全集第22巻P449〜
初代キリスト教の要義 キリスト再来の信仰
(9月10日17日両日にわたる柏木聖書講堂における講演の大意)
大正5年10月10日
第一回 テサロニケ前書第1章、第4章および第5章
◎ テサロニケ前書は、現存しているパウロ書簡中の最初に書かれたものである。いや、単にパウロ書簡だけではない。新約聖書二十七巻の最古のものである。
もしその書かれた年代からするならば、マタイ伝の位置を占めるべきものは、この書である。この書ほど初代のキリスト教の真相を伝えるものはない。
◎ およそ事はその起源を最も貴しとする。末流が清いのは、その上流である渓水が清いからである。渓水が清いのは、さらにその源である岩間からほとばしる泉が清いからである。
近代の学者は、進化を重んじるが、信仰は、その源泉を貴ぶ。新約聖書は、真理の流れの源である。テサロニケ前書は、新約聖書中の泉である。
◎ テサロニケは、今のテサロニカ(
http://en.wikipedia.org/wiki/Thessaloniki )である。今回の戦争で、連合軍が相率いて、オーストリア、ハンガリアに侵入しようと窺いつつある重要な場所である。
古来より、商業貿易が繁栄して、東西両洋の連結に当った地方であった。そしてそのような地に在った信者の信仰が、真理の流れの源泉となったのである。
◎ 彼等の信仰とその実とは、明白単純であった。パウロは第1章3節に、これを約言している。いわく、「
汝等信仰に由て行ひ、愛に由て労し、我等の主イエス・キリストを望むに由て忍ぶ」と。
即ち、
信と
愛と
望とである。これはやがて、初代信者の信仰箇条となった。しかしながら、パウロはここに信愛望の定義を説かない。
信とは何か。彼は言う、「行である」と。愛とは何か。彼は言う、「労である」と。望とは何か。彼は言う、「忍である」と。
行為と
辛労と
忍耐と、これが即ち信愛望の真の定義である。
知るべきである、キリスト教は初めから、思索的ではなかった事を。キリスト教は実際的である。初代信者にとって、信仰と行為とは別の事ではなかった。ゆえに彼等は今日の信者のように、パウロの教えとヤコブの説との調和に苦しまなかった。
パウロは言った、「人の義とせらるゝは、信仰に由て行に由らず」と。ヤコブは言った、「人の義とせらるゝは、信仰にのみ由らず、行に由る」と。そして初代の信者は、「信仰に由て行」ったのである。こうして彼等は何の疑惑もなく、確実に救いを信じて安んじたのである。
◎ 信仰は必ず行を伴なう。イエスを信じれば、必然的にこれに続いて来る現象がある。禁酒禁煙などは、その最も普通なものである。あるいはまた、偶像を捨て、あるいはまた真理の立証のために、苦痛と迫害とを忍んで戦う等はみなこれである。
その実例はいろいろな個所で見ることが出来る。とりわけヘブル書第11章に記されたものは、その最も顕著なものである。そしてテサロニケの信者もまた同様であった。
◎
愛は労する。労もまた行である。しかし愛の行はただ義務を尽す行ではない。労とは義務以上である。愛は単に尽すべきことを尽すだけでは十分だと思わない。愛は行為以上に辛労する。
教師がその弟子を教えることが出来た時に、彼は教師としての義務を全うしたのである。しかしながら、教師がもし真にその弟子を愛するなら、彼はただ教えるだけでは満足することが出来ない。
彼は自分の子に対するのと等しく、その弟子のために辛労せざるを得ない。その健康、その家庭、その職業がみな彼の関心事となるのである。
真にキリストの愛に励まされた者の態度は、常にこれである。欧米の誠実な信者の中に、一面識もない日本人に対して懇篤(こんとく)親切で、溢れる熱情を以て尽力してくれる者がいるが、それはこのためである。
信仰は、この世のものではない行を伴なう。しかしながら、愛はそれ以上にさらに労するのである。
◎ 信仰によって行い、愛によって労する。初代信者の生活は、ここに尽きたのであるか。もしここに全てが尽きたのであるならば、初代信者の信仰は、決して永続しなかったであろう。
なぜなら、信仰には形式化しようとする危険がある。愛には蒸発し去ろうとする傾向がある。二者は、ただ互に相頼るだけでは立つことが出来ない。二者が倒れないためには、さらにある他の者を要する。三者が鼎立(ていりつ)して、初めて共に安全になることが出来る。
◎ ある他の者とは何か。それは「望」である。望があって、初めて忍耐を生じるのである。望がなければ、愛と信仰とは、その確実性を失うのである。実に初代信者が最も重きを置いたものは、望であった。これが、彼等の信仰に特別の力があった理由であった。
