全集第23巻P5〜
教会と私 他
大正5年(1916年)11月10日
「聖書之研究」196号
1.教会と私
教会と宣教師とは、私に彼等の事業を助けさせる。しかしながら、彼等は決して、私の事業を助けない。また助け得ない。私もまた、私の事業について、彼等に助けを求めない。その理由は明瞭であると思う。彼等は世に倣うが、私は世に倣わないからである。
彼等が私を用いようとするのは、私の信仰を求めようとしてではない。私が神から賜った信仰によってこの世に有する、多少の勢力を用いようとしてである。
教会と宣教師とが私の力を借りようとする精神は、彼等がこの世の政治家または実業家の勢力を借りようとする精神と少しも異ならない。
彼等は、互に人の栄(あがめ)を受けて、神から出る栄(あがめ)を求めない者である(ヨハネ伝5章44節)。ゆえに勢力のある人には、誰にでも頼って、その援助(たすけ)を借りようとする。
彼等は、信仰を信仰として判別する鑑識を有(も)たない。ただ勢力のある信仰だけを仰ぐ。
教会と宣教師とは、純然とこの世の子供である。私は幾回かこの事に関して彼等に欺かれて、終にこの言葉を発せざるを得なくなったことを悲しむ。
2.逆境と生命
逆境逆境と言う。境遇を善くすれば、人は善くなる。人を善くする途(みち)は、その境遇を改善することにあると。これは社会主義者が唱えるところであって、また現時の教会者の多数が唱えるところである。
現代人は、キリスト信者であるかないかに関わらず、みな外から内を改めようとする者である。人間を境遇の子と見て、政治、経済、殖産、工業等、即ち衣食住の改善によって、これを紳士淑女にしようと試みつつある者である。
ところが聖書は、境遇の改善については語らないのである。もし語るとすれば、ごくわずかを語るのである。パウロは憚らずに言ったのである。「
兄弟よ、汝等召されし時に在りし所の分(地位)に止まりて神と共に居るべし」(コリント前書7章24節)と。
即ち奴隷も自主の者も、その地位を変える必要はない。各自そのままでいて、神と共に居なさいとの事である。聖書は肉の事に関しては、至って冷淡であるだけでなく、人の霊魂の発達のためには、順境よりも反って逆境を貴ぶのである。
キリストは明らかに言われた。「
生命(いのち)を与ふる者は霊なり。肉は益なし 、我が汝等に曰(い)ひし言(ことば)は霊なり生命なり」(ヨハネ伝6章63節)と。
人の生命は、その肉にあるのではない。ゆえにその衣食住にあるのではない。霊にあるのである。そして霊に生命を与える者は、キリストが語られた言(ことば)であると言う。
よって知る、キリストの人生観は、現代人のそれと全く異なることを。したがって、神が人を救われる途(みち)は、現代人のそれとは全く違うのである。神はその愛する者を救おうとされるに当って、反ってその境遇を
悪くされるのである。
ヨブを救おうとするに当って、彼の産を壊し、彼の家庭を破壊し、そしてさらにその上に彼の健康を奪い、彼を悲境の極に陥らせられた。
彼は預言者ホセアに言わさせた、「
我れ彼を誘(いざな)ひて曠野に導き出し、其処(そこ)にて彼の心を慰めん」(ホセア書2章14節)と。即ち神は、その愛子の心を慰めるためには、彼を誘って逆境の荒野に導き出し、そこで彼の耳に慰安をささやかれるとのことである。
モーセがミデアンの地に逃れ、エリヤがホレブの山に籠り、パウロがアラビアで独り三年間を過ごしたこと等は、みなその類である。境遇を善くされてではない。悪い境遇に追いやられて、私達は神の声を聞き、真の生命を授かるのである。
「
我が汝等に語りし言辞(ことば)は霊なり生命なり」とある。キリストの言(ことば)を真実に味わえば、それが真の生命であって、それにはすべての逆境に打ち勝つ力がある。
生命が生命であるゆえんは、外界を化して自己のものとすることにある。真の生命は、反って逆境を楽しむ。活きている魚は流れに逆らって泳ぎ、死んだ魚は流れに従って下る。
人は境遇を善くされようと思わずに、生命を与えられることを願うべきである。向上を境遇の改善に待てば、彼は反って堕落するのである。
最大の慈善は、衣食住の改善ではない。神の言葉の供給である。人を外から善くしようとするのではなくて、内から改めようとすることにある。人を真の神に紹介して、彼を「神と共に居」らせて、自己に勝って境遇に勝たせることにある。
3.十字架の信仰
キリストは私を救うために十字架に挙げられ、その流された血によって私を贖い、その死によって私の罪を取り除いて下さったと、これが福音の根本義である。聖書は明らかにこの事を伝えるが、その説明を与えない。
何故に神の子は、私のために死ななければならないのか、
何故に彼の血は私を潔(きよ)めるのか、
何故に十字架に付けられた彼を仰ぎ瞻(み)ることによって、私の罪は取り除かれるのか、その説明を私達に与えない。
ただ言う、高調して言う、「信ぜよ然らば救はるべし」と。こうして聖書は、私達に信仰を迫ることにおいて、教会に似て、信条的である。
私は十字架の救済(すくい)について、自らある説明を与えることが出来る。私には、一種のいわゆる救拯哲学なるものがないではない。しかしこれらは、私を満足させて、私の全身全霊を挙げて、これを主イエスに委ねさせるに足りない。
私の救拯哲学は、私の信仰を起すに足りない。十字架は、今なお単に権威(オーソリティー)を以て、私に信仰を迫るのである。
