全集第22巻P431〜
希望の生涯 他
大正5年10月10日
1.希望の生涯
私は後(うしろ)を見ない。前を見る。過去を顧みない。未来を望む。前へ前へと限りなく進む。ただこの一事を努める。即ち後にあるものを忘れ、前にあるものを望み、神がキリストによって上へ召して与えて下さる褒美を得ようとして、目標(めあて)に向って進む(ピリピ書3章14節)。
私は下を見ない。上を見る。地を見ない。天を仰ぐ。私は星を見る者(スター・ゲーザー)である。私の国は天に在る。私は、私の救主イエス・キリストが、そこから降りて来るのを待つ(ピリピ書3章20節)。
私は人を見ない。神を見る。私は人の批評に耳を傾けない。私は私の霊魂を、義を以て裁かれる私の造主にお任せする(ペテロ前書2章23節)。
私は自己に省みない。イエスを仰(あお)ぎ瞻(み)る。自己に生きようとしない。私を愛して私のために己を捨てられた者、即ち神の子を信じることによって生きようとする(ガラテヤ書2章20節)。
私はこの世に在って、旅客(たびびと)また寄寓者(やどれるもの)である。この世に在って、永久に存続する城邑(みやこ)はない。ただやがて来る城邑(みやこ)を求める(ヘブル書13章14節)。
2.歓喜の極
悲痛の極とは、愛する者と別れて、終(つい)に再びその人と相会うことが出来ないことである。死別は普通の事であるが、これがあるので人生に実は歓喜も興味も無いのである。
これと相対して、歓喜の極とは、永久に別れたと思っていた愛する人と再び相会する機会があるという事である。この事があるのを知って、人生に悲哀は絶え、人が流す涙は悉く拭い取られるのである。
そして、「
キリスト死を廃(ほろぼ)し、福音を以て生命(いのち)と不朽(くちざること)とを明著(あきらか)にせり」(テモテ後書1章10節)とあって、この希望が私達に供せられたのである。
「
生きて存(のこ)れる我等は、彼等既に寝(ねぶ)れる者と共に雲に携へられ空中に於て主に遇(あ)ふべし。斯(か)くて我等いつまでも主と共に在るべし」(テサロニケ前書4章17節)とあって、死別は苦別でなくなるのである。
信者の復活の希望ほど、喜ばしいものはない。世は信者を嘲りつつも、死の把握の中に苦しむのである。これに反して信者は世に嘲られつつも、死の束縛(なわめ)を脱して、神の子の自由を楽しむのである。
3.完全な人生
人生は短いが、しかし完全である。そのもの自体としては完全でない。しかし、完全な生涯に達する準備としては、最も完全である。大学校としては完全でない。しかし、これに入るための予備校としては完全である。
その歓喜と悲哀、成功と失敗、会合と離別、和親と敵対、熱い涙と耐え難い苦痛、これ等はみな、私達を完成するために必要である。
現世のための現世ではない。来世のための現世であることを示されて、私達は現世に生れて来たことを悔いず、また生涯が短いことを悲しまない。私達は詩人ゲーテに倣って、「この歓喜と悲哀は何のためか」と言って歎かない。
私達に臨んだ歓喜と悲哀とは、悉くその目的を達した。私達はこれによって、幾分かは神を知り得た。幾分かはキリストの満ち足りた程度にまで達した(エペソ書4章13節)。
私達は、過去を顧みて悔恨はない。ただ感謝があるだけである。すべての事は働いて益となった。この短い人生は、限りないキリストの国に私達を導き入れるために、無くてはならないものである。
4.信仰と待望
私が聖(きよ)い者となってから、キリストが私の心に降られるのではない。彼が私の汚れた心に降って、私を聖(きよ)い者にして下さるのである。それと同じように、世が光明の域に達して、キリストの再臨があるのではない。彼が暗黒の世に臨んで下さって、光明が世に満ちるのである。
キリストを私の心に招く者は、私の信仰である。世に彼の再臨を促す者は、信者の待望である。律法(おきて)の行いによって聖霊は降らない。信徒の活動によってキリストは再び世に来られるのではない。
