全集第23巻P16〜
(「聖書の読み方」No.2)
その他山上の垂訓の全体が、確実な来世存在を背景として述べられた主イエスの言葉である。そしてこの背景に照らして見れば、小事は決して小事ではない。
その兄弟を怒る者は(神の)審判(さばき)に与かり、またその兄弟を愚者よと言う者は、集議(天使の前で開かれる天の審判)に与かり、また狂人(しれもの)よと言う者は地獄の火に与かるであろうとある(マタイ伝5章22節)。
即ち、「
我れ汝等に告げん。すべて人の言ふ所の虚(むな)しき言(ことば)は審判(さばき)の日に之を訴へざるを得じ」(マタイ伝12章36節)とある主イエスの言葉の実現を見るであろうとの事である。
姦淫を恐れるべき理由もまたこのためである。「
若し汝の眼汝を罪に陥(おと)さば抉出(ぬきいだ)して之を棄(すて)よ。そは五体の一を失ふは、全身を地獄に投入(なげい)れらるゝよりは勝(まさ)ればなり」(マタイ伝5章29節)とある。
また施しは隠れてすべきである。右の手がすることを、左の手に知らせてはならない。そうすれば隠れたところを御覧になる神は、天使と天の万軍との前で顕わに報いて下さるであろうとの事である(マタイ伝6章4節)。
即ち、「
隠れて現はれざる者なく、蔵(つつ)みて知れず露(あら)はれ出ざる者なし」(ルカ伝8章17節)との事である。
今世は隠微(いんび)の世である。明暗混沌の世である。これに反して、来世は顕明(けんめい)の世である。善悪判明の世である。ゆえに今世では隠れて、来世で現れよとの教訓(おしえ)である。
殊に山上の垂訓の最後の結論は、来世に関わる一大説教である。
我を呼びて主よ主よと言ふ者尽(ことごと)く天国に入るに非ず。之に入る
者は、唯(ただ)我(わが)天に在(いま)す父の旨(みこころ)に遵(したが)ふ者
のみ。
其日我に語りて主よ主よ我等主の名に託(よ)りて教へ主の名に託りて鬼
を逐ひ、主の名に託りて多くの異能(ことなるわざ)を為しゝに非ずやと
云ふ者多からん。
其時我れ彼等に告げて言はん、我れ嘗(かつ)て汝等を知らず、悪を為す者
よ我を離れ去れと。
是故(このゆえ)に凡(すべ)て我が此言を聴きて之を行ふ者は磐(いわ)の上
に家を建し智人(かしこきひと)に譬(たと)へられん。雨降り、大水出で、
風吹きて其家を撞(うち)たれども倒れざりき。そは磐(いわ)をその基礎(い
しずえ) と為したれば也。
之に反し凡(すべ)て我がこの言(ことば)を聴きて之を行はざる者は砂の上
に家を建し愚人(おろかなるひと)に譬(たと)へられん。雨降り大水出で、
風吹きて其家に当りたれば、終(つい)に倒れてその傾覆(たおれ)大なりき。
(マタイ伝7章21節以下)
と。実(まこと)に強い、恐るべき言辞(ことば)である。わずかに三十歳を越えたばかりの人の言辞(ことば)として驚くほかはないのである。
イエスはここに自己を人類の裁判人として提示しておられるのである。万国は彼の前に呼び出されて、善にしろ悪にしろ、彼等が現世(このよ)に在って為したことについて裁かれるのである。
そして彼は、悪人に対し大命を発して言われるのである。「我れ嘗(かつ)て汝等を知らず、悪を為す者よ我を離れ去れ」と。何という権威であることか。彼は大工の子ではないか。それにもかかわらず、彼は世の終末(おわり)における全人類の裁判人として自ら任じられるのである。
狂か神か。狂ではあり得ない。ゆえに神である。帝王も貴族も、哲学者も宗教家も、みな尽(ことごと)くナザレ村の大工の子によって裁かれるのである。
ああ、世はこの事を知っているか。教会は果してこの事を認めるか。キリストは人であると言う人、彼は復活しないと言う人、彼の再臨を聞いて嘲る人達は、彼のこの言葉を説明することが出来ない。
