ)なるや。汝等
知らずや、我手は此等すべての物を造りしことを。
と。このようにして神はソロモンのこの大聖堂を嘉納されなかった。その事は、その後のソロモンの経歴によって明らかである。
モーセが定めた単純な天幕礼拝を廃して、これに代えて荘厳な聖殿祭事を行ったソロモンは、堕落より堕落に沈み、終にはイスラエルの神エホバを捨てて、異邦の神に仕えるようになったのである。
そして事はここに止まらなかった。神はイスラエルを離れられた。ソロモン以後のイスラエルの歴史は、背信、分離、滅亡のそれであった。ソロモンは、荘厳な神殿を築いて、神をイスラエルの間に招請(しょうせい)せずに、反ってこれを退けたのである(44節より50節まで)。
◎ 頑強で、身に割礼を受けているのでアブラハムの子であると誇ってはいるが、心と耳とに割礼を受けていない者達よ、君達こそ真の反逆人である。君達は、モーセとその律法に従うと称しながら、常に聖霊に逆らいつつあるのである。
君達は、君達の先祖が行った通りに、行いつつあるのである。預言者の中に、君達の先祖等の迫害を蒙らなかった者はいるか。
子はよくその父に似ている。君達は祖先の行為に倣い、預言者等がその出現を預言した大預言者イエスを殺した。君達こそ、律法の破壊者である。君達は、天使の手から受けたと誇るその律法を守らないのである(51節より53節まで)。
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◎ ステパノの弁護演説は、ここに終った。裁かれる者は裁かれずに、反って裁く者を裁いた。知れ渡ったイスラエルの歴史は、新しい意味を帯びて、祭司と学者等の前に提示された。
そしてイエスの福音は、歴史的に最も有力に弁護された。審判の座に座った者は、今や答えるに言葉が無かった。彼等はただ、威力を以て答弁に代えるだけであった。
彼等は怒った。切歯(はがみ)した。叫んだ。そして終に一同は、石を取って無援のステパノをめがけて進んだ。一斉に彼を撃った。そして彼が抵抗するかと思ったが、彼はただ天を仰いで座した。
彼の静かな眼には、憤怒に駆られた敵は見えずに、神の右に座しているイエスが見えた。不幸なのは、今や石に撃たれて死のうとする彼ではない。彼を殺そうとする彼等である。
その時である。彼は今生(こんじょう)の最後の祈祷として、声を励まして言った。「
主よ、此罪を彼等に負はしむる勿れ」と。そしてこの一言を発して、息絶えた。
そして、この暴行の扇動者を、タルソのサウロと言った。彼は、ステパノのこの死にざまを見、最後の一言を聞いた。彼は心の平安を乱されて家に帰った。ここに彼サウロの心の中に大煩悶が始まった。
このサウロを後にパウロといった。彼は福音の大伝道者となった。彼によって世界と人類とは一変した。そして彼の感化は、今なお尽きない。ステパノはパウロによって世界にイエスの福音を伝えたのである(54節より60節まで)。
完