全集第22巻P453〜
(「初代キリスト教の要義」No.2)
第二回
◎ 初代の伝道に、今日では見ることの出来ない一特徴があった。ペンテコステの日に使徒等の説教を聞き入れてバプテスマを受けた者が三千人いたとは、使徒行伝が明記していることである。
またパウロが伝道旅行を企てると、所々に三日あるいは五日滞在すると、福音を信じる者が、あたかも声に応じる響きのように起り、遂にパウロが死に至るまでに、ローマ全帝国中に福音の至らない所がない状態であった。
そのような事は、果してどのような理由に基づくのであろうか。ある人達は、これを使徒等の熱心に帰する。しかしながら、それだけで全てを説明することは出来ない。
熱心が如何に大きくても、一人の力では二三十年で大帝国を教化することは出来ない。また一瞬時に数千の悔改者を生じる事は出来ない。その理由は、自ずから他に存するのである。
◎ おそらく使徒等が説いた福音は、今日のそれのようなものではなかった。彼等は大声で激しく叫んだ、「世の終りは近づいた。キリストはいま門前に立っておられる。
やがて門を開いて入られるであろう。その時私達は生きているままで栄光の体に化せられ、空中において死者と相遇うであろう。永生に入る日は遠くない。審判は目前に迫った」と。
説く者は、もちろんこれを信じて疑わなかった。ゆえに彼等は、一刻も躊躇してはいられなかった。彼等は伝道の情熱に燃えた。その日は明日来るかも知れない。あるいは今夜来るかも知れない。
夜半に叫び声が聞こえて、「新郎(はなむこ)が来た。出て迎えよ」と呼ばれた時に、油を準備していなかった愚かな童女(むすめ)が遂に門に入れなかったように(マタイ伝25章)、君達もまた滅亡に入ることがないようにしなさい。今から直ちに悔い改めて、急いで救われる準備をしなさいと。
彼等は起って、このように叫んだ。そして聞く者もまたこれに応じた。取る物も取りあえずに、先ず彼等の声に従った。こうして偉大な伝道は、諸所に行われた。
それはあたかも、昔天草の温泉獄が破裂した時、誰もこれを知らない時に、一人の盲者がにわかに起ってその警告を発して、その地方の人達を驚かせたのと同様であった。
あるいはまた、現今のように、悪疫が蔓延し、少しでも警戒を怠る時は、たちまち生命を失う危険がある時に、隣人の不注意を座視するに忍びずに、警戒を呼び掛けるようなものであった。
彼等はみな、この世の滅亡と新天新地の出現とを眼前に期待したのである。
◎ 今の人達の救拯観(きゅうじょうかん)は、果してどのようなものであろうか。今の人達にとっては、福音はこの世の福音である。これによって個人の思想と行為とは向上し、これによって家庭は純化し、社会は改良されるのであると。
今の人達にとって、救拯(すくい)とは、つまり倫理道徳の問題である。しかしながら初代信者にとっては、そうではなかった。彼等の関心事は、キリストが再来される時にキリストが私達に対してどのような態度を取られるかであった。
キリストは、審判人として私達を迎えられるのであろうか。それとも救主として、私達を受けて下さるのか。それが彼等の最大問題であった。そして彼等の伝道の動機は、ここにあった。信者が彼等に応じた動機もまたここにあった。
◎ 新約聖書は、全くこの立場において書かれた書である。今の人達が新約聖書を解するのに苦しむのは、この立場を解しないからである。例えばかの山上の垂訓を、倫理道徳の教訓と見れば、それはとうてい実行出来ないことを感じるのである。
しかしながら、明日終末が来るであろうと考えればどうか。明日キリストが再臨されて、すべての栄光を与えて下さるならば、今日自分の全所有を喪失してもそれが何であろうか。明日キリストの台前に立って、事の黒白が悉く分明するならば、今日打たれても何でもないではないか。
必ずしも特別に欲念を節制するからではない。時を長く見ないだけの事である。「時は迫った」、この一観念の下に、現世の執着は消滅するのである。
