全集第23巻P33〜
愛の表明
(京都読者会における懇話会席上の感話)
大正5年(1916年12月10日)
「聖書之研究」197号
「
若し汝等我を愛するならば、我誡(いましめ)を守れ」(ヨハネ伝14章15節)
主イエスのこの言葉を、もしこれなりに読むならば、即ち前後の関係から離して読むならば、これは峻厳で、とても行えない言葉である。「誰か之に堪へんや」である。
イエスを愛するならば、その証拠として、彼のすべての戒(いましめ)を守れと言うのである。即ちマタイ伝5章以下の、山上の垂訓に示してあるような戒(いましめ)を、悉(ことごと)く守れと言うのである。そしてこれを守らない者は、彼を愛さない者であると言うのである。
それではイエスを愛する者は誰であろうか。確かに私ではない。私は心に今なお不浄を宿す。私は、私の敵を愛することが出来ない。私は聖父(ちち)が完全であるように完全であることは出来ない。
ゆえに私は、イエスを愛する者ではない。私が彼を愛すると言うのは偽善である。私の不完全な行為が、その最も確かな証拠である。
私は主イエスに「若し汝等我を愛するならば、我誡を守れ」と言われて、私に彼を愛する愛がないことを看破(かんぱ)されたのである。
そしてイエスのこの聖語(みことば)が、そのように解釈され、またそのように使用されて、多くの信者を苦しめ、また躓(つまず)かせたのである。聖書の言葉を、その前後の関係から離して解する危険を、私は殊に著しく、この一節において見るのである。
「誡(いましめ)」という語に、広義の意味がある。また狭義の意味がある。これを広義に解すれば、教誡の全体である。十戒全部である。そして信者にとっては、主イエスの霊的解釈による山上の垂訓の主要部分である。
そしてこれは、守るのが最も難しいことであることは言うまでもない。これを守らなければイエスを愛していないと言われれば、誰も私は彼を愛する者であると公言することは出来ない。
しかしながら、ヨハネ伝のこの場合においては、「誡(いましめ)」という語は、そのような意味に解釈すべきではない。ヨハネ伝ならびにヨハネ書において、「誡」という語には、特別の意味があるのである。即ちこの場合においては、これを狭義に解すべきである。
ここに「誡」と言うのは、戒め全体を指して言うのではない。いわゆる
ヨハネ式の戒めを指して言うのである。その戒めとは何か。
我れ汝等を愛する如く、汝等も亦(また)互に愛すべし。是れ我が誡なり。
(ヨハネ伝15章12節)
此の誡は即ち我等神の子イエス・キリストの名を信じ、彼の我等に命ぜ
し如く、互に相愛すること是れなり。 (ヨハネ第一書3章23節)
イエスが信者を愛されたように、信者は互に相愛しなさいと言うこと、その事が、イエスが信者に下された特別の戒めである。
我等は此誡(いましめ)を彼より授けられたり。即ち神を愛する者は亦、そ
の兄弟をも愛すべしと。 (ヨハネ第一書4章21節)
我等彼の誡に遵(したが)ひて歩むは、是れ即ち愛なり。汝等が始より聞き
し如く愛に歩むは是れ即ち誡なり。 (ヨハネ第二書6節)
そして誡(いましめ)とは何であるかが解って、私達が主題としたイエスの聖語(みことば)の意味は明瞭になるのである。即ち、「
若し汝等我を愛するならば、我誡を守れ」とあるのは、「若し汝等我を愛するならば、我を愛する代りに相互を愛すべし」という意味である。
即ちイエスは、ここに信者が相互を愛して、彼自身に対する彼等の愛を表すことを求められたのである。
人の師となった者はよく知っているのである。
弟子が相互を愛することが、彼等が自分を愛してくれる最も良い道であることを。そしてイエスはここに、師たる者のこの情を言い表されたのである。
彼は弟子等に告げて言われたのである。
若し汝等我を愛するならば……「若し」と言ひて我は汝等に愛なきを憶
(おも)ふに非ず。我は汝等が我を愛するを知る……若し汝等我を愛するな
らば願ふ其愛を相互に対して表はさんことを。
汝等相互を愛するは是れ我
を愛する也
と。
主イエスの愛の表明は、ここにその極に達したのである。彼は弟子たちに愛されるよりは、彼等が相互を愛することを求められたのである。彼等が相互を愛することに勝る喜びはないのである。
イエスのこの心を受けた使徒ヨハネは、その弟子に書き送って言った、「
我が子供等(弟子達を指して言う)の真理を歩む(相互を愛する)を聞くに愈(まさ)れる喜楽(よろこび)我にあるなし」(ヨハネ第三書4節)と。
今や聖父(ちち)の右に座して天におられるキリストも、私達地に存する彼の弟子達について、同じ願を懐いておられるのである。私達が相互を愛するのを見、また聞くのに勝る喜楽(よろこび)は、彼にないのである。
私達は今一堂に集まり、食膳を共にし、また祈祷を共にする。主イエスは、私達と共に居られる。そして彼は、昔その弟子達に言われたように、今また私達に言われる、「
若し汝等我を愛するならば、我誡(いましめ)を守れ」と。
これは峻厳な律法(おきて)の命令ではない。柔和な福音の諭(さと)しである。私達は今肉において主を見ることは出来ない。また彼に仕えることが出来ない。
しかしながら、彼の言葉に従って、彼が愛される私達を、相互に愛することは出来る。私達は相互に愛して、彼を喜ばしまつることが出来る。主イエスが私達から要求される奉仕に、これよりも大きな者はない。
完