「聖国(みくに)を臨らせ給へ」、「主イエスよ来り給へ」、信仰によりこの祈祷が、普(あまね)く万国の民から揚がる時に、人の子は神の栄光に包まれて、世に来られるのである。
万国平和会議は開かれ、平和協会はいずれの国にも設けられ、政治家と宗教家とはテーブルを囲んで平和を議しても、平和は来ないのである。
エホバは地の果てまでも戦争を止めさせ、弓を折り、矛を断ち、戦車(いくさぐるま)を火で焼かれる(詩篇46篇)。そうです。人ではなくてエホバである。
彼が来られてだけ、この事は成るのである。
5.注意せよ
世には拙(つたな)い私のような者の非を挙げて、私が信じるキリスト教の撲滅を計る者がいる。何と愚かな人達であろうか。
彼等は何故に岩に生える松を切り倒して、岩の撲滅を計らないのか。松は岩によって生えるのである。岩は松によって立つのではない。ゆえに松を切り倒しても岩は崩れないのである。
それと同じで、私を滅ぼしてもキリスト教は滅びない。世々の岩であるキリスト教は、今日有っても明日あるかどうかを知らない私達キリストを信頼する者と、運命を共にする者ではない。そして実に、私達にしてもまた、固くこの岩に頼る間は、人の攻撃に遇っても倒れない。
キリスト教を撲滅しようと計る者は、自らが撲滅されないように、注意すべきである。「
此石の上に墜(おつ)る者は壊(こぼた)れ、此石、上に墜れば其もの粉砕さるべし」(マタイ伝21章44節)とある。
そして今日までキリスト教の撲滅を計って、自身が粉砕された者が、外国においても我国においても、幾人いるか知らないのである。
「
此石(世々の岩であるキリスト教)、上に墜れば其もの(キリスト教の撲滅を計る者)粉砕さるべし」とのことである。注意せよである。
6.祈祷の永遠的効力
イエスはその弟子に告げて言われた。「
汝等すべて我名に託(より)て求(ねが)ふ所のことは、我れすべて之を行(な)さん……若し汝等何事にても我名に託(より)て求(ねが)はば、我れ之を行さん」(ヨハネ伝14章13、14節)と。
ところが、私が願った祈求(ねがい)の中に、聴かれなかったものが数多ある。故に私自身もしばしば神を疑い、世人は祈祷の無効を唱え、教会者は、私が彼等の命に従わずに、彼等の教会に属しないためだと私を責めるのである。
しかし、イエスの言葉は過(あやま)たないのである。祈祷は聴かれないのではない。
今聴かれないのである。あるいは今世において聴かれないのである。神はその約束を充たされるに当って、永遠の時を有(も)っておられるのである。
彼はある時は、今年の祈祷を明年聴かれる。そのように、ある場合には、今世の祈祷を来世において聴かれるに相違ない。そして私達が聴かれない祈祷と称するものの中には、来世において聴かれる祈祷が数多あるに相違ない。
聖父(ちち)はその子の祈祷を聴かれるに当って、必ず
祈求(ねがい)以上に聴いて下さる者であるから、彼は来世において、今世における私達の祈求(ねがい)に数倍して、これを聴いて下さるに相違ない。
私達の愛する者の病が、私達の祈祷に応じて癒えない場合などは、これであるに相違ない。神はやがて来る彼の聖国(みくに)において、私達がすべて思う以上に、私達のこの切なる祈求(ねがい)を豊かに、かつ十分に聴いて下さるに相違ない。
永遠の時を有しておられる神に、私達の祈祷を聴こうと思って急ぐ必要はさらにない。彼はある祈祷は、これを今世において、あるいは直ちに聴いて下さる。しかし、ある他の祈祷は、殊に私達の永遠に関わる重要な祈祷は、これを不朽の来世において、私達が願ったところに勝って、聴いて下さるに相違ない。
そしてこの事を信じて、私達の祈祷に聴かれないものが多くあっても、イエスの言葉を疑わないのである。「
汝等何事にても我名に託(よ)りて求(ねが)はば、我れ之を行さん」と彼は言われた。
「何事にても」である。そう、「何事にても」である。信仰により彼の名によって願った祈求(ねがい)に聴かれないものはないのである。それだから喜ぶべきである。「
断(たえ)ず祈るべし」(テサロニカ前書5章17節)である。
「
