全集第23巻P12〜
聖書の読み方
来世を背景として読むべきである
大正5年(1916年)11月10日
「聖書之研究」196号
10月15日栃木県氏家(うじいえ)在狭間田(はざまだ)で開かれた聖書研究
会において述べた講演の草稿。
聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解(わか)らない。聖書を単に道徳の書と見れば、その言辞(ことば)は意味を成さない。
聖書は旧約と新約とに分かれて、神の約束の書である。そして神の約束は、主として来世に係わる約束である。
聖書は、
約束付きの奨励である。慰藉である。警告である。人はイエスの山上の垂訓を称して、「人類の有する最高道徳」と言うが、しかしこれにしてもまた、来世の約束を離れた道徳ではない。永遠の来世を背景として見るのでなければ、垂訓の高さと深さとを明確に読み取ることは出来ない。
「
心の貧しき者は福(さいわい)なり」、これは奨励でありまた教訓である。「
天国は即ち其人の有(もの)なれば也」、これは約束である。現世における貧は、来世における富を以て報いられるであろうとのことである。
悲しむ者は福(さいわい)である。その理由は何か? 将(まさ)に現れようとする天国において、その人は安慰(なぐさめ)を得られるであろうからとのことである。
柔和な者は福(さいわい)である。その人はキリストが再び世に来られる時に、彼と共に地を嗣(つ)ぐことが出来るであろうからとのことである。地もまた神の有(もの)である。これは今日のように、永久に神の敵に委ねられるべきものではない。
神はその子によって人類を裁かれる時に、地を不信者の手から取り返して、これを御自分を愛する者にお与えになるとのことである。絶大な慰安を伝える言葉である。
飢え渇くように義を慕う者は福(さいわい)である。その理由は何か。その人の飢渇は、充分に癒されるであろうからとのことである。そしてこれは、現世(このよ)において在り得ない事であることは明らかである。
義を慕う者は、単に自己(おのれ)だけにこれを得ようとするのではない。万人が等しくこれに与かるようになることを欲するのである。
義を慕う者は、義の国を望むのである。そしてそのような国が、この世に無いことは、言うまでもなく明らかである。
義の国は、義の君が再び世に来られる時に現れる。
「
我等は、其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待(まて)り。義その中に在り」(ペテロ後書3章13節)とある。そしてその新天地が現れる時に、義を慕う者の飢渇は充分に癒されるであろうとのことである。
矜恤(あわれみ)ある者は福(さいわい)である。その理由は何か。その人は矜恤(あわれみ)を得るであろうからとのことである。何時か。神がイエス・キリストによって、人の隠れたことを裁かれる日においてである。
その日には、私達は他人を議するように議せられ、他人を量るように量られるのである。その日には、矜恤(あわれみ)ある者は、矜恤(あわれみ)を以て裁かれ、残酷無慈悲な者は、容赦なく裁かれるのである。
「
我等に負債(おいめ)ある者を我等が免(ゆる)す如く、我等の負債(おいめ)を免(ゆる)し給へ」、恐るべき審判(さばき)の日に、矜恤(あわれみ)ある者は矜恤(あわれみ)を以て裁かれるであろうとの事である。
心の清い者は福(さいわい)である。何故なら、その人は神を見ることが出来るからであるとある。何処でかと言えば、もちろん現世(このよ)ではない。
「
我等今(現世において)鏡(かがみ)をもて見る如く昏然(おぼろ)なり。然れど彼(か)の時(キリストの国が顕れる時)には、面(かお)を対(あわ)せて相見ん。我れ今知ること全(まった)からず。然れど彼(か)の時には我れ知らるゝ如く我れ知らん」(コリント前書13章12節)とパウロは言った。
清い人はその時に神を見ることが出来るのである。多分万物の造主である霊の神を見るのではないであろう。その栄の光輝(かがやき)であり、その質の真像(かた)である、人であるキリスト・イエスを見るのであろう。
そして彼を見る者は聖父(ちち)を見るのであるから、心の清い者(彼に心を清められた者)は、天に挙げられたように再(また)地に来られる聖子(みこ)を見て、聖父(ちち)を拝するのであろう(使徒行伝1章11節)。