今の信者は、望を忘れている。これを忘れない者は、迷信を懐いている者であるかのように嘲られるのである。しかしながら、私達は望のない信仰を想像することは出来ない。望のない愛は、やがて雲散霧消するのである。
◎ パウロは殊に望を説いた。中でもテサロニケ前後書は、最も強くこれを高唱するものである。ゆえにある学者は、これを
望の書簡と称して、ロマ書、コリント前後書およびガラテヤ書の信仰の書簡、コロサイ書、ピリピ書およびエペソ書等の愛の書簡に対比させるのである。
◎ 彼は言う、「望に由て忍ぶ」と。忍耐は希望から生じるのである。事は甚だ明白である。「
農夫地の貴き産を得るを望みて、前と後との雨を得るまで、永く忍びて之を待てり」(ヤコブ書5章7節)と。
百姓の辛い労働に対する忍耐は、一に収穫の希望にある。昔、武士が屍(しかばね)を戦場に曝(さら)して顧みなかったのは、死後自分の子孫に与えられる報償を望んだからである。
人は誰も、ある報償を望まざるを得ない。キリスト者もまた人である。ゆえに彼もまた報償を望む。キリスト者は純愛でなければならない、キリスト者は報償を望んではならないと言うなら、それは普通の人情に背反する要求である。
神はそのような要求に応じるべき者として、人をお作りにならなかった。神はキリスト者にも、報償を望まない苦痛を要求なさらない。神は私達キリスト者にもまた望みを与えられたのである。そして望みがあるので、私達は苦痛に耐えることが出来るのである。
この世の人にも望がある。私達キリスト者にも望がある。ただその対象を異にするだけである。問題は、
何処に報償を望むかにある。世人の報償は、この世においてある。その富貴にある。名誉にある。地位にある。
キリスト者の報償は、この世において無い。しかし、彼にもまた報償の希望がある。最も貴い報償の希望がある。イエスがこれを説かれた。パウロもまたこれを説いた。キリスト教から希望を除去すれば、それはその根底を除去するのである。
◎ それではキリスト者の希望は何であるか。初代キリスト者の希望はもちろん、イスラム教が説いているような、肉体の歓楽に適する境遇ではなかった。
そうは言っても、それはまた、今のキリスト者が説くような、漠然とした未来の救拯(すくい)でもなかった。初代信者の希望は、キリストであった。
キリストの再来であった。
最終審判の日に、キリストが再び来られて、十字架の贖いを信じる者に対して、審判人ではなくて、救主として現れ、卑しい体に代えて、栄光の霊体を与え、神が定められた完全の国、正義の国に迎えて、その一市民にして下さる。
そこではこの世の偽善罪悪悲痛は、悉く除去されて、万物は復興し、キリストが永遠にこれを治められるのである。そしてこの絶大な恩恵が、キリストの再来によって始まるのであると。これが即ち初代信者の希望であった。
◎ 彼等は、この希望を判然明確に把持(はじ)したのである。そしてこの希望があったので、この世のすべての苦痛に耐えたのである。
初代信者は、必ずしも奮励努力して欲念を断とうとしなかった。ただ彼等には、輝くばかりの貴い希望があった。後に与えられるはずの偉大な報償の約束があった。先ずこの特権を握った彼等の手は、自ずからこの世のものから離れたのである。
前方に望む物があまりに貴くて、今有する物が、惜しくなくなったのである。来世を慕うことに熱心のあまり、自ずから現世に淡白になったのである。
そのようなわけで、彼等にとって、忍耐は難事ではなくなった。今日でこそ嘲弄迫害を受けて、日蔭者のように扱われていても、遠からずキリストが天の雲に乗って、来られるのである。その時私達もまた、主の栄光に与かるのである。
これを思って、彼等は容易にすべての苦痛に耐えた。それはあたかも、将来の成功を期する実業家が、暫時の賎業(せんぎょう)を意としないのと同様である。未来の政権獲得を望む政治家が、一時の不遇に甘んじるのと同様であった。いや、その希望が遠大であっただけ、それだけ彼等の忍耐もまた偉大であった。
◎ キリストの再来は、新約聖書全体を通じての基調(アンダートーン)である。これを解せなければ、新約聖書を解することは出来ない。とりわけこの思想に燃えて書かれたものは、テサロニケ前後書である。
パウロが以前にテサロニケの信者を見舞ってから、彼等の中に世を去った者も少なくなかった。これらの死んだ信者はどのようになるべきであろうか。その疑惑を解いて、残っている信者を慰めるために、彼は有名な章句を書きつづった。即ちテサロニケ前書第4章13節から第5章11節がそれである。
(以下次回に続く)