全集第22巻P438〜
伝道の目的
大正5年10月10日
◎ 今や伝道と言えば、人に善道を伝えて彼を善人にすることである。彼を善い家庭の人とすることである。彼を善い市民にすることである。彼を善い社会の会員とすることである。即ちこの世における善人とすることである。
今や教会とキリスト信者とは、この世を離れて伝道に従事しない。彼等にとっては、伝道は社会奉仕(ソーシャルサービス)である。人を良くし、社会を良くし、この地上の生涯を円満、清潔、幸福にすること、その事が彼等の伝道の目的である。
そして彼等の伝道報告なるものが、十分にこの事を証明するのである。いわく、誰彼が驚くべき改信を経て、このような善人となって、このような善行を挙げたと。いわく、社会はこのように改まったと。
いわく、慈善金は幾ら集って、幾人の貧民は養われたと。いわく、何個の学校は設けられて、幾人の生徒は養成されたと。いわく、私の教会に幾人の勅任官がいると。いわく私の教会は衆議院に議員を送ったと。
いわく学士何人、博士何人を出したと。いわく、トルコの都コンスタンチノープルにおけるロバート大学によって、ブルガリアは生れたと。いわく日本の京都における同志社大学によって、新日本は起ったと。
そしてこれ等はみな、教会ならびに伝道会社の伝道報告に現れるところであって、これを読んで世人は、キリスト教伝道なるものは、この世の進歩発展に非常に大きく貢献することを知り、教会もまた、そのような報告をして、その功績が大きいことを世に向って誇るのである。
◎ しかしながら、これは果してキリスト教伝道の目的であるか。キリストと使徒等と、初代の信者等は、果してそのような目的をもって、その伝道に従事したのか。これが、私が問いたいと思うことである。
そして私が見るところでは、今の伝道と昔の伝道との間に、その目的において天地もただならない相違があるのである。
◎ キリストの目的は、神の国の建設にあった。しかも神の国は、今この世において実現されるべきものではなかった。彼は「神の国は近づけり」と言われて、「神の国は臨(きた)れり」とは宣(の)べられなかった。(ルカ伝11章20節の場合は別である)。
「
今時(いま)は汝等(彼の敵)の時、且(かつ)暗黒(くらき)の勢力なり」(ルカ伝22章53節)と言われた。「
我国は此世の国に非ず……我国は此世の国に非(あらざ)る也」(ヨハネ伝18章36節)と、彼は繰返して言われた。
彼は彼の国の建設を、未来に期された。しかもこの世の未来にではない。この世が終って後の来世に期せられたのである。この点において、キリストとこの世の改革者等との間に、天地の差があった。
彼は不完全なこの世を以ては満足されなかった。万物の改造を経た後の新天新地で王となることが、彼の目的であった。とうてい彼は、この世の教師ではなかった。
彼と彼の目的成就の地との間には、深く広い死の溝が横たわっていた。彼は、死後の復活の後に、彼の国の建設を期された。驚くべき計画である。この世の知者の眼には、狂愚のように見える計画である。
それにもかかわらず、イエスは真剣に彼の身をこの計画の実行にお委(ゆだ)ねになられた。そしてこの国を紹介し、この国の市民を作ることが、彼の伝道の目的であった。
◎ やがて来る世において、現れようとする彼の国の市民を招集し、これを錬磨し、これを完成すること、その事がイエスの伝道の目的であった。
「世の子輩(こどもら)」の中から「光の子輩」を招くこと(ルカ伝16章8節)、そして彼等を教え導いて「復活(よみがえり)の子」とすること(ルカ伝20章36節)、その事がイエスの伝道の主眼であった。
彼はもちろん、この事を為すに当って、他の事を怠ることはされなかった。彼は至る所で、恩恵(めぐみ)を施された。
彼は、彼に来るすべての病人また鬼に憑(つ)かれた者を癒された。彼の徳は到る所で彼から流れ出て、彼の衣に触れる者までが、その憂患(わずらい)を癒された。
しかし、これは彼が世に降った目的ではなかった。彼の伝道の目的ではなかった。彼は世人が、彼の天職がここにあると思うことを恐れて、彼によって病を癒された者を警(いまし)めて、しばしば言われた、「汝慎みて此事を人に告ぐる勿れ」と。
彼は御自分がキリスト即ちメシヤであることを自覚しておられた。しかしながら、世人が思うようなメシヤではないことを、よく知っておられた。彼は、この世が要求するメシヤではなかった。天国建設者としてのメシヤであった。
