全集第23巻P43〜
ガラテヤ書第5章5節
(京都読書会における第二回講演大意)
大正5年12月10日
パウロの言葉は、簡潔さで有名である。彼は言葉を惜しんだのか、それとも思想に満ちて、これを言い表すに足りる言葉を有しなかったのか。多分後者が真であったろう。
実にパウロほど後世の注解者を苦しめた者はいない。かの有名なガラテヤ書3章20節などは、その一例である。この一節に対し、
四百三十余種の注解があると言う。それによって、それが如何に難解な一節であるかが分かる。
もし彼が、これに一語または二語を加えておいたならば、注解者はどれほど助かったであろうか。実にパウロは意地悪いほど簡潔であった。
私達が今ここで研究しようとしているこの一節は、前の一節ほど難解ではない。その大体の意味は明瞭である。ただし、甚だしく簡潔である点においては、全くパウロ式である。
その中に一言も無駄はない。その中に代名詞が一個、動詞が一個、名詞が四個あるが、いずれも重い詞(ことば)であって、その一つをもゆるがせにすることは出来ない。
有名な注解者アルベルト・ベンゲル(
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Albrecht_Bengel )が、この一節に次ぎの6節を合せて、
キリスト教の全部は、この二節に在ると言ったのもあながち過言ではないと思う。そのような場合においては、その一言一句に九鼎(きゅうてい)の重みがあるのである。
邦訳聖書は、この一節を訳して言う、
われら望む所のもの、即ち信仰を以て義とせらるゝことを霊(みたま)に由
て俟(まつ)なり
と。この訳は、原文の大意を言い表して誤らないと思う。しかしながら、原文の強さと深さとは、はるかにこの訳文以上である。この一節の場合においても、その深い意味を探る近道は、原文ありのままの
直訳によることにある。即ち次の通りである。
我等は、(蓋(そは))霊(みたま)に(由り)、信仰を以て、希望を、義の、待
望めばなり、
「蓋(そは)……ばなり」は、前節との関係を語る小辞であるから、注解上便宜のためにこれを省くとして、この一節の中に、六個の重い言辞(ことば)があるのである。即ち
我等、霊、信仰、希望、義、待望がそれである。
そのいずれもが、重要な言辞(ことば)である。パウロはここで、わずかに六個の言辞(ことば)によって、キリスト教の六大教義をつなぎ合わせたのである。
◎ 「
我等は」 他の人は知らないが
私達は云々。 異邦人については知らない。ユダヤ人については知らない。ユダヤ主義のキリスト信者については知らない。
私達は云々と。
パウロはここに、彼および彼と同じ信仰の人々を、他の人から判然と区別して言ったのである。
律法(おきて)によって自らを義としようとする者、道徳によって、自らを潔(きよ)くしようとする者、儀礼によって神の前に立とうと思う者、現世において完全を期する者、キリスト以外のある者によって救われようと思う者……パウロはこれ等の人々から、自分と自分の同志とを区別して「我等は」と言ったのである。
そのような場合においては、単なる代名詞であっても、高調して読むべきである。パウロはここに、自分の立場を明らかにし、それによって他に誤解されないように努めたのである。
彼はここに、
パウロ党というものが在ることを語って憚(はばか)らなかった。信仰の根本義に関わる大問題である。そのような場合には、自己と同志との立場を曖昧に付して、広量大度を衒(てら)うべきではない。狭隘と呼ばれてもよい。結党だと謗(そし)られることを辞さない。
他人は知らず、他信者は知らず、「我等は」である。他人は知らず、
私達は異端に組することは出来ない。
私達はこのように信じる。全世界は挙(こぞ)って彼方(かなた)に立つなら立て。
私達は、そう、少数である
私達は此方(こなた)に立つと。
パウロ式の敬すべき愛すべき独立的態度を表した一代名詞である。
◎ 「
霊」は、この場合においては、特別の霊であって、聖霊である。そして聖霊は、人を助ける時の神御自身である。
神は聖霊として人の霊に臨まれる。聖霊として光を供し、聖霊として能(ちから)を加え、聖霊として万事を遂げられる。
聖霊によってである。信者は聖霊によらなければ何事をも為すことが出来ない。彼は聖霊によって祈り、聖霊によって万事をたずね知る。神の能(ちから)である聖霊によって神に至り、神の光である聖霊によって神を知る。
パウロは力説して言ったのである。他人は知らず、
私達は、我が党は、自分の努力によらず、修養によらず、探究によらず。儀礼によらず、上からの能(ちから)である
聖霊により、信じかつ望みかつ愛するのであると。
キリスト者は元来他動的である。自動的でない。上から求められた者であって、彼自ら求めて起きた者ではない。
聖霊によってである。
私達は聖霊によるとパウロは力説した。
◎ 「
