全集第22巻P443〜
地 の 塩
大正5年10月10日
汝等は地の塩なり。塩もし其味を失はば、何を以てか故(もと)の味に復(かえ)
さん。後は用なし。外に棄られて、人に践(ふ)まるゝ而已。
(マタイ伝5章13節)
◎ 「汝等」 少数の信者である。特に神に召されて万民救済の任に当らせられた者である。
◎ 「地」 大きな俗世界である。政治界、経済界、実業界などと称せられて、「此世の主(あるじ)」即ち悪魔の支配の下に、虚栄と利欲とを追求して、その繁栄を誇る者である。
地は、利欲の大塊である。自己中心を主義として成立する大社会である。名は文明と言い、愛国と言い、外交と言って、外はうるわしく見えるけれども、中は百鬼夜行、諸々の汚れで満ちる墓場のようなものである。
◎ 「塩」 加味剤である。また、特に防腐剤である。放任しておけば腐敗がその底を知らない大俗界を、比較的健全に保つ者である。
塩は辛いので、地はこれを好まない。地は異分子として、これを扱う。しかしそれでも地は塩なしには永続することが出来ない。塩は地に憎まれながら、地の腐敗を防止するのである。
◎ 「地の塩なり」 もちろん地が産する塩ではない。地に属する塩は、地の腐敗を防止することは出来ない。外から地に加えられた塩である。地にはあるが、地の属(もの)ではない塩である。
朽ちる地とは全く素質を異にする塩である。ゆえに防腐の効力があるのである。地である大俗界は、如何に焦っても、自ら己の腐敗を防止することが出来ないのである。
政治家は政界を清められず、愛国者は国を救えない。地は地以外から加えられた塩によって、その腐敗を防止されるのである。天来の火に接してその汚れを焼き尽くされ、天の光を受けて、その暗黒を照らされるのである。
◎ 殊に注意すべきは、地の大塊に対して、塩が少量であることである。塩は地の腐敗を防止するために、地と同量となる必要はないのである。塩は少量で足りるのである。
また塩は、地を化して塩とする必要はないのである。地は依然として地として存しても、効力(ちから)ある塩は、その腐敗を防止して余りがあるのである。少量の塩は、地の大塊を塩に化すことなしに、よくその腐敗を防止するのである。塩の能力(ちから)は、何と大きいことか。
◎ 俗界は大である。信者は少数である。信者が信者としての素質を失わなければ、よく大俗界の多数を制し、その汚れを排し、濁りを清めることが出来るのである。
敢えて俗界に多数を得る必要はないのである。またこれを化して光の塊(かたまり)とする必要はないのである。
あたかもラジウムの微量が、その放射する光線によって、これに接触する大物体をラジウム化するように、真信者が放射する信仰の光線は、大俗界を化して、たとえ暫時であっても光明の世界にするのである。
少量の塩が大地の腐敗を防止する。少数の光の子供達が大俗界の堕落を防止する。量と数とにおいて多くである必要はない。質において純かつ清であることを要する。
少数のキリストの弟子が、煌々(こうこう)とその光を輝かせば、暗い大俗界はキリスト化されて、ラジウムの光線によりガン腫がその勢力を挫かれるように、その罪悪の猛威は挫かれるのである。信者は多数によって俗界を制するのではない。その信仰の光輝によって、罪の暗黒を駆逐するのである。
◎ 「塩若し其味を失はば」 塩がもし
去勢されるならばという意味である。塩がもし効力を失えば、あるいは塩がもし
馬鹿になるならばと訳してもよいのである(ギリシャ語のmoranthe にはこの意味がある)。
即ち塩が地に化せられて、地を化する力を失った状態を言うのである。即ち信者が俗化して、俗界を聖化する力を失った状態を示すのである。信仰の形を残して、その力を失った状態である。
「
彼等は敬虔の貌(かたち)あれども、実は敬虔の徳(能力(ちから))を棄つ」(テモテ後書3章5節)とある、その状態である。
信者と称しているが、実は俗人である。俗人のように計り、俗人のように行う者がそれである。この世の勢力に信頼し、富と政権と多数との勢力を借りて事を為そうと思う。信仰を世界的勢力と見做し、これを広めるに当って世界的方法を取る。
あるいは帝王の祝電を乞うて集会の成功を計り、あるいは貴顕を招待して教勢の拡張を計る、伝道に自動車や飛行機を使用し、楽隊にラッパを吹かせて、冊子を散布するの類、これらはみな、塩がその味を失ったものであって、去勢された信者の行為である。
剛健な信仰は、自己以外の勢力に頼らないのである。信仰は、自己を弘布しようとするに当って、信仰独特の手段と方法とを選ぶのである。敢えて地の手段方法を学ぶ必要はないのである。そして信仰が効力を失った時に、
馬鹿になった時に、この世の手段方法に則って、敢えて恥としないのである。
◎ 「何を以てか、故の味に復(かえ)さん」 何によって塩を再び塩としたらよいかという意味である。そのような塩が、もはや腐敗を防止することが出来ないのはもちろんのこと、それ自身にさえ塩味を起すことは出来ない(マルコ伝9章50節、ルカ伝14章34、35節参考)。
「
神の善き言(ことば)と来世の能力(ちから)とを嘗(あじわ)ひて後に堕落する者は、神の子を十字架に釘(つ)けて顕辱(さらしもの)とするが故に復(ま)た之を悔改に立返らすること能(あた)はざる也」(ヘブル書6章5、6節)とあるその事である。
強く厳しい言葉である。しかしながら、事実であるから止むを得ない。俗人の俗了