恒(つね)に祈祷(いのり)をなし怠(おこた)らずして感謝と共に之を為すべし」(コロサイ書4章2節)である。信者に取って無効な祈祷などは無いことを知るべきである。
私達の祈祷は、私達の生命(いのち)と共にキリストと共に蔵(かく)れて神の中に在るのである。そしてキリストが顕現される時、私達の祈祷は顕わに聴かれるのである(コロサイ書3章3、4節)。
それだから黙しなさい、私の不信の霊よ、不信の世よ、無慈悲な教会者よ。私の祈祷が聴かれないのは、聴かれないのではない。単に今聴かれないに過ぎないのである。
私達キリスト者は、「
朽(くち)ざる生命(いのち)の能(ちから)に由て立つ」(ヘブル書7章16節)者である。来世と共に朽ちない生命が私達を待っているので、私達は永遠を期して、恒に倦(う)まず怠らず私達の祈祷(いのり)を為すべきである。
7.希望の種まき
善を為すに倦むこと勿れ。そは若し倦むことなくば、我等時に至りて穫
取(かりと)るべければ也。 (ガラテヤ書6章9節)
◎ 道義学者は、私達に教えて言う、善は善である。世がこれを認めなくても、人がこれに報いなくても、善は善である。ゆえに人は皆、報償は何かに目を注がずにただひたすら善を為すべきである。
「善を為すことに倦むな」、それ以上を語る必要はない。これはカントのいわゆる絶対的命令である。故に人はこれに何も条件を付けることなく、これに服従すべきであると。
◎ しかし人は、善の報いを要求するのである。善い報いをもたらさない善を、善として認めないのである。もちろんその報いは、金銭的であることを要さない。あるいはまた、現世的である必要はない。しかし、ある確実な報いを要求するのである。
そして確実な報いが提供されない所に、善は実際的に行われないのである。少なくとも盛んに行われないのである。
たとえカントのような賢者であっても、報いの伴わない善を行うに当って、大きな努力を要するのである。絶対的命令である。愛の勧誘ではない。善を単に善として要求されれば、善行は重荷として臨むのである。
◎ 故にパウロは、善を行うべき理由を述べたのである。「
そは若し倦むことなくば我等時に至りて穫取(かりと)るべければ也」と彼は言った。これはカントには言えないことである。これは
(カントの言う)絶対的命令ではない。
善の必然的結果を説いて、善行を容易にしようとしたのである。善は報いられるであろう。必ず報いられるであろう。故に善を為すことに倦むなとパウロは言ったのである。
◎ 善は報いられるであろう。しかし、それはいつか。もちろん今直ちにではない。またこの世においてではない。「時に至りて」である。そしてキリスト者の時は、この世だけで尽きないのである。彼には無限の未来があるのである。
彼はこの世が終って後に、さらに良い世が始まることを信じるのである。彼は
その世に希望をつないで生きるのである。その世はこの世と異なり、シミは食わず、錆(さ)び腐らず、盗人が押し入って盗まない世である。そして彼はそこに彼の財(たから)を蓄えようとするのである。
「時至らば」である。「
後如何、未だ顕れず。其顕はれん時には、我等神に肖(に)ん事を知る」(ヨハネ第一書3章2節)である。その時に私達が行った善は、悉く報いられるのである。
パウロはさらにはっきりと言ったのである、「
蓋(そは)我等必ず皆キリストの台前(だいぜん)に出で、善にもあれ悪にもあれ、各(おのおの)自身に居りて為しゝ所のことに循(したが)ひ其報(むくい)を受くべければ也」(コリント後書5章10節)。
◎ 私達が行う善は報いられる。しかし、この世においてではない。故に、金銀、土地家屋、勲章等、この世の物を以てではない。復活体を以て、義の冕(かんむり)を以て、殊に私達の労苦によって救われた霊魂を以て、私達の善行は、必ず報いられる。
来世があり、永生があることを知って、善行はこの悪い世にあっても、空を撃つような事ではなくなるのである。私達は希望を以て種をまく。「
そは若し倦む事なくば、時に至りて穫取るべければ也」である。
完