和平(やわらぎ)を求める者は福(さいわい)である。何故なら、その人は神の子と称えられるであろうから。「神の子と称(とな)へらるゝ」とは、神の子としての特権に与かることである。
「
其の名を信ぜし者には権(ちから)を賜ひて之を神の子と為せり」(ヨハネ伝1章12節)とあるその事である。単に神の子という名称を与えられるのではない。実質的に神の子となる事である。
即ち潔(きよ)められた霊に復活体を着せられて、光の子として神の前に立つことである。そしてこの事は、現世において為される事ではなくて、キリストが再び現れられる時に、来世において成る事であることは言うまでもなく明らかである。
平和を愛し、世論に反してこれを唱道する報償(むくい)はそのように遠大無窮である。
義(ただし)い事のために責められる者は福(さいわい)である。何故ならば、心の貧しい者と同じく、天国はその人の有(もの)だからである。
現世(このよ)に在っては義のために責められ、来世(つぎのよ)に在っては義のために誉められる。
単に普通一般の義のために責められるに止まらず、さらに進んで
天国とその義のために責められる。即ちキリストの福音のために、この世と教会とに迫害される。栄光この上なしである。
私達がもし
彼と共に死ぬなら
彼と共に生きるであろう。私達がもし
彼と共に忍ぶなら、
彼と共に王となるであろう(テモテ後書2章11、12節)。キリストと共にイバラの冠を被らせられて、信者は
彼と共に義の冠を戴く特権に与かるのである。
「
我がために人汝等を罵り、また迫害(せめ)、偽はりて様々の悪言(あしきこと)を言はん。其時汝等は福(さいわい)なり。喜べ、躍り喜べ。天に於て汝等の報償(むくい)多ければ也。そは汝等より前(さき)の預言者をも斯く迫害(せめ)たれば也」と教えられた。
天国は万事において、この世の正反対である。この世において崇められる者は、彼世において辱しめられる。この世において迫害(せめ)られる者は、彼世において賞賛(ほめ)られる。
「
或人は嘲笑(あざけり)をうけ、鞭打たれ、なわめと獄(ひとや)の苦(くるしみ)を受け、石にて撃れ、鋸(のこぎり)にてひかれ、火にて焚(やか)れ、刃(やいば)にて殺され、綿羊と山羊の皮を衣(き)て経(へ)あるき、窮乏(ともしく)して艱苦(くる)しめり。
世は彼等を置くに堪へず、彼等は曠野(あれの)と山と地の洞(ほら)と穴(あな)とに彷徨(さまよ)ひたり」(ヘブル書11章36〜38節)とある。
これは初代の信者の大多数が実見したことであって、キリストを明白に証しするなら、今日といえども、ややこれに類する災厄が、信者の身に及ばざるを得ないのである。しかし、それでも信者は悲しまないのである。
信仰の先導者であるイエスは、その前に置かれた喜びに因って、その恥をも厭わず、十字架の苦難(くるしみ)を忍ばれた(ヘブル書12章2節)。
信者は、希望(のぞみ)なしに苦しむのではない。彼もまた、「其前に置かれたる喜びに因りて、その恥を厭はない」のである。
神は彼等のために善き京城(みやこ)を備えて下さったのである。そして彼等は、その褒美を得ようとして、目標に向って進むのである(黙示録7章9節以下を見よ)。
このように、来世を背景として読めば、主イエスのこれ等の言葉に深く貴い意味が表れて来るのである。私達が、明日があるのを知っているように、主は、明白に来世があることを知っておられたので、彼の口からそのような言葉が流れ出たのである。
これは、「我れ未だ生を知らず焉(いずく)んぞ死を知らん」と言う人の言葉ではない。よく死と死後の事とを知っておられた神の子の言葉である。
彼はアルファでありオメガである。始であり、また終りである。今あり、昔あり、後ある全能者である(黙示録1章8節)。ゆえに陰府(よみ)と死とのカギ(秘密)を握り、今ある事(今世の事)と後ある事(来世の事)とを知っておられる(黙示録1章18、19節)。
そしてそのような全能者の眼から見て、今世において貧しい者は、反って幸いな者である。柔和な者(踏みつけられる者)は反って地の所有者となる。神を見る特権があり、清い者はこの特権に与かることが出来る云々。
言葉は至って簡単である。しかし、未来永劫を透視する全能者の言葉として、無上に貴い。ゆえに単に垂訓として読むべきではない。予言として、じっくり味わうべきものである。
(以下次回に続く)