信じるか、信じないか、説明を待つか、私は終に信じないであろう。そこで私は、意を決して断然信じるのである。神の言葉であるから信じるのである。
外からは、聖書に促迫(コンペル)され、内からは良心に推進(インペル)されて信じるのである。すると見よ、罪の重荷は下ろされて、私には新たに生れた感があるのである。実に見て信じたのではない。見ないで信じたのである。そして信じて見ることが出来たのである。
実に信である、信である。ある時は道理に反して信じ、望に反して望む。そして信と望とにおいて、平康(やすき)を求めるのである。そして人のすべての想いを過ぎる平康は、そのようにして得られるのである。
神はキリストに在って、人の罪を取り除かれたと言う。私はこの事を信じる。信じて疑わない。そしてもはや、私の罪について、心を悩まさない。罪の余勢は今なお私に残っている。しかし、私の罪そのものは、既にキリストに在って取り除かれたのである。
その意味において、聖ヨハネの言葉は真である。「
我等の罪を除かんがために主の現はれ給ひしことは、汝等の知る所なり……凡そ彼に居る者は罪を犯さず……亦罪を犯すこと能(あた)はず 」(ヨハネ第一書3章)。
私のために十字架に挙げられたキリストを信じることによって、私の罪の根本は絶たれたのである。
旧(ふる)い英語の讃美歌に言う、
Jesus loves me this I know,
For the Bible tells me so.
イエスは我を愛す、我は其事を知る
そは聖書は爾(し)か我に告ぐればなり
と。そうです、聖書が私にそのように告げるので、私は信じるのである。私に満足な説明があるからではない。科学と哲学との保証があるからではない。「
天地は廃(すた)れん、然れど我言は廃(すた)れじ」とイエスが言われた言葉を記している聖書が私に告げているので信じるのである。
これは確かに幼児のような信仰である。しかし幼児のように成らなければ、神の国に入ることは出来ないのである。哲学に問い、自己に省み、数多の証拠を示されなければ信じないと言うのは、幼児がすることではない。
父の言葉なので信じる、聖書が告げているので信じる、これは幼児の信仰であって、神が喜ばれる信仰である。
そして聖書は、世界最高の権威である。聖書は、年々に変る人間の哲学のようなものではない。聖書に頼るのは、万古の岩に頼るのである。人間の哲学は、あまりに浅薄である。自分の実験も当てにならない。ただ神の言(ことば)である聖書だけが頼るに足りる。
人生の事実は、あまりにも深い。そして信仰は、神の聖召(めし)に応じる人生の奥底の声である。それを説明することが難しいのは、このためである。深遠で、測り知れないものだからである。
そして神の子の血が自分の罪を取り除いたというその事実は、今の私達人間の了解力によっては、とうてい了解出来ないことである。ゆえに今はただ、これを信じるのである。そして信じて救われるのである。
しかし、永久にただ信じるのではなかろう。今は鏡に映すようにおぼろに見ているが、自分が知られているように、これを知ることが出来る時が来るであろう。信仰の美と快楽とは、ここに在るのである。
見ないのに信じて見る時を待つ快楽である。この快楽を称して希望と言う。一種の冒険である。しかし、最も楽しい冒険である。神の言(ことば)と信じて、自分の全身全霊をこれに委ねて、そして自分のこの信仰の実現を待つのである。如何なる感激(エクサイトメント)といえども、これに勝るものはないのである。
私は信じる、神の子の十字架上の死によって、私の罪が取り除かれたことを。そして罪は死の刺(はり)であるから、罪を除かれて死は私に在って既に能(ちから)のないものとなったことを。
イエスを信じて、私は死んでも死なない。時が来て私は復活し、彼と共に生きることを信じる。キリストの十字架は、私に永久の幸福(さいわい)をもたらすものである。私はこれによって、罪から贖われて、永生に入る特権を授けられる。
私は自己に省みて、この事を信じることは出来ない。しかし、聖書がそのように私に告げるので、私は大胆にこれを信じる。神よ、私の信のなさを助けて下さい。
4.信仰と了解
了解して信じるのではない。信じて了解するのである。了解して信じるのは信仰ではない。信じざるを得ないので信じる、その事が信仰である。
イエスはその弟子トマスに言われた、「
汝われを見しに由て信ず。見ずして信ずる者は福(さいわい)なり」と。そして了解するのは見ることである。了解して信じるのは、見て信じるのである。そして了解せずに信じる者が、福(さいわい)な者である。
神とその聖業(みしごと)とに関する事は、とうてい人間に了解できる事ではない。了解するのを待てば、人はとうてい神を信じることは出来ない。ゆえに信じるのである。神の聖語(みことば)なので、疑わずにただ信じるのである。
これは決して迷信ではない。子が父の言(ことば)を疑わずに信じるのは、決して迷信ではない。これは当(まさ)に信じるべきことである。了解出来ないからという理由で、父の言葉であるにもかかわらず疑って信じないのは、頑迷である。
「
キリスト・イエス罪人を救はんために世に臨(きた)れり。是れ信ずべく亦疑はずして納(う)くべき言なり」(テモテ前書1章15節)とある。
完