全集第22巻P282〜
(「出エジプト記講義」No.3)
第三回 モーセの聖召 (4月23日)
出エジプト記第3章
モーセはミデアンの地で羊を牧していたが、ある日、荒野の奥に行った時、エホバの使者(つかい)が棘(しば)の内の火焔(ほのお)の中に現れたとある。
「使者」とは、エホバから遣わされた者ということではない。エホバの自顕である。像(かたち)となって現れたエホバである。ゆえにこれをエホバの像(かたち)と読んでも誤りではない。
その時モーセが見ると、「
棘(しば)燃ゆれども其棘焼けず」と。これは奇跡である。しかし、聖書に記された奇跡には、無意味なものは一つもない。必ず何か大切な真理を教えるために行われたのである。
即ち、奇跡は言(ことば)の一種である。事実を以て語られた真理は、終生これを忘れることが出来ない。この時モーセに示された奇跡もまたそうであった。この奇跡の意味を探るのは、難しくない。
聖書に、「
夫(そ)れ我等の神は焼尽す火なり」(ヘブル書12章29節)とあるように、神は恐るべき者であって、罪を怒り、遂に私達を焼き尽くされると思うけれども、
また実験によって知る事は、「
我等の尚(なお)亡びざるは、エホバの仁愛(いつくしみ)により憐憫(あわれみ)の尽きざるに由る」(エレミヤ哀歌3章22節)ことである。
焼かれるけれども、焼き
尽しはされない。この事を証明するものは、ユダヤ人の歴史である。そしてモーセがここに見たものは、これであった。神は今、モーセに特にこの事を知らせる必要をお認めになった。
モーセは国人を救おうとしたが、国人はこれに応じず、反ってますますその罪を重ね、奴隷的生活に甘んじている。我が民イスラエルは必ず亡びるであろうとは、彼の感想であったに相違ない。
実に義の観念が盛んな者は、国人について失望せざるを得ない。そして終に、これを救おうとの念慮をさえ投げうつに至るのである。モーセのように性格が強烈で、義心が火のような人にあっては、特にこの感を深くしたであろう。
ここにおいて神は、御自身を彼に明示される必要があった。即ち、「
罪を憎むも仁愛(いつくしみ)によりて焼き尽さず」との実物教育を行うために、この奇跡を行われた。
モーセはこれを見て、終生忘れなかった。この後彼は幾度かイスラエルの民につき失望を重ねたが、そのたびごとに彼を支え、忍耐の中に希望を持ち続けさせたものは、このホレブ山中の簡単な一奇跡であった。
エホバの言葉には、「我」という語が繰り返されている(7〜10節)。これは前章32節以下と同じく、イスラエルの救済が、既にモーセの手を離れ、神の事業として始まった事を示すのである。
モーセは神の命を聞いて当惑した。今からエジプトに行って、イスラエルの子孫(ひとびと)を導いて砂漠を超え、カナンの地に移って、新国家を樹立しなさいと、実に驚くべき難問題である。
世には一人の婦人を救うために一生を費やす者さえあるのに、老若男女幾十万、久しい奴隷生活に慣れ、自治の精神もない一大群衆を救い出そうというようなことは、以前の野猪的なモーセにはいざ知らず、今のモーセには不可能な事であった。
彼は考えたであろう、これは到底私に出来る事ではない、私はむしろ舅(しゅうと)の羊を牧して、静かに一生を送ろうと。しかし神は言われた、「行け、これは君の事業ではない、私が為させるのである」と。
モーセはなおもこの責任から免れようと思って、いろいろな口実を持ち出した。「
我れイスラエルの子孫(ひとびと)の所に行きて、汝等の先祖等の神我を汝等に遣はし給ふといはんに、彼等もし其名は何と我に言はば何と彼等に言ふべきや」(13節)と。
これに対して神は言われた、「
我は有(あり)て在る者なり。……汝いふべし、我在りといふ者我を汝等に遣はし給ふと」(14、15節)と。
出エジプト記は、もちろん哲学書ではない。これは単純な歴史である。ゆえにモーセのこの問に対しても、我が名はエホバであると言えば、それで済むのである。
しかし、真の神には付すべき名がない。日本の皇室に姓の必要がないように、宇宙万物をつかさどる神に名があるはずがない。もし強いて名付けるならば、即ち「有って在る者」である。エホバと言う名も、実はそのような意味から出たのであろう。
それがいつの間にか深い意味を離れて、特殊な名のように思われるようになったのである。神は永遠の実在者、永遠のアーメンである。その特性は消極的ではなくて、積極的である。あるものを為される神である。ゆえにその聖旨は必ず成るのである。