主イエスは単に来世を説かれる者ではない。
彼御自身が来世の開始者である。彼は単に終末(おわり)の審判を伝えられる者ではない。
彼御自身が終末の審判者である。
パウロが言ったように、神は福音を以て(福音に準拠して)、イエス・キリストを以て、世を裁かれるのである(ロマ書2章16節)。聖書は明白にこの事を教える。この事を看過すれば、福音は福音でなくなるのである。
そして終末の審判は、ノアの大洪水のように、大水大風を以て臨むとのことである。そしてこれに耐える者は残り、これに耐えられない者は滅ぶとのことである。そして残るか残らないかは、磐(いわ)に拠(よ)るか拠らないかに因(よ)るとのことである。
そして
磐は主イエス御自身である。
彼に依り頼み、
彼の聖書(みことば)に従えば立ち、これに背けば倒れるのである。これに勝る人生の重大事などはない。
イエスを信じるか信じないか、彼の言辞(ことば)に従うか従わないか、人の永遠の運命は、この一事によって定まるのである。そして、よくこの事を知っておられたイエスは、彼の伝道において真剣にならざるを得なかった。
山上の垂訓は、単に最高道徳の垂示(すいじ)ではなく、人の永遠の運命に関わる大警告である。天国の光輝(かがやき)と地獄の火とを背景として読むのでなければ、福音書の冒頭に掲げられたイエスのこの最初の説教(みおしえ)をさえ、よく解することが出来ないのである。
もしキリストが説かれた純道徳と称えられる山上の垂訓がこのようであるならば、その他は推して知るべしである。
もしまたマタイ伝はユダヤ人によってユダヤ人のために著された書であるから、自ずからユダヤ的思想を帯びて、来世的にならざるを得ないと言う人がいるならば、
異邦人によって異邦人のために著された
ルカ伝もまた、イエスの言行を伝えるに当って、来世を背景として述べる点において、少しもマタイ伝に譲らないのである。
医学者ルカによって著されたルカ伝もまた、他の福音書同様著しく奇跡的であって、また来世的であるのである。
イエスの出生に関する記事は措(お)いて問わないとして、天使がマリアに伝えた、「
彼(イエス)はヤコブの家を窮(かぎり)なく支配すべく又その国終ること有(あら)ざるべし」(ルカ伝1章33節)とある言葉は、確かにメシヤ的、即ち来世的な言葉である。
神の言葉として、これはもちろん追従(ついしょう)の言葉ではない。また比喩的に解釈されるべきものではない。いつか事実となって現れるべき言葉である。
ところが今時(いま)はどうかと言うと、イエスの死後千九百年後の今日、彼はユダヤ人全体に斥けられこそすれ、「ヤコブの家を窮(かぎり)なく支配す」と言うが、ユダヤ人の王ではないのである。
また「その国終ること有(あら)ざるべし」とあるが、実はキリストの国と称すべきものは、今日といえども未だ一つもないのである。キリスト教国、キリスト教会、いずれも皆、名だけのキリストの国である。真実のキリストは、彼等によって汚され、彼等に斥けられるところとなりつつあるのである。
よって知る、ルカ伝冒頭のこの一言もまた
未来を語る言(ことば)として読むべきものであることを。イエスは第二十世紀の今日でも、今なお顕れるべき者である。彼の国は、今なお来るべきものである。
そしてそれが終に来ると、それはこの世の国と異なり、百年や千年で終わるべき者ではない。これは文字通り、永遠に続くべき者である。そして信者は、忍んでその建設を待望む者である。
同3章5節、6節において、ルカは預言者イザヤの言葉を引いて言っている。いわく、「