現世の永続を予想すればこそ、豪邸を築き、巨富を積もうという欲望が生じるのであり、終末は目前にあると思えば、現世の試惑は、私を誘うに足りないのである。
新約聖書の道徳は、キリスト再臨の希望にその根底を据えるのである。
◎ それではキリストの再来は果して事実であるのかどうか。初代信者パウロなどは、その事が直ちに実現するであろうと予想していた。おそらくその時にはなお、自分は生存しているであろうと想像していた。
テサロニケ前書4章に、「寝れる者」と言い、「活きて存(のこ)れる我等」と言っているのは、即ち現に彼等の多数がその時まで生き残っている事を予想した言葉である。
ところが待てども待てどもキリストは降られなかった。パウロの信仰も、このためにどれほど鍛えられたか知らない。まして一般の信者にとっては、それは一つの躓きになるところであった。
彼等はキリストの再来が近いことを望んで、迫害に耐えたのである。しかし、その希望はいつまで待っても充たされない。その時彼等は思ったであろう、私達は使徒に欺かれたのではないかと。
そして信者の信仰も急速に冷えようとした。そのような時に当って、ヘブル書記者のような篤信の士は、熱情を注いで、激励に努めたのである。
ペテロもまた黙するに忍びなかった。彼は筆を鼓(こ)して叫んだ。
愛する者よ、汝等此一事を知らざるべからず。主に於ては一日は千年の
如く、千年は一日の如し。
主其約束し給ひし所を成すに遅きは、或人の遅しと意(おも)ふが如くに非
ず。一人の亡ぶるをも欲(のぞ)み給はず、万人の悔改に至らん事を欲みて
我等を永く忍び給ふなり。
されど主の来ること盗人(ぬすびと)の夜来るが如くならん。
(ペテロ後書3章8、9節)
と。これによって、この問題が如何に初代の使徒および信者の心を悩ましたかを知るべきである。
◎ その後、星は移り年は替わっても、キリストはなお依然として降って来られない。しかしながらキリスト者は、この希望を離れて生きることに耐えられない。そこで彼等は終に、その思考を一変するに至った。
キリストの再来は、霊的な事実である。キリストは既に霊を以て私達の間に降られたのである。キリストは教会の中に現在しておられるのである。
法王は彼の代表者である。あるいはまた、晩餐式において法王の許可を得た僧が、パンの塊(かたまり)に対してミサを唱えれば、その一塊(いっかい)のパンが直ちにキリストの真実の体となるのである。その時キリストは、そこに現在しておられるのであると。
その他種々の説を立てて、キリストが既に降られた事実を信じようと思った。プロテスタントは、いわゆる化体説を排斥したが、キリストが教会を以てこの世を治められるという思想は、これを受け継いだのである。
◎ キリストは果して既に降られたのであるか。あるいは終に再来されないのであろうか。これを決するに当って、よく考えなければならないのは、
今次の大戦争である。
キリストは既に降られて、教会中に現在して、世を治めておられると信じて来たキリスト者の中には、この惨劇のために信仰を失った者は決して少なくなかったのである。
実に戦争そのものの残酷無慈悲はもちろん、これに参加したイギリス、イタリア、ブルガリア、ルーマニア、ドイツ、オーストリア等の諸国の不実、背信、偽善、欺瞞に至っては、誰がこれを驚かずにいられようか。
しかも彼等は、いわゆるキリスト教国である。教会の千九百年にわたる久しい努力の結果、それが産出したものが、遂にそのようなものに過ぎないとすれば、キリスト教の価値もまた知るべきである。
樹は、その実によって知られる。もしこの罪悪がキリスト教の果実であるならば、キリスト教の無能は、ここに遺憾なく証明されたと言わなければならない。
これゆえに不信者ヘッケル(