このように神は、モーセを召して神が何であるかを示し、イスラエルの救いのために遣わそうとされたが、モーセは己に省みて数多の欠点があることを知り、再三再四条件を提出して、これを辞そうとした。
しかし神は遂にお許しにならず、彼を押し出されたのである。真に神に召されて人を救おうとする者の経験は、これでなくてはならない。神がこの人と定められる時には、幾たびかこれを辞し、最後に神の忍耐が破れそうになって始めて、止むを得ず立つのである。
クロムエルが初めて出た時も、このようであったとカーライルは記している。彼は自らとうていその任に当れる者ではないと思い、彼の従兄(いとこ)であるハンプデンと共に米国に移住して、農民になりたいと思って乗船までも決めた。
けれどもその船が予定より一日早く出帆したために、遂に英国に留まったのであると言う。カーライルは言う、もしその船が両人を運び去ったならば、英国に民権自由は起こらなかったであろうと。
神に召された者は、終には嫌でも立たざるを得ない。モーセのように、止むを得ずに出たという事が、即ち彼が大事業を成し遂げた、その発端であったのである。
(以上5月10日)
第四回 モーセの辞退 (4月30日)
出エジプト記第4章
ここに二つの奇跡が記されている。モーセの手にある杖を地に投げると蛇になったのは、その一である。その手を一たび懐に入れると癩病を生じ、これを再び懐に入れると、元のように治癒したのは、その二である。
これらの奇跡は果して何を教えるか、これを知るためには、出エジプト記の全体を併せ考えなければならない。出エジプトの事自体が、著しい神の力の発現であって、奇跡なしには意味を失うのである。
ただし、聖書は奇跡の書であると思うのは誤りである。聖書の奇跡は、反ってその小部分に過ぎない。これは必ず、神がある特別の事を行われる時に起ったのである。
初めに神がヤコブに現れられてから出エジプトに至るまでおよそ四百年、その後預言者エリヤの時までまたおよそ四百年、さらにイエス・キリストまでまたおよそ四百年、即ち聖書の奇跡は、およそ四百年ごとに行われたのであって、その間には滅多に、これに類する事は行われなかった。
聖書の大部分は、奇跡以外の記事である事を知るべきである。ただ特別に大きな事が成されようとする時に奇跡が行われるのは止むを得ない。
久しく奴隷生活に慣れたイスラエルの民衆数十万を率いて、一人のモーセが紅海を渡り、カナンに向おうとするようなことは、奇跡なしにはとうてい行われる事ではない。
また出エジプトは単にイスラエル人の歴史であるだけでなく、私達がこの世と離れる事を意味するのであって、その時何か特別の力が私達に加わるのでなければ、実行できないことは、私達がよく知っていることである。
殊にまた、最後にこの世を去って、限りない生命に入るには、最も大きな奇跡を要するのである。
イエスの復活が奇跡であったように、私達の復活もまた、大きな奇跡である。
実に人類最高の希望を満たすためには、必ずや大きな奇跡がなければならない。神の特別の力を必要と感じた経験を有(も)った者は、決してそのような奇跡の存在を怪しまないのである。
そして神の命により大きな奇跡を行おうとする人には、その人自身に奇跡を示しておく必要がある。
モーセは昔、自分の力を頼んだ時と異なり、今や自分に何の力もないことを充分自覚していたので、この大事業を成し遂げようとするに当って、たびたび失望する時があるに相違ないが、その時つまらない者にも神の力が加われば、大事を成し得ることをモーセに知らせておくことは、最も必要であった。
そこで神は、モーセの杖によって、奇跡を行われた。杖とは牧羊者が羊を導くために用いる棒であって、あたかも私達が運動の際に携えるステッキのように、牧者にとって常時その手を離れない最も親しい物であったと共に、また最も普通な平凡な物であった。
ところが神は、このつまらない杖を、蛇に変えられたのである。蛇を硬化して杖とすることは、当時エジプトで行われたが、枯れた杖を蛇にするのは、神の力でなければ出来ない事であった。
ゆえにモーセはこれを「神の杖」と呼んで、生涯離すことがなかった。後に紅海で、海の水を打って、これを分けたのもこの杖であった。レピデムで民がみな水に渇いた時に、岩を打って水を出したのも、この杖であった。