(:俗化してしまうこと)はこれを救うことが出来る。しかしながら、信者の俗化に至っては、これを癒す途がない。「何を以てか故(もと)の味に復へさん」である。
「
犬かへり来りて其吐きたる物を食ひ、豚洗ひ潔められて復た泥の中に臥(ふ)すと云(い)へる諺(ことわざ)は真にして彼等に応(かな)へり」(ペテロ後書2章22節)とある。真であって恐ろしい。
◎ 「後は用なし」 去勢した塩と俗化した信者(または教会)、世にそのような者ほど無用な者はない。俗人は俗人として用がある。
しかし俗化した信者(または教会)に至っては、遥かに俗人以下であって、パウロのいう「
世の汚穢(あくた)また万の物の塵垢(あか)」(コリント前書4章13節)である。
俗人の用を為さず、信者の用をも為さず、世に無用な人物はいないと言うのは、俗化した信者を除いてのことである。
◎ 「外に棄(すて)られ」 第一に神に捨てられる。その聖霊の供給を断たれる。「
汝微温(ぬる)くして冷かにも有らず熱くも有らず。是故に我れ汝を我が口より吐出(はきいだ)さんとす」(黙示録3章16節)とある。
言うのを止めなさい、神は無慈悲であると。信仰は婦人の貞操のようなものである。精細で微妙である。ゆえにわずかな事によって破れやすい者である。俗化と言えば小事のように聞こえる。しかし、破倫と言えば重大事件である。
そして信者の俗化は、婦人の破倫と共に語るべき者である。信者の神に対する関係は、新婦(はなよめ)の新郎(はなむこ)に対する関係である。そして俗化は、この聖なる関係の破壊である。
ゆえに聖書に在っては、信者(教会)の堕落を称して、「
地の諸王之と淫を行ふ」(黙示録18章3節)と言う。
俗化は姦淫である。神がこれをお怒りになるのは当然である。信者は俗化により、神に離縁状を渡されるのである。
◎ 「人に践まるゝ而已」 第一に神に棄てられ、第二に人に棄てられる。棄てられるに止まらず、踏みつけられる。自分が媚びようと思った人(俗人、俗世界)にまで棄てられ、また踏みつけられる。あたかも淫婦が不義を犯して、その夫に棄てられるに止まらず、さらにその情婦にまで棄てられるのと同然である。
最も憐れむべき状態である。しかし避けられない状態である。淫婦の運命は、ここに至るのである。「地の諸王と淫を行」った信者と教会との運命もまた、ここに至らざるを得ないのである。
世は教会を利用しようと思うが、利用された教会を賎(いや)しんで止まないのである。「人に践まるゝ而已(のみ)」である。教会は世に媚(こ)びへつらって、世に踏みつけられるのである。
世を救おうと思って救い得ず、終に世に踏み殺される。信者の俗化は、終にここに至らざるを得ない。恐れてもなお恐るべきは、信者の俗化である。
◎ 近頃の事であると言う。ある権力家が、その支援を受けている、あるキリスト教会の役人に向い、次の意味の言葉を語ったと聞く。
君達は、君達の経典を称して聖書と言う。しかし、これは甚だ不当であ
る。儒教には経書があり、仏教には経文がある。これらもまた聖書とし
ての価値がある。ところが、キリスト教の経典だけを称して、特に聖書
と言う。君達は宜しく聖書の聖の字を除いて、単に基督教の経典と称す
べきである。
と。事実が果して私の耳に達した通りであるかどうか知らないが、教会がこの世の権力に頼っていては、この侮辱は免れないことである。
フランクリンはかつて言った。「
この世の勢力に頼らなければ生存できない宗教は、生存する必要のない者であるから、これを廃棄しても良い」と。実に俗人の援助を受けなければ広められない宗教は、これを廃棄しても差し支えない。
布教伝道は、実業家、その他偽りの宗教家宣教師等の援助を仰いでまでもこれを行う必要はない。信者の信仰が有っての伝道である。味を失った塩の腐敗防止は、有って無いものであり、試みない方が良い。
◎ 主は言われた、「
汝等は地の塩なり」と。彼は、「汝等は地の塩
たるべし」とは言われなかった。即ち塩が塩であれば、地を潔めざるを得ないのである。信者が信者であれば、世は彼によって聖化されざるを得ないのである。
彼は自ら進んで世と交わり、その道に従い、その顰(ひそみ)に倣って聖化を努める必要はないのである。彼は、山の上に建てられた灯台のように、山の上に在って、世の暗黒を照らすことが出来るのである。
信者の俗化、教会の堕落は、多くの場合においては、自ら世と交わって、その腐敗を防止しようとすることから来るのである。しかし、彼はこの危険を冒す必要はないのである。
彼は、神が彼に負わせられる十字架を負い、神が送られる患難(なやみ)に耐えて、彼は居るだけで、世を聖化することが出来るのである。
あたかも義人ヨブが、その荒れ果てた家に座し、灰を被り、瓦の破片を取って、その身を掻きながら、神が彼に送られた試練に耐えて、よく神の義と恵みとを万世に伝えたように、今の信者もまた独りでいて世を照らし、その汚れを除くことが出来る。
罪に接しなければ罪を除くことは出来ないと言う者は、未だ信の奥義を知らない者である。信は信である。独りでいて有効である。信は地の塩である。塩であろうと思って努める必要はないのである。
「
汝死に至るまで忠信なれ、然らば我れ生命(いのち)の冕(かんむり)を汝に賜(あた)へん」(黙示録2章10節)とある。信者は世の塩である。また光である。独りでいて、その保つものを固く保って、諸邦(くにぐに)の民を治めることが出来る。(黙示録2章25、26節)
完