信仰」 神は聖霊を以て私達に臨み、私達は信仰を以てこれに応じる。信仰そのものが聖霊によって、神が私達の中に起されたものであるけれども、神からの恩恵に対して、人からの応諾としてこれに応じるものは信仰である。
信仰は信受であり、信頼であり、また信従である。幼児の両親に対する態度である。ただお信(まか)せするのである。敢えて自己の義を唱えない。敢えて儀礼の正しさを求めない。自分が先ず潔(きよ)くなって、その後に神に受け入れられようと思わない。
ただ信じるのである。罪の身このまま、無知無学を包(つつ)まず、父が召されれば私は行くと言って、恐れずに彼に近づく態度である。
他人の事は知らない。彼等は無謬の教義と神学と、深遠な聖書知識と、正統的伝説と、傷のない制度と儀式とによって神に近づこうと思うかも知れないが、
私達は、私達同信の仲間は、僧侶、教職、信条、儀礼等に何の関わりも無い私達は、ただ信仰によって云々と、パウロは力説したのである。
◎ 「
希望」 信者の生涯は、すべてが聖霊により、信仰を以てする。そしてまた、すべてが希望である。
「
我等は此処(ここ)に在りて恒に存(たも)つべき城邑(みやこ)なし。惟(ただ)来らんとする城邑(みやこ)を求む」(ヘブル書13章14節)。「
我等は約束に因り新しき天と新しき地を望む。義その中に在り」(ペテロ後書3章13節)。
信者はこの世に在っては、自分の国に在るのではない。「
我等の国は天に在り」(ピリピ書3章20節)とある。彼は救われたと称するが、未だ完全に救われたのではない。
「
我等は希望の内に救はれたり」(ロマ書8章24節改訳)、「
我等今既に神の子たり。然れども後如何未だ現はれず」(ヨハネ第一書3章2節)とある。万事が希望の内に在るのである。
信者はこの世に在って、神からすべてを得たのではない。また最善を与えられたのではない。
すべてと最善とを約束されたのである。
「
汝等の生命(いのち)はキリストと共に神の中に匿(かく)れ在るなり」(コロサイ書3章3節)とあって、生命そのものさえ、希望の目的物として、今は私達の眼から匿(かく)れてあるのである。
パウロは今時(いま)の多くの信者のように、この世において黄金時代を望まなかった。彼は既に獲(え)たとは思わなかった。ただ後ろにあるものを忘れて、前にあるものを望んだ(ピリピ書3章13節)。彼は希望する者であった。彼は待望する者であった。
彼は万事を賭して、未来の栄光に与ろうと思った。彼の生涯は、全く希望の生涯であった。この世に在ってすべてを失って、来世においてすべてを獲ようと望んだ生涯であった。
人は希望の動物であると言うが、パウロならびに彼の同信の友ほど希望
だけの人は無かった。彼等は、万事万物を希望の内に有(も)ったのである。彼等の救拯(すくい)も、生命(いのち)も、報賞(むくい)も、すべてこれを希望として有ったのである。夢見る者達よとこの世の人達は彼等について言うであろう。
◎ 「
義」 これまた大文字である。人生の十分の九は正義であるとは、英国の有名な思想家マッシュー・アーノルド(
http://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Arnold )の言葉である。
義は内的であり、また外的である。心の義(ただ)しい状態であり、また神と人とに対する義(ただ)しい関係である。神の正道に基づく内外の調和である。世に義ほど慕わしいものはない。
天国にしても別のものではない。「
義その中に在り」と言って、義が浸透する所である。自分も義人となることができ、他人もまた悉(ことごと)く義人となって、義が自由自在に行われる所である。
義の反対は罪である。そして罪の結果は、内に在っては汚穢(おわい)である。仇恨(きゅうこん)である。妬忌(とき)である。憤怒である。嫌悪である。外に在っては分争である。競争である。戦争である。
この世が嫌なのは罪の故である。天国が慕わしいのは義の故である。義は信者の最大目的物である。美よりも、理よりも、彼は義を慕うのである。彼にとっては美は義の表現である。理は義の原理である。
彼は自分が義とされることを望み、また人類が義とされることを祈る。彼はまた、義に基づかない愛を信じない。義に基づかない愛は、愛であって愛でない。
義が崩れるなら、宇宙人生の根底が崩れるのである。救拯(すくい)も永生も栄光も、悉く義に基づいているのである。ただの一字である。人生の十分の九だけではない。その全部が、この一字の中に含まれているのである。
◎ 「
義の希望」 信者の生涯は希望の生涯である。殊に義の希望の生涯である。義の実現を待望む生涯である。自己の義の完成を待望み、水が大洋を覆うように神を知る知識が全地を覆うようになるのを待望む生涯である。
「
我が救(すくい)の来るは近く、我が義の現はるゝは近し」(イザヤ書56章1節)とエホバは言われたとある通りである。
人は信仰によって義とされるとあるのは、
義と認められるということであって、彼がこの世に在る間に完全な
義人となるということではない。信者はこの世において義人として認められ(義人として扱われ)、来世において義人とされるのである。