またアマレク人と戦った時、岡の頂に登り、手にした杖を揚げてイスラエルを勝たせたというその杖も、これであった。
神がこれを使われる時には、一本の杖もそのようなものとなるのである。かの一商店の売子に過ぎなかった米国のムーデーが、世界的な宗教家となったのもまた、その一例に他ならない。
そしてまた杖が、恐るべき蛇となったのは、モーセに民の罪に対する警告を与えさせるためであった。警告は、その実行を伴わなければならない。罪について警告を与えてもなお顧みない時には、確かにその罰が臨むことを知らせる必要がある。
ここにおいて、第二の奇跡が行われた。「
手を懐に入れて之を出し見るに其手癩病(象皮病)を生じて雪の如くなれり」(6節)と。即ち警告を実行し、民を罰する力がモーセに与えられたのである。
しかしながら、単に罰するだけではない。神はまた、モーセによって恵みを施し、罪を赦される。「
再び其手を懐に入れて之を出し見るに、変りて他処(ほか)の肌膚(はだえ)の如くになる」(7節)と。即ち縛る力と共に釈(と)く力が彼に与えられたのである。
エホバは罪を罰せずにはおかれない。しかしながらまた、人を亡ぼし尽しはされない。モーセは前(さき)の火に焼かれない棘(しば)の奇跡と共に、長い間心にこの奇跡を噛みしめて、その味を知ったのである。ゆえに彼の厳格な人格の底に、深い慈悲を湛(たた)えていたのである。
このように神は、種々の奇跡によって、意味深い実物教育を施されたが、モーセはなお最後に、訥弁(とつべん)を理由として、飽くまで神の命を拒んだ。
「
是に於てエホバ、モーセに向ひ怒を発」せられたとある。モーセの長い経歴の中で、もし非難すべきものがあるとすれば、後に十戒の石板を地になげうった事と、この事の二つであろう。
モーセは口の重い人であった。しかし、訥弁が神において何であろうか。神が共に在られるならば、訥弁の中に大雄弁があるのである。
神はその真理を語らせるために、反って無口な者をお選びになる。米国の伝道者として最も尊敬されたフィリップス・ブルックス(
http://en.wikipedia.org/wiki/Phillips_Brooks )なども天性訥弁の人であった。
彼が大学を出た後、自己の天職について先輩に相談したところ、何でもいいけれど伝道師となることだけは最も不適当だと言われた。ところが神は彼を選んで、大説教家にされたのである。
また私自身の経験も、同じような事を示している。筆を執って文を綴るのは、もともと私が最も好まない事であった。かつて札幌で学年の試験を終った時、如何に文学を嫌っていたかを示そうと、人の面前で文学の講義筆記を焼き捨てた事がある。
もしその時、人に相談したならば、きっと私を戒めて、筆を執ることだけは止めなさいと言ったであろう。
ところがその文学嫌いの私が、今日まで筆硯(ひっけん)の業を続けてきたのである。
事を定めるのに、自己の天性その他の境遇は、条件とはならない。ただ神の聖旨によるのである。
モーセはこの点にあまりにも固執し過ぎたため、彼に代ってアロンが話すこととなり、それによって返って、事が複雑になったのである。
モーセは遂に神の命に応じて立った。そして妻チッポラも彼に従った。チッポラは元々従順な妻であったが、ただ割礼の事だけは、モーセの言に反して、これを行わなかったらしく見える(割礼は単に儀式ではない。ユダヤ人に小児の死亡率が甚だ低い原因の一つは、割礼にあると称せられる)。
ところが、共に旅行して、砂漠中の岩穴に宿った一夜、危険な疫病の襲来に遇って、チッポラは恐怖のあまり、自分が長く夫に逆らっていたことを思い起こし、遂にその子に割礼を施した。
それでもなお疫病が治らなかったため、モーセの足下に血の皮をなげうち、「
汝は誠に血の夫なり」と叫んだと言う。
後にモーセがエジプトを出た時、舅(しゅうと)エテロが「
遣還(おくりかえ)されてありしチッポラと二人の子とを連れ来る」(18章2節)とあるから、チッポラは遂に夫モーセと事を共にすることが出来ずに、ここから生家に返送されたのであろう。
小さな家庭の記事ではあるが、私達のために大きな戒めを伝えるのである。
(以下次回に続く)
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