諸(すべて)の谷は埋(うめ)られ、諸(すべて)の山と岡とは夷(たいら)げられ、屈曲(まがり)たるは直くせられ、崎嶇(けわしき)は易(やす)くせられ、諸(すべて)の人は皆神の救(すくい)を見ることを得ん」と。
大切なのは、後の一節である。「諸(すべて)の人」即ち万人(よろずのひと)は神の救を見ることが出来るであろうとの事である。これは未だ充たされていない預言であって、キリストの再現を待って事実として現れるべき事である。
全世界に今や三億九千万のキリスト信者がいるとのことであるけれども、これは世界の人口の四分の一に過ぎない。そして四億近くのキリスト信者中、その幾人が真に神の救いを見ることが出来たか、知る人ぞ知るである。
そして「諸(すべて)の人」と言えば、過去の人をも含むのであって、彼等もまたいつか神の救を見ることが出来るであろうと言う。そしてこれは、現世(このよ)において在るべき事でないことは明瞭(あきらか)である。
キリスト教会がその伝道によって、「諸(すべて)の人」に神の救を示すであろうとは、望んでも益のない事である。
それにも関わらず、神は福音を以て人を裁かれるに当って、一度は真の福音をこれに示されずには、これを裁かれないのである。そのようなわけで、何時か何処かで全ての人がみな神の救を見ることが出来る機会が与えられざるを得ないのである。
そしてその機会が全人類に与えられるであろうとは、神がその預言者等によって、聖書において明らかに示しておられるのである。そしてルカ伝のこの一節もまた、この事を伝える者である。
人の子己(おのれ)の栄光をもて諸(もろもろ)の聖使(きよきつかい)を率ゐ
来る時、彼れ其栄光の位に坐し、万国の民をその前に集め、羊を牧(か)
ふ者の綿羊(めんよう)と山羊(やぎ)とを別つが如く、彼等を別ち云々、
とマタイ伝25章にあることが、ルカ伝のここにも簡単に記されているのである。未来の大審判を背景として読んで、この一節もまた深い意味を私達の心に持ち来たらすのである。
その他「人情的福音書」、「婦人のために著された福音書」と称えられるルカ伝が、来世とその救拯(すくい)と審判(さばき)とについて書き記す事は、一々ここに掲げることは出来ない。
もし読者が、閑静な半日を選び、これをこの種の研究に消費したいと思うならば、ルカ伝の次の章節は、甚大な黙想の材料を彼等に与えるであろう。
ルカ伝による山上の垂訓。 6章20節以下26節まで。マタイ伝のそれ
よりもさらに簡潔で、いっそう来世的である。
隠れたもので顕れないものは無いとの強い教訓。 12章2節から5節ま
で。明白に来世的である。
キリストの再臨に関する警告二つ。 12章35節以下48節まで。ついで
に「小さな群よ懼(おそ)れるな」という慰めに富んだ32節33節に注意せ
よ。
救われる者は少ないかという質問に答えて。 13章22節から30節まで。
天国への招待。 14章15節から24節まで。
天国実現の状況。 17章20節から37節まで。
財貨委託の比喩。 19章11節から27節まで。
復活者の状態。 20章34節から38節まで。
エルサレムと世界の最後。 終末に関する大説教である。 21章7節か
ら36節まで。
もちろん以上だけで尽きない。全福音書を通じて、直接間接に来世を語る言葉は、至る所に見出される。そしてこれは、単に非ユダヤ的なルカ伝について言ったに過ぎない。新約聖書全体が、同じ思想で満ち溢れている。
即ち、聖書は来世の実現を背景として読むべき書であることを知る。来世抜きの聖書は、味のない、意義のない書となるのである。
「
我等主の懼るべきを知るが故に人に勧む」(コリント後書5章11節)とパウロは言っている。
「懼るべき」とは、この場合においては確かに終末(おわり)の審判が懼るべきであることを指して言ったのである(10節を見よ)。慕うべくしてまた懼るべき来世を前に控えて、聖書殊に新約聖書は書かれたのである。