「
我等今神の子たり。後如何未だ現はれず。彼れ現はれ給はん時には、神に肖(に)んことを知る」(ヨハネ第一書3章2節) 義人として認められるのは、大きな恩恵である。しかし、実質的に義人とされるのは恩恵の極である。
そして神は、私達において始められた善い業を、主イエス・キリストの日までに(あるいはその日において)完成されるのである(ピリピ書1章6節)。義とされることは、今もなお希望として存するのである。
しかし神の約束による希望であるから、期待を外れる恐れのない希望である。必ず実現される希望である。実現されるべき義の希望である。
罪が厭うべきものであり、義が慕うべきものである事を知る信者にとっては、この希望に勝る希望はないのである。そして、私の希望はまた、人類の希望である。また万物の希望である。
義が宇宙に行われる時に、造化の目的は達せられるのである。信者は自己に関し、社会に関し、人類に関し、宇宙と万物とに関し、
義の希望を懐く者である。
◎ 「
待望」 切なる希望を待望と言う。あるいは翹望(ぎょうぼう)と言う。足を翹(つまだ)てて人が来るのを待つ状態である。あるいは鶴首(かくしゅ)と言う。首を長く伸ばして待つという意味である。
ギリシャ語のアペクデホマイには、体を前に屈め、手を広げて物を受けようとする意味がある。非常に切なる希望である。足をつま立て、天を仰ぎ、首を伸ばし、手を広げて約束の物に接しようとする態度である。
そして信者の日常の態度は、この態度である。「
我等の国は天に在り。我等は救主即ちイエス・キリストの其所(そこ)より来るを待つ。彼は万物を己に服(したが)はせ得る能(ちから)に由り我等が卑(いやし)き体(からだ)を化(かえ)て其栄光の体に象(かたど)らしむべし」(ピリピ書3章20、21節)とあるのは、この態度である。
初代の信者は、常にこの態度に立って、叫んで言ったのである、「
主イエスよ来り給へ」と。彼等はこの世においては、讒誣(ざんぷ
:無実の事を言い立ててそしる)、窮乏、迫害の外には、何物をも望まなかったのである。
彼等の希望は、悉(ことごと)くつながって、天に在ったのである。ゆえに待望したのである。切望したのである。翹望(ぎょうぼう)したのである。天を仰ぎ、手を伸ばして、主が再び来られて恩恵を施して下さることを待望んだのである。
アペクデホマイの一語は、よく初代信者の心理状態を言い表したのである。これは殊にパウロ特愛の語である。
ロマ書8章19節、同23節、同25節、コリント前書1章7節、ピリピ書3章20節、ヘブル書9章28節等にある「俟(ま)つ」または「待つ」とあるのは、みなこのアペクデホマイである。実に痛切な一語である。それによって、パウロが如何に来世的な人であったかが解る。
◎ 「
義の希望を待望む」とあって、その内に何か一語省略してあることが解る。略辞法(エリツプシス)は、パウロ独特の文法である。彼は文意が明瞭である限りは、文字を省くことを敢えて意に留めなかった。
もちろん義の希望の
実現を待望むということである。しかも
希望を待望すると言って、希望がどれほど切であったかを語るのである。
********************
こうしてパウロはここに言ったのである。
我等は、我と我が同信の友等とは、パウロ、ソステネ、テモテ、シルワ
ノ、シラス、ルカ等は、足をつま立て、首を伸ばし、手を広げ、天を仰
いで、神がキリストを以て約束し給ひし義の希望の実現せんことを待つ。
而(し)かも是れ我等の思想又は努力に由るに非ず。聖霊に由り信仰に由る
なり。聖霊に助けられ、信仰を以て之に応じ、今既に義と認められ、後
に全く義とせられんことを待望む。
聖霊、信仰、義、希望、而して其実現を待望む
切々の情、我等は之を言表
はすに、他に言葉を有せず。故に我が信仰を標榜する大文字を聯(つら)
ぬるのみ
と。そしてパウロにこの簡単でしかも深遠な言葉を発せさせた理由は、他にあったのである。彼は当時既にキリスト教会に行われた種々の異端に対して、この言葉を発したのである。
人力を唱える者に対して、神力即ち聖霊を唱えたのである。行為を主張する者に対して、信仰を主張したのである。救拯(すくい)の完成を現世に期した者に対して、義の希望を高調したのである。そして現世に満足する者に対して、待望的生涯を宣言したのである。
彼はこれらの異信異説の人達に対して、自己の立場を明らかにして言ったのである。「私達はそうではない。私達はこう信じる」と。彼は異端を排しながら、真福音の根本を述べたのである。
パウロが昔唱えた福音、そしてまた私達が今日信じる福音、彼がこれ以外に福音はないと唱えた福音(ガラテヤ書1章7節)、そして私が今日拠って立つ福音、それはガラテヤ書5章5節のこの言葉である。
「
我等は聖霊に由り、信仰に由り、義の希望を切望とす」と言う。これに次節における
愛の一語を加えて、ベンゲルが唱えたように、キリスト教の全部はその内に在ると言うことが出来る。
完