彼だけがよく御自分の目的を知っておられた。世が見て高徳と見做した事は、御自分にとってはそれほどの高徳ではなかった。彼の特殊の御事業は、病者を癒し、貧者を養い、その他この世の状態を良くすることではなかった。
彼の特殊な御事業と称すべきことは、自ら進んで十字架の死を味わって、天国の門を開くことであった。そしてこれに次いで、死から甦って不朽と永生とを明らかにすることであった(テモテ後書1章10節)。
この事のために彼は世に降られたのである。彼の生涯の目的は、ここに在ったのである。そして彼が、人が彼に就いて特に知ることを願われたことは、ここに在ったのである。
キリストに関するその他の事は、比較的細事である。しかし
この事、即ち
彼の死と復活、これを知らずにキリストを知ることは出来ない。即ち彼の血を飲み、その肉を喰らわずには、人は彼の属(もの)となることが出来ないのである。
◎ イエスの伝道の目的はここに在った。使徒等の伝道の目的もまた、ここに在ったのである。使徒等もまた、今時(いま)の宗教家のように、この世の改善を、その活動の主眼とすることはなかった。
「
神異邦人を顧み、其の中より己が名を崇むる民を取り給ふ」(使徒行伝15章12節)とは、使徒等に示された神の聖旨(みこころ)であった。
そして使徒等は、慎んでこの聖旨(みこころ)に従ったのである。神には、神がその聖国(みくに)に召された民があった。そして使徒等は、この民を招集する任に当ったのである。彼等はその意味において特に使徒であった。彼等は天国の民として召された者に、神の召喚状を伝達する者であった。
「
凡(すべ)ての事は、神の旨に由りて召されたる、神を愛する者のために悉く動(はたら)きて益をなすを我等は知れり。それ神は予(あらかじ)め知り給ふ所の者を、其子の状(さま)に効(なら)はせんとて予め之を定む。
又予め定めたる所の者は之を召し、召したる者は之を義とし、義としたる者は之に栄(さかえ)を賜へり」(ロマ書8章28〜30節)とある。これが神の民の救済(すくい)に関わる神の順序書(プログラム)である。そして使徒等は、慎んでこの順序書に従って、その使命を果たしたのである。
一言でこれを言えば、使徒等は彼等に委ねられた天国の市民養成を、その活動の主眼としたのである。
「
汚点(しみ)なく皺(しわ)なく聖にして瑕(きず)なき栄ある教会(エクレージャ)(召された者の一団)」を、神の国実現の時に当って、主に献げようと思って、彼等は労苦したのである(エペソ書5章27節参考)。
パウロはピリピにいる彼の信者に書き送って言った、「
キリストの日に我をして我が行ひし所、労苦せし所のことの徒然(つれずれ)ならざるを喜ばしめよ」(ピリピ書2章16節)と。
即ち救済(すくい)ということは、使徒等にとっては、この世の事ではなかった。「キリストの日」においての事であった。その日その時に、彼等に委ねられた者を、「潔(きよ)き女(むすめ)としてキリストに献げん」こと、その事が彼等の伝道の目的であった(コリント後書11章2節)。
使徒等の目は、常に「其の日」の上に注がれた。「其の日」に主に誉められたいと思った。「其の日」に彼等の労苦が認められることを求めた。彼等はこの世に在りながら、既にこの世の者ではなかった。彼等の行動は、すべて「其の日」即ち彼世のためであった。
◎ そして使徒等の目的が、彼世にあったので、彼等は強く著しくこの世を感化したのである。朽ちることのない生命(いのち)の能(ちから)に従って立った彼等は、朽ちるこの世の生涯を深く甚だしく感化したのである。
この世のことに無頓着であった彼等が、最も多くこの世を益したのである。社会事業は、使徒等の本業ではなかった。副業であった。
◎ 社会奉仕(ソーシャルサービス)として伝道に従事する現時(いま)の教会の伝道に見るべきものが無いのは、敢えて怪しむに足りない。彼等が天国の民を作り得ないのはもちろんのこと、彼等はこの世の聖人をも君子をも作り得ない。
彼等の社会事業なるものは、白く塗った墓である。外は美しく見えても、内は骸骨と諸々の汚れに満ちている(マタイ伝23章27節)。
私達が先ず第一に獲得すべきものは、明確な救済(すくい)の希望である。私達が努めて為すべきことは、キリストの教示に従い、使徒等に倣って彼の日において現れるであろう生命(いのち)の能(ちから)に従って立つことである。
この希望と生命とがあるから、私達は至る所で、またなす事毎に、大勢力となるまいと欲しても、それは出来ないのである。
完