ゆえに読む者もまた希望と恐怖とを以て読まなければならない。そうでなければ、聖書はその意味を読者に通じないのである。
ところが、今時(いま)の聖書研究はどうか。今時(いま)の聖書研究は、たいていは
来世抜きの研究である。来世問題ほど、いわゆる現代人が嫌うものはない。
殊に来世における神の裁判と聞いては、彼等が忌み嫌って止まないところである。ゆえに彼等は、聖書を解釈するに当って、なるべくこれを倫理的に解釈しようとする。来世に関する聖書の記事は、これを心霊化(スピリチュアライズ)しようとする。
「心の貧しき者は福(さいわい)なり。天国は即ち其人の有(もの)なれば也」とあるので、天国とは人の心の福(さいわい)な状態であると言う。
人類の審判に関わるイエスの大説教(マタイ伝24章、マルコ伝13章、ルカ伝21章)は、ユダヤ思想の遺物であると称して、イエスの大説教ゆえにイエスの熱心を称揚すると同時に、彼の思想が未だユダヤ思想の旧套(きゅうとう)を脱却できていないと憐れむ。
彼等は神の愛を説き、その怒りを言わない。「
それ神の震怒(いかり)は、不義をもて真理を抑ふる人々に向って天より顕はる」(ロマ書1章18節)というパウロの言葉などは、彼等が受け入れないところである。
こうして彼等は―――これらの現代人等は―――浅く民の傷を癒して、平康(やすき)がない所で平康(やすし)平康(やすし)と言うのである。彼等は、自ら神の寵児であると信じ、来世の裁判などは、決して彼等に臨まない事であると信じるのである。
しかしながら、キリスト者(クリスチャン)とは、元々これら現代人のような者ではなかった。彼等は神の愛を知る前に、多く神を懼れた者である。「活ける神の手に陥るは、恐るべき事なり」とは、彼等に共通する信念であった。
彼等がイエスを救主として仰いだのは、この世の救主、即ち社会の改良者、家庭を清くする者、思想を高くする者として仰いだのではない。
殊に来らんとする神の震怒(いかり)の日における彼等の仲保者また救出者として仰いだのである。
「千代経し磐(いわ)よ我を匿(かく)せよ」との信者の叫びは、殊に審判の日において発せられるべきものである。そしてこの観念が強かったので、彼等の説教に力があったのである。
方伯(つかさ)ペリクスは、その妻デルシラと共に、ある日パウロを召して、キリストを信じる道を聴く。時に、「
パウロ公義と尊節(そんせつ)と来らんとする審判(さばき)とを論ぜしかば、ペリクス懼れて答へけるは、汝しばらく退け、我れ便時(よきとき)を得ば再び汝を召さん」(使徒行伝24章24節以下)とある。
そして今時(いま)の説教師、その新神学者、高等批評家、その政治的監督、牧師、伝道師等に無いものは、方伯等を懼れさせるに足りる「
来らんとする審判(さばき)」についての説教である。
彼等は忠君を説く。愛国を説く。社交を説く。慈善を説く。廓清(かくせい
:悪いものをすっかり取り除くこと)を説く。人類の進歩を説く。世界の平和を説く。しかし、「
来らんとする審判(さばき)」を説かない。
彼等は聖書聖書と言うけれども、聖書を説くのではなくて、
聖書を使って自己の主張を説くのである。
願わくば、私もまた彼等の一人として存することなく、神の道を乱さず、真理を現し、明らかに聖書の示すところを説くことを。即ち私が説くところが、明らかに来世的であることを。
主が懼るべき方であることを知り、活ける神の手に陥ることが懼るべきことを知り、迷信だとして嘲られても、今日と言う今日、大胆に、明白に、主の和(やわ)らぎの福音を説くことを(コリント後書5章18節以下)。
完