http://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Haeckel )のような学者は、今や口を極めて宗教を罵(ののし)るのである。彼等は言う、「見よ、神の摂理は既に破壊された」と。そしてキリスト教の宣教師、伝道師等は、これに対して弁駁(べんばく)の言葉を知らないのである。
彼等自身もだんだんと、伝道の動機を失いそうになりつつある。現世の改善をキリスト教の本領として来た彼等の信仰が、今次の大戦争によって、その根底から崩壊するのは、実に止むを得ないのである。
キリスト教の証拠を、文明の発達に求めるものは、口を閉ざして黙する以外に何をしたら良いのか知らないのである。
◎ この時に当り、私達は再び痛切に思わざるを得ない。使徒等が説いたキリスト再来の希望が、真の福音であると。キリストは既に来られたのではない。また終に来られないのではない。いや
キリストは来られつつある。
その時がいつであるかは知らない。しかし神にあっては、一日も千年のようであり、千年も一日のようである。あるいは明日来られるかも知れない。
「
汝等戦争と戦争の風声(うわさ)を聞かん……民起りて民を攻め、国は国を攻め……不法充つるに因りて多くの人の愛心冷かになるべし……其時人の子の兆(しるし)天に現はるべし」(マタイ伝24章)とある。
このような教えは、聖書中に決して少なくない。そして今や、すべて文字通りに事実となって現れつつある。そしてそうであるならば、私達はむしろ喜ぶべきではないか。
私達の信仰は、この惨劇によって動かされないだけではない。反って強められるのである。今回の戦争がさらに一変して真に世界を覆すほどの大禍害となっても、私達はそのためにいよいよキリスト再来の日が近いことを待望むのである。
文明がこの世を救うのではない。文明の最後は、やはり破滅である。
この世を救う者は、キリストだけである。文明の破滅は私にとって何でもない。キリストは悉くこれを始末される。キリスト再来の希望を抱いているので、私達の信仰は、この世と共に動揺しないのである。
◎ 今の信者はしばしば「死」について語る。しかし新約聖書中には、キリストの死を除けば、人の死についてはほとんど言っていない(ヘブル書に一度だけあるが、もちろん死を恐れる意味ではない)。
初代の信者は、死については、甚だ冷淡であった。これに反し、彼等が繰返し説いたものは、キリストの再来である。彼等にとって恐るべきものは、死ではなかった。恐れるべきものは、キリスト再来の時に、裁かれるか救われるかの問題であった。
彼等の信仰の重点は、キリストの再来にあったのである。あるいは明日、あるいは今夜来られるかも知れないと。彼等は常にこのように思いつつ、自分の霊魂の態度を決めたのである。新約聖書は、この立場に立って見るのでなければ、その深い意味を探ることは出来ない。
◎ 初代信者の信仰は、このように客観的なものであった。彼等は近世のいわゆる純倫理的思想のように、自分の小さな胸に神の真理を蔵しておこうとはしなかった。
彼等の眼は外に向って注がれた。彼等はキリストの再来を待望んだ。彼等は最後の審判を信じ、その時救主としてのキリストに受け入れられるために、刻々その準備を怠らなかったのである。
そして彼等の信仰に永続性があった理由は、全くここにあった。彼等の信仰が熱火のように燃えた理由もまたここにあった。彼等が頼むところは、外側にあった。ゆえに自己の思想感情の変化によって、その信仰を失わなかった。
彼等は世の終末を目前に期待した。ゆえに起って福音を伝える急務を痛感した。その時、訥弁(とつべん)家もたちまち雄弁家となって叫んだ。
彼等はまた、万事の解決が近くにあることを知った。ゆえにこの世の小問題のために焦慮しなかった。こうして彼等は自ずから、求めずに霊的人間となった。新約聖書が命じるような至高の道徳も、これを行う事に困難を覚えなかった。
そして彼等は、互に真の兄弟のように、相愛した。彼等にとってキリストの再来は、実に何よりも重大な問題であったのである。
完